太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “その三”

 

 今回からは、先回の文末で述べた

「自分の“力”とは何か、何のために使うのか、ということを考えるようになっていく」という発想をさせる背後の霊的干渉は、当の本人の心(靈)を“上”に向かわせるものであり、またその段階よりももっと“力”を付けさせ、これまでとは違うことをさせようとする背後の霊的干渉であることが考えられる

これについて述べることとします。

 

 ここまで述べてきたように、人間というものは、自分の幸福を求め、また自分の功名心や自尊心のため、いわゆる「満足」というものを得たいがために“力”を欲する。 そのために努力する、エネルギーの贖い(あがない)ということをするものである。

 これ事態が本人の“行”となり、それを観ている霊的存在はその努力に応じて干渉して、“力”を顕現させることをしていくものである。

ただし「それを観ている霊的存在はその努力に応じて干渉して、“力”を顕現させる」というのは、必ずしもその本人が“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性に向かっているのではない、ということが多いのであり、それは自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方という要素があります。

これについて解り易い一例として著書の<5> 事象の形骸化“その八”甘い(亜、魔、出ずる、泉)願い(発振、発信)は、霊的成長を忘れさせてしまう…先生とKellyさん…屁理屈垂れまくる!!

これにおいて、以下のように述べました。

 

「例えば、ある泥棒が世界一の泥棒を目指すとする。そして、その泥棒はうまいやり方の泥棒の術=力を獲得しようとする」

「“力”の感応共振…自分の発振、発信で神の“力”を得ようとする行為でんな。願いは発振、発信で、その願いが実現して“力”を発揮するのは現象化でんな」

「そう…神のオーラを自分の欲望の達成に使うといってもいいね。そのために“力”を得ようとする。それは、いつでも誰でも、自分にとって価値のある何か…価値の高低とか善悪は別にして、それを求めているって言ってもいい。そのために泥棒自身は、泥棒に入った時、精神的な緊張もするだろうし、体力も消耗する。だからそれは贖っている」

「エネルギーを使う…泥棒の“行”“修行”でんな」

「そう。そうやって発振、発信しているわけだ。そしてエネルギーを使ったことで、オーラも拡大していく」

「生体内電流でんな」

「そう。そして泥棒の心の動きとして、泥棒の仕事の成功を願う…泥棒の神にね…神というにはふさわしくないかもしれないが……」

「それは前に話してもらった、神っていう字はエネルギーの回転を示す。(霊的干渉“目上(めうえ)と目下(めした)”“その六” 参照) そやからその泥棒はん…その人にとって、自分より高い存在とのオーラの相互干渉で泥棒の“力”…“術”を得ていく。そういうことでんな」

「そのとおり。だから泥棒にとっての泥棒の神、そういう認識もあるだろう。それは、自分より“力”を持っている何かの霊的存在が神って認識だね。

そして、願った=発振、発信したことにより、泥棒自身に、泥棒の神さんの眷属…さまざまな霊的存在の憑依が起きる。

泥棒が“力”を願ったことから、それを現象化とするためにね」

「現象化は砌(みぎり)でんな。帯電するミネラルで振動の受信をして体と心を構築していく。同時に泥棒のオーラも大きくなり、泥棒の“術”も獲得していく…そやからそれは“力”を顕すために……」

「そう。そういう心と体の構築をしなくては、泥棒として活躍し、その力を顕すことができないともいえる。エネルギーを費やさないと…贖う(あがなう)ことをしないと、その泥棒の“術”は、泥棒の神と思われている存在から“力”を使う許可が出ない。

“力”を得て使うためには、それなりの資格がいるってことだよ。その“力”を具体的に顕すために、その泥棒の霊的成長に応じた程度の存在との感応共振…泥棒の人生を送った浮游霊とか…そういう存在は、泥棒として修行したオーラを持っているわけだ。

それ以外にも、身を隠すのがうまい…そういう習性の動物霊とか…周囲の警戒のために感覚が敏感な動物霊とか…忍足(しのびあし)で歩くのが得意な動物霊とか…そして動物霊は、本能が中心の進化で、だから、自分の身を守る…動物霊はそういうことに長けているだろうからね。そして、逃げ足の速い動物霊とか…金の匂いに敏感な動物霊とか…特に下着泥棒なんか…動物の嗅覚由来の力を発揮している。それは、初めて入った家の中で、獲物を物色する時間を短縮しなければならない。そういう思いに共振する動物霊…下着のありかをすぐに見つけたりするわけだ。こういう事例は、うちのお客さんに聴いたことがある。短時間の間に仕事をしていった下着泥棒がいるってね」

「なるほど…」

「今の泥棒の話…自分の霊的成長度に応じた霊的存在の憑依…エネルギーを使い、だんだんオーラの拡大をしていく。贖う(あがなう)ってことだが、そうやって泥棒の力を持っている存在とのオーラの相互干渉で、泥棒の“力”と“術”を得る霊的干渉が起きる。

それも、ただ単に、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)って視点で観れば、神のオーラの受信…神の力の低振動化ともいえることだ。

神のオーラの低振動化…その過程では、だんだんそれを神から引き継いで、低い霊的存在に低振動化して伝えられる。その段階は無数にあると思う。

そしてそれは、泥棒自身の霊的成長度に応じた霊的存在の憑依ってことになり、泥棒の“力”と“術”を顕すことになる。それは、泥棒自身が“力”を願い、頑張って(元の気を張って)発振、発信した結果でもある。そのことも忘れてはいけない」

「そうでんな…それは泥棒でも“力”を求めている…泥棒って行為を通じて進化していきはるんやな。それも“行”“修行”…でんな」

「そう。そのとおり」

 

読んでいただければ分かる通り、泥棒は泥棒の“行”をして、そのエネルギーの贖い(あがない)に対して霊的干渉があり、泥棒の“術”(“力”の顕現)をなしていく。 これ事態が“力”の獲得と顕現ではあるが、これは人間の考え得る“悪(心の動きの本能化と低振動化)”である。 

そこで気を付けねばいけないのは、「泥棒の“行”」による霊的干渉、主に動物霊ですが、動物霊は人間の考え得る“善悪”など関係が無いのである。 そこでこの場合の、泥棒の“術”(“力”の顕現)として解り易いのがローム太霊講話集の第二十三話

 

 術は中々むずかしいものである…中略…現在名人と呼ばれている人…中略…二百年三百年の修行をした人の霊が或いはその道に達者な奇鬼神天霊神などが、その人の支配霊となって働いているのだと考えるべき…中略…こうして一人の鍛錬した波動の持ち主が何かの繋がりで付いたとなると、その人間は必ず名人になれるのであるから、汝等にしても自分の仕事の上でその術を磨こうとするなら、その道に堪能と言われる大本の神を拝んで、その配下を支配靈として付けてもらうのが一番よい方法ということになる。このように、天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

 

これの下線を引いた部分が、先の泥棒の例であるということであり、泥棒は警察につかまったりして、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしていく、あるいは死んでから泥棒稼業を閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)で見せられて自省(胸の磁性“十”)する、それは先回の

「自分の“力”とは何か、何のために使うのか、ということを考えるようになっていく」

こう言った心(靈)の動きをするものである。

 その心(靈)の動きは、自分の在り方を自分に問うものであるがゆえに

「自分の“力”とは何か、何のために使うのか、ということを考えるようになっていく」という発想をさせる背後の霊的干渉は、当の本人の心(靈)を“上”に向かわせるもの

こうなっていくものである。

 そして、これまで泥棒を稼業としていたものは、考えを変えていき、まっとうに生きる、あるいは死んでしまった者は幽界に於いての自省(胸の磁性“十”)の“行”を完遂する。

 その結果その人間は、心(靈)が育ったということになり得ます。 そうして育った心(靈)は、これまでと思うこと考えることが違ってくるものであり、その「これまでと思うこと考えることが違ってくる」その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となっていくものである。

 

この話は次回に続きます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “その二”

先回の文末で

「何かを達成するには、自分の努力と、努力によって得られた“力”の行使、これだけではダメなのだ。 そこに“神の采配”というものがあるのだ。 ということに気づく。 そして、自分と神、あるいは“上”との関係というものがあるのではないか、と思うものである。 そうして、自分と神、“上”との関係、自分が“力”を得る、そして行使する、そのためにはこれを考えていかねばならない、その認識(悟り、幸取=さとり)に至ったならば…」

ということを述べました。

これについて当の本人がそこまでのことを考える、そこに至るには、自分の思惑の顕現、その目的とすることに対し、相当エネルギーの贖い(あがない)があったはずである。 

そして自分は頑張ったのに自分の思うとおりに力を発揮でき得ない、という、自分としては理不尽に感じるその状況に於いて、自分以外の“力”が作用しているのではないか? ということを考え始める。 

 

この「自分以外の“力”が作用しているのではないか?」と考え始めること事態が、霊的干渉であり、“力”を貸し与えようとする、“力”を付けさせようとする、背後の霊的存在からの通信を受けているものである。 

しかしながら、この段階に於いて当の本人は、自分の背後の存在が“力”を貸し与え、あるいは“力”を付けさせようとしている、通信を受けている、などという霊的干渉ということに理解が及んでいない場合が多い。

それでも、先の「自分は頑張ったのに自分の思うとおりに力を発揮でき得ない、という、自分としては理不尽に感じるその状況」というのは、自分の頑張り以外の何かが作用しているのではないか、と思い始めるものであるし、この「自分の頑張り以外の何かが作用している」と当の本人に思わせ、背後の存在を意識させることが、また、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となるものであり、この感応や“気血栄衛(營)”が進めば進むほど、当の本人は、自分がここまで頑張っても自分の思い通りにならないということに対して、これは自分の“行”なのではないか、という発想もするものである。 またこの「“行”なのではないか、という発想」自体も、背後の通信を受けているからである。

そこでその本人は、“行”を意識して、そのうえでもっともっと努力をする。

またその過程に於いてますます背後の霊的存在との感応や“気血栄衛(營)”が進んでいく。

そして背後の霊的存在は当の本人にもっと“力”を付けさせようとする。 その場合、努力に応じた結果を出す、あるいは背後の霊的存在が干渉して自分が思った以上に結果を出させる、ということを体験させる。 

またこれに相対し、自分の思惑以上の結果が出たとしても、それはいつまでも続くわけではなく、うまくいかなくなる時もあり、いわゆるスランプみたいな時期も体験させる。 

これも背後の霊的干渉により、頑張って(元の気を張って)も頑張っても結果を出させない、そうやってもっともっとその本人に努力させることをもする、ということも起きるものであるし、この繰り返しを行っていくと、当の本人は背後の霊的存在の通信を受けて、自分の思い通りにならないのなら、先人に倣って“行”をすると“力”が得られるのではないか、と思い始める。 

 

この「思い始める」こと事態、当の本人にもっと“力”を付けさせようとする霊的存在の干渉そのものである。 また「当の本人にもっと“力”を付けさせようとする霊的存在の干渉」、これがローム太霊の伝えた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、であったりもする。

ここまで述べてきたことの解り易い具体例として、プロ野球川上哲治が打席に立った際、ボールが止まって見えた、という事例、これも川上哲治本人が野球に於いてエネルギーの贖い(あがない)があった結果、野球に“力”を発揮する霊的な存在、この場合は反射速度を上げるための動物霊(ネコ科の動物など)の憑依が中心でしょうが、この“力”が貸し与えられてひとつの“術”(“力”の顕現)となったということが言い得ます。

もう一つ例を挙げるなら、極真空手大山倍達身延山に籠り、そこで数か月過ごして、自然石を手刀で割ることができるようになった。 その際に大山倍達本人にだけ、自然石の割れ目のようなものが見えるようになった。 これは、身延山にいる様々な霊的存在の感応と“気血栄衛(營)”の結果、こういったことが出来るようになったと分析し得るものである。

 

これらの事柄、自分の努力、エネルギーの贖い(あがない)、これに対する霊的干渉、これは、人間が何かを成し遂げようとするその意志、それを強く思い、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に移す、ということをしなければ、様々な霊的存在は“力”を加えたり“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を貸し与えたりはしない、ということである。

そうやって当の本人は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けて、顕現する、それは“術”(“力”の顕現)として行使する、ということが言えますが、これをしていき、ある程度自分の自尊心と功名心を満たしたとする、それは具体的には、金を得る、名声を得る、などがあって、そのうえで、自分の“力”とは何か、何のために使うのか、自分の努力はいったい何だったのだろうか、ということを考えるようになっていく。

この「自分の“力”とは何か、何のために使うのか、ということを考えるようになっていく」という発想をさせる背後の霊的干渉は、当の本人の心(靈)を“上”に向かわせるものであり、またその段階よりももっと“力”を付けさせ、これまでとは違うことをさせようとする背後の霊的干渉であることが考えられる。

 

この話は次回に続きます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “その一”

先回の文末で

「目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める、ということをしていくなら、それは智性(神性)という心(靈)の行使であり、自分の霊的成長度が高まるものである」

この段階に至る人間は少なく

「そして自分の霊的成長度を高めようとする人間は、自分の人生に“行”をもとめていくものである」

この段階に入る人間はごく少数である。

と述べました。

 そこで今回は、上記文言中の“この段階に至る人間は少なく”“この段階に入る人間はごく少数である”

これについて述べます。

 

まず考えていただきたいこととして、「普通の人生」とか「平凡」とかというあいまいな概念が一般常識と既成概念にありますが、この「あいまいな概念」を持つ、そして「普通の人生」とか「平凡」とか、という言葉を使う方々は、どういう観点で、(自分を含めた)人間の一生というものを観ているのか。 それはどんな人の人生に於いても、良し悪しはあるものである。 幸福なときも不幸な目にあう時もあるものであり、(薄っぺらい)幸福感に酔ったり、迷ったり悩んだり苦しんだりする期間もあるのであり、これらはすべての人に共通ではなく、人それぞれにその幸福感や苦悩の程度には相違があるものであるし、また幸福感や苦悩の程度というのもケースバイケースでもある。

 

その「幸福感や苦悩の程度には相違がある」こういった分析が出来ない方が、「普通の人生」とか「平凡」とか、その言葉や概念を行使する。 それは自分を含めた人の一生をしっかり“観察と認識”しているとは言い難いのであり、ただ漫然と人生を送っている、また自分以外の人生を観ても、そんなものなのだ、としか思わない傾向がある。 

そしてそれは、先の「人生に於いても、良し悪しはあるものである。 幸福なときも不幸な目にあう時もあるものであり、(薄っぺらい)幸福感に酔ったり、迷ったり悩んだり苦しんだりする期間もある」に対して、“神の采配”という要素を感じていない、また“神の采配”などということを真剣に考えたことがない、思ったこともないという、霊的成長度の低い心(靈)であると言い得る。 

こういった人間は、自分の一生に於いて、自身の功名心を満たすために、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得ようとする気持ちもたいして起こらず、よってその努力もたいしてしていないのであり、現状に満足して、ただ普通の平凡な人生を送りたいとか…などと、なんとなく思っていたりもする。 

今述べた、自分の一生に於いて「普通の人生」とか「平凡」とか、それでよいと思う人には、たくさんの“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得ようとする心(靈)の動きがあまりない、よって自分が自分の獲得した“力”を顕現したい、と強く思わない、換言すればそれは自分の功名心とか自尊心とかに由来する努力もたいしてしない、いわゆる頑張る(元の気を張る)ということをあまりしない、ということになっている。

当然のことながら「“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得ようとする心(靈)の動き」、この息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による霊的干渉もあまりないものである。

 

そこで、神は人間を育てようとしている。 

その育つ過程に於いて、人間が頑張ろうとしているなら、“力”を得させる、付けさせる霊的干渉を認め、それによる霊的干渉はあるものである。

また“力”を得た、付けた、その顕現(“術”(“力”の顕現))の過程に於いて、(ローム太霊が教えた)右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするさせたりして、神の代行者たる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はその人間の心(靈)を育てようとする。

 

この「心(靈)を育てようとする」ための、神、“上”の介入、これをどう捉えていくのか。

その過程に於いて自分と神の関係というものを考えることが出来得るのであるが、「普通の人生」とか「平凡」とかと思う霊的成長度の低い心(靈)は、そこまでの体験も、一生のうちにあまりないだろうし、また神の介入が自分の人生にあるものだということに対し、意識もしていない、そこまで考えが及ばない。

また、次のケースも考えられる。

それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)していない場合であり、“上”は常にその本人に対して“神の采配”を気づかせようとしており、人生に於いて様々な体験をさせているのであるが、これに気づかず、ただ漫然と人生を送っている者は、先に述べた通り霊的成長度の低い心(靈)である。

またこういった心(靈)には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信が届かないほど“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応が盛んになっており、アタシの“主護霊”が述べた通り、“主護霊”側の言い回しとしての“動きが取れない”(ローム太霊との出会い 146p参照のこと)という状況になっていて“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信自体を妨害され、本人に届いていないケースが多々ある。 よってそれは単に自堕落に生きているだけ、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の快楽のために生きているだけ、というケースもあり得ます。

 

話を戻し、表題の

“この段階に至る人間は少なく”“この段階に入る人間はごく少数である”

これに至るには、自分が自分の“力”を行使してたくさんの物を得たい、(通貨としての)金が得たい、名誉を得たい、これらすべて功名心と自尊心を満足させたいという心(靈)の動きあってこそのことであり、そのために自分は努力する、そして自分の目的を達成しようとする。

その際に神、神の代行者たる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、介入して、様々な霊的干渉が起き、結果ある程度“力”を顕現することになるのだが、神や“上”から観てその“力”が“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、これにより、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)も体験させたりするものである。

これがまた右往左往と左往右往の一環でもあり、そうしてその人間は、“力”を得て、それを行使する過程で“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を認識する。 

また、自分の在り方と振舞い方を考えるようになる。 というよりも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)によって“善悪”、自分の在り方と振舞い方というものを、認識させられるものであるし、その結果、心(靈)は育っていくものである。

 また、自分は努力する、努力した、しかし、自分の思惑通りに“力”は得られない、また、頑張って(元の気を張って)も頑張っても“力”の行使が出来ないで失敗ばかりする期間を体験させられたりもする。 

こういった体験を通じ、何かを達成するには、自分の努力と、努力によって得られた“力”の行使、これだけではダメなのだ。 そこに“神の采配”というものがあるのだ。 ということに気づく。

そして、自分と神、あるいは“上”との関係というものがあるのではないか、と思うものである。

そうして、自分と神、“上”との関係、自分が“力”を得る、そして行使する、そのためにはこれを考えていかねばならない、その認識(悟り、幸取=さとり)に至ったならば…この話は次回に続きます。

新年明けましておめでとうございます。

 

 昨年、“続”で解釈を行いました“日月神示”黄金の巻 第五十九帖 

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1493.html 

これに以下の文言がありました。

 

“金で世を治めて、金で潰して、地固めして みろくの世と致すのぢゃ。三千世界のことであるから、ちと早し遅しはあるぞ。少し遅れると人民は、神示は嘘ぢゃと申すが、百年もつづけて嘘は云へんぞ。申さんぞ”

 

 この文言に対し以下のように解釈をしました。

「(通貨としての)金に対する依存や執着は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であるがゆえであり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をある程度果たした宇宙人の世界では通貨制度そのものが消失している、たった今の大半の地球人が(通貨としての)金がないと生活できない、また金は権力の象徴である、などと思いがちであるが、今後=アセンション後は通貨制度の無い“世”となり、そこには“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”はいないから、自分の利益のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使する者はおらず、自分とその他万人のために“力”を行使する者だけになるのであるから、(通貨としての)金で物をやり取りするとか、権力を示すとかは消失するのが当然である」

 

 もう一つ “日月神示”黄金の巻 第七十二帖 

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1507.html 

“どんなめぐりある金でも持って居ればよいやうに思うて御座るなれど、めぐりある金はめぐりそのものと判らんか”

 

 この文言に対し以下のように解釈しました。

「これの“めぐりある金”は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に表して得た(通貨としての)金であり、これに関連する霊的干渉は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化につながる、それを“めぐりある金はめぐりそのものと判らんか”と述べているものである」

 

 上記引用の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”というのは、自分の利益、損得、そして本能的な快楽、これを求める心(靈)が中心、いわゆる目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)である。 

そしてこういった心(靈)しか持ちえない人間が努力して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得し、それを行使して(通貨としての)金を集め、自分たちの低い欲望を満たす、その結果として経済が繁栄し、経済の繁栄が基盤となっている社会機構が、たった今、成り立っているのですが、これが“めぐりある金”、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を引き起こしており、この「恨みの連鎖の霊的干渉の現象化」が台頭している今の“世”は、“金で世を治めて”の過程ではあるが、その後“金で潰して”という結果になるものである。

よって先に引用した文言、それは、たった今の経済に依存した社会機構、これの崩壊を示す文言でもあり、必ずその通りになっていくものであり、これ自体がすべての地球人に対する“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)である。

またこれは、今後=アセンション後に移行する際に於いて、自分たちの心(靈)の在り方、自分たちの振る舞い方、これを変えていくためにどうしても体験していかねばならないことでもある。

その過程に於いて、霊的成長度の低い者、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)、これを自分で諌めることが出来ない智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が足らない者は、次の段階に移行しえない。

そこで、自分の人生に於いて自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来ている、自分の在り方、振舞い方を考えうる智性(神性)を持つ、また、今の“世”はおかしいのではないか、と思う方々は、次の段階に移行しうる素地が多少なりともあるものである。

 

これらのことをアタシの文章から読み取っていただき、一人でも多く「次の段階に移行しうる素地」をご自身の認識(悟り、幸取=さとり)としていただきたい。

本年もこれを念頭に於いて、文章作成を中心とした活動を行っていきます。 よろしくお願いします。

 

 児玉登

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを意識し始めること

 先回と先々回で以下のように述べました。

 

「神の子である人間としては、「目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める」ということをしていくなら、それは智性(神性)という心(靈)の行使であり、自分の霊的成長度が高まるものである。 そして自分の霊的成長度を高めようとする人間は、自分の人生に“行”をもとめていくものである」

 

上記文言で述べている通り「“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める」という心(靈)の動きは、目上(めうえ)の脳の行使であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の強化となっていくものである。

 これに相対し、自分の人生、また自分の人生に於いて遭遇する事象、これに“ほんとう”を求めない者というのは、自分にとって都合のよい何かを優先するものである。

この「自分にとって都合のよい何かを優先する」というのは、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の本能的な欲望(八戒(低い欲望に対する八つの戒め)、飲食や性的な事柄など)であったり、目下(めした)の欲望由来の金や物や形骸の権威に対する執着であったり、その執着所以の、自分が手に入れた形骸の権威を守るための保身のための行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)であったりする。 

これらの具体例としてとてもわかりやすい一例を挙げるならば、(形骸の地位を獲得した)政治家が不祥事を起こし、周囲に議員辞職を迫られても(保身の心(靈)の動きが強固に働いているがゆえに)自省(胸の磁性“十”)せず、自分がどう振舞うかをあまり思わないで、その地位に固執する、というケースがあります。 これに類することは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が大多数である今の“世”には、とても多い感があります。 

重複しますが、こういった人間は自分の人生が「まっとう」(まともなさま、まじめなさま)なのかどうかをあまり考えない、仮に考えたとしてもその考えを実際に行使しないで「“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める」ということになり得ない。 

こういった者は死んでから閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)で自分の人生を振り返って自省(胸の磁性“十”)の行をするものである。

(これに関しては“続”のローム太霊講話集解釈を参照のこと)

 

これでは生きている間に

「目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める」

とはなり得ないのであり、当然のことながら自分自身を育てようとする“行”、これを求める過程には至らないと言い得るのですが、こういった霊的成長度の低い人間に於いても、人間は目上(めうえ)の脳が動物とは違うからどんな人であっても多少の智性(神性)を持ち、それだからこそ“善悪”というものをある程度知ってはいる。 

しかしながら霊的成長度の低い者は、それを自分にあてはめて、自分がたった今どうなのかを考えない。 

そういった者は当然のことながら自省(胸の磁性“十”)も出来ておらないのであり、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)というものを自分にあてはめ自分の在り方、振舞い方を考え得るまでしっかり自我が強化されておらず、自我が脆弱であるがゆえに、自我の肥大をして保身などを思い、それ由来の振る舞いしか出来得ないものである。

たった今、地球人の平均的な霊的成長度に於いては、今述べたような人間が多いのが現状であり、最初に述べた

「目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める、ということをしていくなら、それは智性(神性)という心(靈)の行使であり、自分の霊的成長度が高まるものである」

この段階に至る人間は少なく、さらに上記文言に続く

「そして自分の霊的成長度を高めようとする人間は、自分の人生に“行”をもとめていくものである」

この段階に入る人間はごく少数である。

 

 それゆえ、これを読んでおられる方々には、まず

“目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める”

ということをしてもらいたい、ということを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その十二”

今回も、先回に引き続き

「自我が脆弱で悪霊の影響を受けやすく、自分の心(靈)の動きを乗っ取られて恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を起こしているその一例としての犯罪、これを成し遂げてしまっている人間」

これの具体例を挙げることとします。

 

 先回は、最近日本でも多くなった「誰でもいいから殺したい」という事件、そして「アメリカに多い銃乱射事件」を取り上げ、そこには、その犯罪を実行する人間の自我が脆弱であるがゆえに、自分の心(靈)の中の葛藤、これは善か悪かを人間の常識として知っているはずなのに実行してしまう、そこには悪霊の霊的干渉もあるのだが、それだけではなく、重複しますが自我が脆弱であるがゆえに、自分の心(靈)を悪霊に乗っ取られている。  

これの具体例として、まず、著書の<1>で取り上げた事例、それは某市で起きた女児殺人事件、これの裁判において被告が述べた

“悪魔が入り込んだ! もう一人の自分がやった!”

という証言、これは「自分の心(靈)を乗っ取られている」ことによるものである。 そして自分が悪霊の思惑通りに行動していること事態を、自分が“観察と認識”している状況である。

しかしながら先にも述べたとおり、被告自身も「これは善か悪かを(智性(神性)を持っている)人間の常識として知っているはず」であるのは当然である。

 

そこに先回述べた「悪の霊団の影響を受けて、心の中で葛藤があったとしても本人の心(靈)操られて犯罪に及ぶ」という霊的干渉があるものであり、この「心の中で葛藤があった」に於いて、自分が負けてしまって犯罪を実行したのは、自分の思う善を、自分が全うしようとする心(靈)が弱かった、ということが指摘できるものである。

 

今述べた「自分の思う善を、全うしようとする心(靈)が弱かった」、これが所以で起きていることとして、暴行、痴漢、万引き、窃盗、などの犯罪を繰り返す人が挙げられる。

 

また犯罪に限らず、“その一”から“その三”迄に於いて取り上げてきた、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きを、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)で制御、諌める、ということがむずかしい、出来にくい、という事例である。

それは、自分の体がだめになることを知っていても酒色の制限ができない、食べることも制限できない、これは子供の浮遊霊とこういった病気で亡くなった存在の霊的干渉が多いのですが、こういった人たちも「自分の思う善を全うしようとする心(靈)が弱かった」という点で先の事例と共通であり、また、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を諌めることが出来ないこと自体が、自分が“善(神格化の方向性と智性の受信)”を全うしえない心(靈)であるという指摘ができ得る。

 

ここまで「自我が脆弱」であるがゆえに起きている事例を挙げてきました。 

そこで述べたいこととしては、自我の強化がなされていくと

「自分を立派にするのも自分をだめにするのも自分である」

という考えを持つ。 これは自分自身に“善(神格化の方向性と智性の受信)”を当てはめて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を考えるようになっていくことにつながっていく。

この考えは、ある程度心(靈)が育ったなら“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の干渉により芽生えてくる概念ですが、これを自分にあてはめることをする。 それは強く自分にあてはめることをする。 この「強く自分にあてはめる」というのが、自我の強化所以のことである。 

そしてそのうえで考え、そして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するものであり、自我の強化所以のこれらが自分を立派にすることであるということをはっきり認識するようになっていく。

 

このことをはっきりと理解し、自身の認識とするのが、心(靈)の動きとしての智性(神性)であり、また、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の行使である。

 

よって「自分を立派にする」ということを自分が自分に強く望むなら、その心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しないで、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応するものである。

これに相対し、自我が脆弱であるなら、これが出来得ないで、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の霊的干渉に自分の心(靈)が流され、操られたりもするものである。

 

そこでたびたび述べている“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)というのが、自分の心(靈)を育てる大事な要素であることが理解できるはずですし、先回の文末で述べた

「自分自身が“善”を強く思い、自分にあてはめる、その強い意志は自我の強化があってこそなしえるのですが、そうしたなら、その心(靈)の動きに“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)である悪霊は感応しにくくなり、犯罪を実行させない通信を送ってくる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になっていくということを、今回強く述べておきます」

これは今述べたこととほぼ同義ですが、この文章を読んでいただいている方にはこのことをよく知っておいていただき、次回からは先回述べた

「神の子である人間としては、「目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める」ということをしていくなら、それは智性(神性)という心(靈)の行使であり、自分の霊的成長度が高まるものである。 そして自分の霊的成長度を高めようとする人間は、自分の人生に“行”をもとめていくものである」

というテーマに移行していくこととします。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その十一”

 タイトルの「霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊」これについて、“その一”から“その三”迄に於いて取り上げてきたのは、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きを、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)で制御、諌める、ということがむずかしい、出来にくい、という事例であり、その目下(めした)の心(靈)は、自分の体がだめになっても酒色を制限できない、その裏にある霊的干渉はその本人と同じように自分の目下(めした)の心(靈)を諌めて制御することができない霊的存在、多くは浮遊霊であり、その浮遊霊を呼び込んでいるのは自分自身の心(靈)の動き、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によることである。 

いうまでもなくその霊的存在、浮遊霊などと、それを呼び込んでいる本人の霊的成長度は、とても近いのであり、近いからこそ感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)をして、その影響で自分の体も心(靈)も人生も価値のないものにしてしまっているものである。

 

 そして“その四”から“その七”に於いて、目下(めした)の心(靈)の動き中心の人間は、自分の欲望の達成のために“力”を付けて頑張る、それは物欲とか名誉欲とか本能由来の欲望の達成とかという心(靈)の動きが根拠と理由になっているのであり、これを目指す人間はこの世界で如何に金や名誉や形骸の権威を得ようが、その霊的成長度は低いのであり、自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分の欲望の達成のためにしか使わないという人生を送り、この人生を送る者が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”なのであり、その心(靈)の動きに感応する霊的存在は、動物霊、汚い金の精、これを統括する奇鬼神などであるということについて述べました。 

 

 また“その八”から“その十”に於いて、「物欲とか名誉欲とか本能由来の欲望の達成とかという心(靈)の動き」で、自称霊能力者を名乗ったり、イタコや程度の低い霊媒能力を誇示したり、宗教を利用して金もうけをして形骸の権威を得たりしている者、そこに於いて多少なりとも、多くの人間の霊的成長にとって役に立つものもなかにはあるのだが、その対象になっている人間の霊的成長度が低いゆえに、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって高度なことを述べていないし、また間違ったことを述べている傾向もある。

 しかしながら多くの人間の霊的成長度が低いがゆえに、程度の低いことから学ばなければならないのであり、先の「自称霊能力者を名乗ったり、イタコや程度の低い霊媒能力を誇示したり、宗教を利用して金もうけをして形骸の権威を得たりしている者」を通じて少しずつ霊や神やオーラや人間の生き方在り方を考える材料を与えられている、ということもある。

 そして「自称霊能力者を名乗ったり、イタコや程度の低い霊媒能力を誇示したり、宗教を利用して金もうけをして形骸の権威を得たりしている者」と、これに関わっている人間は自我が脆弱で自我の肥大をしているがゆえに、自分たちのやっていることが絶対に正しいとか、他の教えは認めないとか、ということになりがちであり、よってこういう人間は目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める、ということになっていないのだという指摘もさせてもらいました。

 

 そこで、神の子である人間としては、「目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める」ということをしていくなら、それは智性(神性)という心(靈)の行使であり、自分の霊的成長度が高まるものである。

 そして自分の霊的成長度を高めようとする人間は、自分の人生に“行”をもとめていくものである、ということを、これから述べていくつもりなのですが、その前に、“その一”から“その十”で述べてこなかった、とても自我が脆弱で悪霊の影響を受けやすく、自分の心(靈)の動きを乗っ取られて恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を起こしているその一例としての犯罪、これを成し遂げてしまっている人間について、今回は述べることとします。

 

 近年、この国に於いても、「誰でもいいから殺したい」などという犯罪が目立つようになり、しかもこの犯罪が衝動的であるという事例が多い。

 この報道を観て、アタシの著書をお読みになり、恨みの連鎖の霊的干渉ということを理解されておられる方は、こういった犯罪に加担している悪霊が、人間に殺され食われた家畜の浮遊霊が中心であることが、判り、解る筈です。 

 そもそも人間は、動物とは違い、程度の差こそあれ、多少なりとも智性(神性)があるのだから、他者を殺す、などということは“悪(心の動きの本能化と低振動化)”である、ということを思うはずであり、また他者をどんなに憎み恨んだとしても、他者を殺してはいけないという考えを持つものである。

 そこで、「他者を殺してはいけないという考えを持つ」としても、これを行使しないで他者を殺す、また「誰でもいいから殺したい」などという犯罪に及ぶ者は、「他者を殺してはいけない」という考えを自分に行使できなかった、その結果が犯罪に及ぶということになる。

 しかしながら、「犯罪に及ぶ」その過程に於いて、心(靈)の中で葛藤もあったはずである。 

 その葛藤は、他者を殺したい、しかしそんなことはするべきではない、その思いや衝動を自制するという心(靈)の動きもあったのだが、結果として犯罪を実行してしまうのは「その思いや衝動を自制するという心(靈)の動き」が弱く、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化に加担している家畜の浮遊霊やそれを統括する“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の思惑に捉われてしまっている、その影響があるからであり、これに本人の心(靈)の動きに悪い影響を与える薬物や酒などが加わると、ますます悪霊に操られていくものである。

 そしてそれは犯罪を実行する本人の自我が脆弱であるがゆえに「その思いや衝動を自制するという心(靈)の動き」が弱い、また自分の心(靈)の動きが“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか、をしっかり見極めなかったのだ、と言え、これも霊的成長度が低いのであるということであり、この自我が脆弱な人間の心(靈)は、先の「人間に殺され食われた家畜の浮遊霊が中心」の悪の霊団の影響を受けて、心の中で葛藤があったとしても本人の心(靈)操られて犯罪に及ぶのである。

 

 また、今述べている「この国に於いても、「誰でもいいから殺したい」などという犯罪」に限らず、他者を殺すその行為の裏には、「悪の霊団の影響を受けて、心の中で葛藤があったとしても本人の心(靈)操られて犯罪に及ぶ」という霊的干渉があるものである。

 その霊的干渉の具体例としては、アメリカに多い銃乱射事件、これはアメリカ自体が他国の戦争に加担して兵器産業で経済を潤わせてきた結果で、アメリカが加担した戦争被害者、その霊はアメリカを恨み憎んでいるがゆえに、自我の脆弱な人間に影響を与え、憑依して、自分たちの意趣返しをするものである。

 

 こういった事例は具体例を挙げていくときりがない。

 そこでこのブログを読んでいらっしゃる方は、人間の悪の行為にどれほどの霊的干渉があり、霊的干渉が人間の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の理由と根拠になりうることを理解して、人間の心(靈)の“上”と“下”というものを判って、さらに霊的干渉というものもしっかり理解してもらいたいものです。

 

 話を戻しますが、どんなに自分が他者を殺したいと思ったとしても、自分自身が“善”を強く思い、自分にあてはめる、その強い意志は自我の強化があってこそなしえるのですが、そうしたなら、その心(靈)の動きに“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)である悪霊は感応しにくくなり、犯罪を実行させない通信を送ってくる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になっていくということを、今回強く述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その十”

先回取り上げた

「多少、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に役立っていると見做される方々」

これらが

「幼稚な心(靈)に対し、霊や神やオーラや宇宙の成り立ちなどを教えるに当たっては、まず幼稚な心(靈)が理解し得る段階の事柄から教えなければ…」

ということを指摘しました。

 そしてそれは

「今までのほとんどの既成宗教や新興宗教の教義の大要となっている」

ということも述べました。

 これらが“日月神示”表記の“取次”であり、その“取次”で、漁夫の利を得ようとする全く程度の低い“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)となっていることも述べました。 

 

 多くの方に気づいて欲しいこととして、上記のものに関わって自分たちは信仰をしている、そして自分たちはまっとうな人生を送っている、また、自分たちはある程度の幸福を得ている、と思っているならば、それは錯覚であり、これを端的に言えば、上記のものにその“真偽”を見出そうとしないならそれは、信仰ごっこである。

 

 また“真偽”を見出そうとしないその心(靈)の動きは、高い存在、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しないのであり、当然のことながら自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げる“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在と感応しやすい心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を自分が構築しているものである。

 こういった事柄は既に著書の<5> 智性(神性)なき心(靈)はアセンションを見誤る を中心に述べたことではあります。

 

そこで、その信仰ごっこなどの対象に“真偽”を見出して、“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める、ということが、上記のものに関わっている人間に対しての試金石(物事の価値や成否の行方などを見極めるための指標となる事柄)となりうるものである。

また、この“真偽”“ほんとう”の事柄、これを見出し、自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とはなにか、これを考え、その考えを実践して、そして“行”に入っていくならば、それは、神の子としての人間としてまっとうな人生を送ることになり得るものである。

 

そこで今述べたことを踏まえて、ローム太霊講話集をお持ちの方は、第二十六話の

元来道とか宗教とかは、人間の歴史の半面を支配するものであって、極端な言い方をすれば宗教の顕われが歴史であるということ…中略…それは人間のいろいろな思想の具体化されたものが宗教であり、現実に流通している宗教の思想がその時代の心であるから、歴史そのものは科学であるとともに道であると言え…以下略…

自分たちはこれの“道である”というその対象を求めている、ということを自分たち自身にあてはめ、そして

人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来る…中略…あることは、科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じ…中略…そうするとこの一点自体もやはり一つの仮定であって…中略…それが果たしていつまで有効に使えるかは疑問

こうしてその“”に対し“ほんとう”の事柄を見出そうとしているのが自分たちであることを解り、そして

電話が発達してラジオになりテレビになったように、その期間に長短の差はあっても、常に進化していることには変りない…中略…人間の想像もかくあるべきもの

こうやって人間は“上”の通信を受けている、そして

過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点、…中略…その最後は再び一点に合致するのであって、そこに神の意図がある

こうやって“ほんとう”の事柄を見出させようとしているのが“神の意図”であることを神の子である人間はよく知って、そして

神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造しようとあらゆる努力をされ、そのためには科学者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられている…中略…が、こういうのを宗教というから語弊があるのであって、これは一つの道にある人間の心の問題なのである

この文言に先の“神の意図”と、神の子である人間は“ほんとう”の事柄を見出していかねばならない、また“ほんとう”の事柄を見出そうとすること自体が“神の意図”と合致しているのである。

またそれは“神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造しよう”ということでもあるのを知り、これがまた神の子としての人間の“一つの道にある人間の心の問題”ということを知らねばならない。

 

 そこで、今取り上げた文言を詳細に読んでいただき、冒頭で述べた事柄、信仰ごっこなどの対象、これはいったいどういうものなのかをしっかり考えていただき、先の

頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられている

これを得るための手法が、先に述べた「“真偽”“ほんとう”の事柄を見出す」という心(靈)の動きに“上”が感応して通信を送るのだ、ということを理解してもらいたいし、これを行っていれば必ず神の子としてまっとうな道に入っていくものである、ということを解っていただきたい。

 そこでその具体例としての事柄を“続”で以前取り上げたことがあるのでリンク先を読んでいただき、

 

Kellyさん、爆睡中に、A野さんの愛犬たち登場!…夢の中で、人間に見られる習性について、犬たちと論じる。 “その三十三” (アズキ君とセブンちゃん、教育について疑問を持ち、心が育つということを鑑みる“その八”)

 

その記事で取り上げた霊媒をほめそやす会員たちと、その霊媒を使って語った存在の言葉に「“真偽”“ほんとう”の事柄を見出す」、これを追い求めたその方の人生、その相違をよく見出だしてもらい、多くの方が信仰ごっこから脱却してもらう、その意図でこの文章を作成しているものであることも理解していただきたいものであることを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その九”

 先回

“「自称、霊能力者、などと名乗っている人間」”を十把一絡げに論じるのは少々無理があるので、まず、程度の低い者から…

とことわりを入れ、この「程度の低い者」は(通貨としての)金への執着と低い功名心と自尊心を満たすという、まったく低い心(靈)の動きしかしていないことを指摘しました。

 今回は、多少、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に役立っていると見做される方々を中心として述べることとします。

 

 たった今多くの人間の霊的成長度における認識、いわゆる平均的地球人のそれでは、金や物を集めるのが幸福であるという既成概念を持つ、また、神、死後の世界、霊、これらについて真摯に考えたことがない、という全く程度の低い幼稚な霊的成長度である。

 こういった幼稚な心(靈)に対し、霊や神やオーラや宇宙の成り立ちなどを教えるに当たっては、まず幼稚な心(靈)が理解し得る段階の事柄から教えなければ無理がある。

 

 それだからこそ、人間の成長をもくろんでいる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、霊媒体質の人間を利用して、霊の存在を示すことをして、人間には肉体以外の要素としての霊を教え、死後のことも教え、それぞれの人間が物質(肉体)をまとった心(靈)であることを教え、心(靈)は死後も成長をするということを教え、そして、死後の事象に於いて自分がどの段階に移行しうるのか、それは生きている間の心(靈)の動きとその結果である行いによることを教え、これが生きている間の人間の在り方や振る舞い方、これを考えうる材料となり、またそこに善悪の教えもある、またオーラを教え、神の摂理の初歩的なことを教え、一切万象が神の所作であることを考えうる材料を教え…etc

これらが、今までのほとんどの既成宗教や新興宗教の教義の大要となっている。

 

 そこでこれらは、表題の「霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊」とは違い、霊媒体質の人間を通じて人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を助長する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在である。 

これらの存在は、たびたび述べているように〇〇太神とか大天使とか名乗ったりするのだが、その代理というのが妥当である。 それは、〇〇太神や大天使などという高い存在は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)のあまりない平均的地球人と感応しえない、レベルが違いすぎるからである。

 

そして、先に指摘した「ほとんどの既成宗教や新興宗教の教義の大要」というのは、教団や教祖が違っていてもほぼ同じ内容であり、人間の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めるための“行”、神格化のための“行”について述べているものは極端に少ない。 

それは、その霊媒体質の人間の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の程度により、あまり高い存在と感応しえない、高い存在の通信をダイレクトに近い状況として受け得ることができない、これは振動の法則性としての“変圧”(アミの本で使われた概念。高い振動の霊的存在はいきなり低い心(靈)とは、感応共振しない)の過程があるからである。

 

そこで「あまり高い存在と感応しえない、高い存在の通信をダイレクトに近い状況として受け得ることができない」というのが、先の「幼稚な心(靈)が理解し得る段階の事柄から教えなければ無理がある」に当たることではある。

それは、その霊媒体質の人間の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が脆弱であるからである。

よって、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の程度が低い霊媒体質の人間には、智性が低いがゆえの“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の憑依もある。

そしてその“下”の憑依は、“上”が教えた「教義の大要」を利用して、教団などを作り信者を集め、低い功名心と自尊心を満たす、そして営利として金を集め、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)所以の欲望を満たすということをしがちである。

そうなっていくならそれは、表題通りの、「霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊」これの所作であることが指摘出来得るものである。

 

また、先の「教義の大要」を引用しありがたそうな言葉や概念を利用しただけ、下世話な言い方をすればパクっただけの教団も多く存在し、単に「教義の大要」の利用だけをして漁夫の利を得る、それは、誰もが知るオウム真理教などはまさにこれに相当するものであり、これを利用して漁夫の利を得る、また自分たちの利益や形骸の名誉や保身のため犯罪まで犯す、という結果になり、これにあこがれる人間はいまだに存在しているが、これは単に霊的成長度が低く動物に近い心(靈)であることが指摘出来、またこれは先に述べた「「程度の低い者」は(通貨としての)金への執着と低い功名心と自尊心を満たすという、まったく低い心(靈)の動きしかしていない」に当たるものである。

 

余談になりましたが、最初に述べた「教義の大要」を伝えた者、これを“日月神示”では、“取次”という表記で表しており、また「教義の大要」を利用して信者を集め金を集め形骸の権威を示し、営利活動を行うならそれは“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)に当たるものである。

これに相対し、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めることが人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であることを伝え得る“御用”を使命として持ち、それを行使するのが“日月神示”表記の“役員”であることを付け加えておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その八”

 今回は、先回文末で述べた“「自称、霊能力者、などと名乗っている人間」”について述べます。 

  それで、“「自称、霊能力者、などと名乗っている人間」”を十把一絡げに論じるのは少々無理があるので、まず、程度の低い者から述べることとします

 

 本題に入る前に述べなければならないこととして、一般に霊能力に対する認識がとても低い、ただただ現象が起きることだけをもてはやす傾向がある。 

 その具体例としては、一般常識で考えられない珍しそうな現象をおこす、それは財布の中身を当てる、失せものを探す、行方不明の人間を探す、人の過去を暴く、(著書でも述べた例ですが)念力で鉄球を浮かしたりする、それ以外には、念写をする、透視をする、火の無いところに火を出したりするetc. 

こういう“力”を発現させる霊的存在が、自分は〇〇神である、〇〇大天使である、と名乗ることが多いですが、これはたいして高くない霊的存在が自分を認めてほしい、着目させたい、という心理所以の威圧や恫喝、示威行為である。

また、こういった「〇〇神である、〇〇大天使である」という存在が憑いたと誇示したりする「自称、霊能力者」が多いですが、「“力”を発現させる霊的存在」は神や天使ではなく、低い霊的存在である。

あるいは、死んだ人を呼び出す、イタコ、口寄せ、の類。

そして、たいして霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)も開いていないのに、あなたのオーラを見て運命を占いましょう、あるいは、悪因縁の解除をする、あるいは除霊をする、という詐欺まがいのことをする。

こういうことをありがたがる人間は、霊に関することはエンターテイメントであるという認識を持っていることが多く、霊的な事柄で人間の本質や現津(あきつ)、観察され得る事象の真実を理解していく、などという考えは持っていないことが多いのであり、こういった人間をだますのは非常に簡単で、先に述べた「一般常識で考えられない珍しそうな現象をおこす」ということをすれば着目される、あるいはインチキをしてさも“力”を発現させたかのように見せかける、そしてそれらを材料に金を集め自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を満たすことができると考えるのが、多くの「自称、霊能力者」であり、こういった人間の低い心(靈)の動きをよく解っているのが、先回も引用したローム太霊講話集第二十話の

道に外(はず)れた術のある…中略…年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある…中略…非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い

これの“年功を積んだ動物霊など”である。

 

 また“道に外(はず)れた術”に当たるのが「一般常識で考えられない珍しそうな現象をおこす」ということであり、これを発現させて「自称、霊能力者」の低い功名心と自尊心を刺激すること事態を“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる”とも述べておられる。

 

そもそもそんなものは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって役にも立たないものであり、それこそそれは先に述べた「霊に関することはエンターテイメントであるという認識を持っている」人間が「ありがたがる」ことであるし、「自称、霊能力者」たちも“道に外(はず)れた術”を「ありがたがる」、そしてそれを利用して漁夫の利を得る、という低い認識しかもっていないからである。

 

もうひとつ、“道に外(はず)れた術”という太霊の言葉の裏には、これらは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)には何の役にも立たないがゆえにこういう言い回しをされているということに気づかねばならない。

 

こういった人間の末路は、まず“年功を積んだ動物霊など”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して“道に外(はず)れた術”を行使して霊的成長度の低い人間からほめそやされ、そして金を集め、先に述べた「目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を満たす」ということをするのであれば、これは先回も引用したローム太霊講話集第三話

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

これの“本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”に該当することであり、ある程度の期間はこれが続くが“一部の奇鬼神や低級な霊達”と“年功を積んだ動物霊など”はその人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻むことが目的であるので、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の介入があって“道に外(はず)れた術”の発現は“上”によって止められたりする。 

 要は“道に外(はず)れた術”の行使、その顕現は長くは続かないということですが、そこにおいて「自称、霊能力者」はその時点で、何を思うのか、思うべきなのか。

そこで、多くの者はインチキをしてでも本能的な欲求や金や低い功名心や自尊心に執着をするのであり、その心(靈)の動きは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)であるから、高い存在、“上”の通信を受けられないほどの悪霊を呼び寄せて感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)していく。 

そうなっていくと、これはアタシが知っている実例としても、本人の精神が低級な霊的干渉の影響によって気がふれたようになるものである。 

当然こういう状況で死を迎えたならば、先の“低級な霊達”の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団(ローム太霊が述べた概念)の一員となり、その後の行先は地獄である。

 

そこでこの「“道に外(はず)れた術”の発現は“上”によって止められたりする」事例において、自分は何を思うか、何を思うべきなのか。

結論を言ってしまえば、大事なのは、そこに於いて、自分の在り方を思う、思わされる、ということが“神の采配”であり試練である、と認識すべきであり、そして“道に外(はず)れた術”の行使が、自分にとっても自分以外にとっても、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の役には立たない、ということを自覚していかねばならないのである。

また、そんな段階に於いて自分自身は、まだまだほんの少し霊的干渉について知っただけであるということを、自分でよく解らねばならない。

 

しかしながら、そこまで自省(胸の磁性“十”)して上記の認識を得るには、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を諌め、そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応して“気血栄衛(營)”して、肉体も心(靈)も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出す、それはローム太霊講話集 第二十話の

人間の為すべき善行”と“人間として最もよき判断に従っての善悪正邪を弁(わきま)え得てこそ神の道をゆくと言える

この文言を参考として、神の子である人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これを見失しなうことなく、自分に“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“を律して自分が進化をしていかなければならない、ということが必須であることを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その七”

 先回文末で述べた

「動物霊が人間を利用して自分たちの望みを達成しようとする」の詳細”、

これを理解するにあたっては、ローム太霊講話集第三話

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

これの“低級な霊達”に相当するのが人間に意趣返しをしたい動物霊であり、その感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)は“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるため”に“人間に物を与えてその欲望を利用する”のである。 この動物霊の意趣返しとは、著書で述べている通り、動物霊は人間を恨んで妬んでいるものが圧倒的に多いし、人間に利用された、という思いが動物にはあるからであり、生きている間、動物の心(靈)はそれほど育ってはいないが、すべての霊は死後も育つのであるがゆえに、人間が動物に対し何を行ってきたか、ということがだんだん分かっていくものであり、それゆえに動物霊の多くは、人間に意趣返しをしたいものである。

 

 そこで幾度も述べていることではありますが“一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させる”これと“人間に物を与えてその欲望を利用する”これの“その欲望”は、双方とも目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)である。

よってこの双方は目下(めした)の心(靈)同士の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)であることが解かるはずです。

 

 もうひとつ、ローム太霊講話集 第二十話の

人間の為すべき善行”と“人間として最もよき判断に従っての善悪正邪を弁(わきま)え得てこそ神の道をゆくと言える

これを考え行使するのは、地球上の生物で唯一智性(神性)を持つ“人間”であるのですが、これに相対して

道に外(はず)れた術のある…中略…年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある…中略…非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い

ということを述べておられます。

これの“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き”というのが先の“人間に物を与えてその欲望を利用する”これに当たるものである。 

 

そして前後しますが“道に外(はず)れた”は、まっとうではない、それは“人間の為すべき善行”と“人間として最もよき判断に従っての善悪正邪を弁(わきま)え得てこそ神の道をゆくと言える”ということを無視している。 

それは、本来“人間”は神の子であるからこそ、こう在るべきだ、と太霊は述べておられるのですが、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心の心(靈)、換言すれば、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が足らない、動物に近い心(靈)である、それは第二十一話の“動物的なあたまの持主”であると、これが出来ないものである。

 

そこで“”とは、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をこの事象に顕現することであるが、この顕現を“その欲望”、“動物的なあたまの持主”という、ここまで幾度も述べてきている目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)中心で行う、または行うために努力をする、その際の本人の心(靈)の動きは重複しますが目下(めした)の心(靈)の動き中心であり、本能的な欲求を満たしたい、そのために金に執着する、そして低い功名心を満たしたい、名声を得て形骸の地位を得たい、それが所以の努力、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)しか持ちえない動物霊が憑依してくるものである。

そこで動物霊には“善悪”などという認識が無いから、この動物霊との感応共振と“気血栄衛(營)”は先の“道に外(はず)れた術のある…中略…年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”となり、そしてその人の人生に対して太霊は

非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い

と述べておられる。

 この一例を挙げれば、若くして急死するスポーツ選手や芸能人などであり、スポーツの於ける身体能力、筋肉の発達など、それと芸能人の演技、歌唱、お笑いのための道化、これらのための“術”(“力”の顕現)を得る、その際に人間に意趣返ししたい動物霊が感応して“力”を貸し、先の“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”となった場合、というよりもこういった“一部の奇鬼神や低級な霊達”の霊的干渉によって本人たちの本能的な欲求は“力”を行使することにより生きている間のわずかな期間は満足するだろうが、急死して肉体を捨てたのち、その心(靈)はたいして霊的成長をしていないから“現界”をさまよう浮遊霊などになりさがり、悪の霊団の一員となって、自分が生きていた時の心(靈)の状態に近い人間、それは目下(めした)の心(靈)中心の人間に憑依して悪影響をおよぼすものである。

またこれらが先の「悪の霊団」のトップのもくろみであるし、結果として人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻む悪魔の思惑に加担しているものである。

このことをローム太霊講話集と縁があった方は、しっかり認識してもらいたいものです。

 

 今回は“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”これの具体例としてスポーツ選手と芸能人などを挙げましたが、次回は自称、霊能力者、などと名乗っている人間について述べることとします。

 

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その六”

ローム太霊講話集の第三話に

一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

ということが述べられています。

 

 この“人間に物を与えてその欲望を利用する”この“欲望”は目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)を指しているのであり、本能的な欲求、それは著書で述べた八戒(低い欲望に対する八つの戒め)であり、その欲求から派生する心(靈)の動き、その心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は“一部の奇鬼神や低級な霊達”と感応する。

 

 そこで、霊的成長度の低い人間は“その二”で述べた

目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を満たすがために生きてきた、欲望を満たしたいがために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使した、ということが言え、“力”を金もうけにしか使わない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”

こういった人生を送る。

 

同じく霊的成長度の低い人間は“その三”で述べた

  •  自分に制限を加えることが出来なくて自分の欲求の赴くままに生き、その結果自分に与えられた課題である病気を克服するということをしないで死んだ人間が、浮遊霊になり下がり悪の霊団の一員となる
  •  こういう人は、飲食に対する欲求、そのために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け“力”を行使して、金を集め金儲けに執着する、これが経済の発展の裏事情でもある

その人たちの人生に於いて、目先の欲望の達成のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け、その“力”を行使して欲望の達成のために頑張ってきたのといえます

ということになりえる。

 

同じく霊的成長度の低い人間は“その四”で述べた

“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視してまっとうではない方法で金を集める人間、金額の大きさしか分からない人間、漁夫の利を得ようとする人間、自分の金のために他者が不幸になろうが意に介さない人間、当然のことながらこう言う人間は霊的成長度が低く、この心(靈)の動き、願い、希望、祈り、これらがすべて息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、またこれを達成しようとする努力で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得して行使して、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をなしていく

こういう人間である。

 

 これら“その二~その四”までの引用は、霊的成長度の低い人間は自分の低い欲望、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き、この低い心(靈)の動きが中心であり、それは「低い欲望」であるということ (ただし霊的成長度の低い人間は「低い欲望」を低いと認識しえない傾向がある)。

そしてこの低い心(靈)の動きよる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がない、自分の低い心(靈)を諌める“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“がない。 よって“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視する、また自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)心(靈)である。 

よってその人はその「低い欲望」の達成のために努力をして“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をえるが、それは(通貨としての)金に対する執着所以の努力である。

また、その息吹による感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)があり、その際に“人間に物を与えてその欲望を利用する”という“一部の奇鬼神”そして“低級な霊達”の感応と“気血栄衛(營)”があるものである。

 

さらに、これらに“利用”された人間の多くは、たいして心(靈)が育たないままの死を迎え、死んでから浮遊霊に成り下がる。 

それは先の“低級な霊達”の一員となり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の構成員となって同じような死を迎える人間を増やしていくものである。

 

こういったことをローム太霊は冒頭で引用した文言で人間に教えているのである。

 

よって、これら“人間に物を与えてその欲望を利用する”その悪霊たちは、ここまで述べてきた浮遊霊、もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊、汚い金に由来する金の精などであることを、ローム太霊講話集からしっかり読み取り、これらの霊的干渉を、自分たちの現実、現津(あきつ)、観察され得る事象、“世”にあてはめて考える。

これをしっかり考えたうえで、自分はたった今、何を思い、何を考えるべきなのか、現実、現津(あきつ)、観察され得る事象、“世”に於いて自分はどう振舞うべきかを自分で決めることをする。 

この「決める」にあたって、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を考える、いうなれば智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“を行使して、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)を諌めるということを考えていかねばならない。

そうしなければ、自分は神に近づいていけないのだ、ということを、太霊の文言から読みとる、ということをローム太霊と縁が多少でもあった方々にはしっかり考えていただき、そこで得られた認識(悟り、幸取=さとり)を、自らの生きる指針としなければならない、ということを述べておきます。

 

次回からは“その五”で述べた

動物霊は当然のことながら金を使ったことがない、金を使って物を手に入れるという経験がないがゆえに、金を使うことに執着するものである。 また、(通貨としての)金が人間の“力”であるということも思うものである。 それゆえ動物霊が人間をねたみ恨んでいるならば、人間を利用して自分たちの望みを達成しようとするものである。 この「動物霊が人間を利用して自分たちの望みを達成しようとする」の詳細

これの

「動物霊が人間を利用して自分たちの望みを達成しようとする」の詳細

について述べていくこととします。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その五”

 今回も先回同様“その三”で述べた以下の文言について詳細に述べます。

 

「目先の欲望の達成のために“力”を付けて頑張ったことが中心の人生…中略…物欲とか名誉欲とか本能由来の欲望の達成とかという心(靈)の動きが根拠と理由になっているのであり、そこに先の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の行使はあまりなく、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の行使もあまりなかったと言え…中略…その息吹に感応する存在は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をあまり行使しないで死んだ人間、冒頭で述べた浮遊霊、それと、もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊、汚い金に由来する金の精などが中心」

 

これについて先回は「汚い金に由来する金の精」のことを述べました。 

今回は、上記文言から「もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊」について述べることとします。

 

 著書やブログに於いて、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)という表記をよく使いますが、これは智性(神性)という心(靈)を持つ人間でありながら智性(神性)を行使しえない動物に近い心(靈)であるということです。

 この「動物に近い心(靈)」の心(靈)の動きは、本能由来の欲望、食欲や性欲など、これを智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)で制御できないという“その一~その三”で述べたことに相当し、またその欲望の達成のため頑張ろうとするものであるし、この「欲望の達成」のうらに、金に対する執着というものが派生する。

 この「金に対する執着」についてですが、智性(神性)無き心(靈)、霊的成長度の低い心(靈)の人間は、自分の「欲望の達成」のためにたくさんの金を集めようとするものであるし、この「たくさんの金を集めようとする」際に、智性(神性)を持つ人間としてのみ考え得る事柄の“善悪”を無視する者がとても多いが、この「“善悪”を無視する」というのが、人間としてもともと持っている智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使していない心(靈)の動きである。 

 

この「智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使していない心(靈)の動き」というのは、“善悪”ということを理解しえない、判らない、という動物の心(靈)と霊的成長度の程度が同じであることが指摘出来得るものである。 

 

また動物霊は当然のことながら金を使ったことがない、金を使って物を手に入れるという経験がないがゆえに、金を使うことに執着するものである。 また、(通貨としての)金が人間の“力”であるということも思うものである。 

それゆえ動物霊が人間をねたみ恨んでいるならば、人間を利用して自分たちの望みを達成しようとするものである。 

この「動物霊が人間を利用して自分たちの望みを達成しようとする」の詳細については別の機会に述べることとします。

 

話を戻し、「智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使していない心(靈)の動き」、その心(靈)の動きは、「目先の欲望の達成」を中心に考えているものであるし、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の考えである、自分はどう生きるべきか、どう在るべきか、どう振舞うべきか、という神の子の人間として考えなければならないことを考えない傾向が観られ、すでに述べた神や悪魔に対する認識というものがしっかり出来上がっていないものである。

(これについては過去記事の 神に対しての認識の無さ、悪魔に対しての認識の無さ、を参照のこと)

 

そしてその「心(靈)の動き」は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、オーラとなり、先の「動物の心(靈)と霊的成長度の程度が同じである」がゆえに、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応せず、動物霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するものである。 

 

この感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)により、その人にはたくさんの動物霊が憑くものである。

その状態においての“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)により、その人はますます動物に近い心(靈)となっていくものであるし、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対し逆行することである。

 

この「動物に近い心(靈)」の持ち主の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、

先の「目先の欲望の達成」のため「金に対する執着」が中心の考えを持ち、金さえ儲かればよいと考え、そこに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きが加わり、例えば商売に於いては、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の指針である“正当な報酬”ということを考えずに、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをしてでも金を儲けようとするし、そこに於いて自分の在り方とか振舞い方に“善”ということを当てはめず、儲けた金額だけを重要視するものであるが、こういった心(靈)は動物化した心(靈)であると言い得る。 またこれが“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”“四つ足”の意味合いでもある。

 このことについては、ここまでこの文章を読まれた方々に、具体的な事柄にあてはめて考えていただきたいものですが、いろいろな方々とお話ししても「具体的な事柄にあてはめて考え」ということができない方が多い感がありますので、誰にでもわかるような具体例をひとつ挙げるならば、最近、(人間の価値観としての)高い地位にある人たちに於ける高額な接待が表面化した報道がありました。 こういった人間たちは何を求めて仕事を頑張ってきたのか、どういう心(靈)の動きをしてきた人生なのか、これを考えていただき、これに関わった人たちは、てんで霊的成長度は低いということが指摘出来るということを解っていただきたいものです。 

 

 またこういった程度の低い人間、動物霊と同じような心(靈)の動きをしている人間に、何かのきっかけで人を恨んだり妬んだりする事象があって、その際の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)により、人間に殺されたことを恨んでいる家畜の浮遊霊がたくさん感応して憑いて、自我が脆弱で憑いた存在に心(靈)を乗っ取られたならば、家畜の浮遊霊の意趣返しとして、人間を殺してでも自分たちの利益を得ようとする心(靈)の動きとなる。 

それは犯罪となり、もっと規模の大きなものとしては戦争の原因ともなりうる。

これも具体例として挙げておきますが、この犯罪や戦争に於いて恨みの連鎖の霊的干渉の現象化に加担する悪霊はますます増える、これがたった今の地球の現状で、このことが最近“続”で解釈を行った“日月神示” 梅の巻 第二十六帖の

“金(きん)では治まらん、悪神の悪では治まらん、ここまで申してもまだ判らんか、金では治まらん、悪の総大将も其の事知って居て、金で、きんで世をつぶす計画ざぞ”

これに相当することであるということも述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その四”

先回の文末で以下の事柄を述べました。

 

「目先の欲望の達成のために“力”を付けて頑張ったことが中心の人生…中略…物欲とか名誉欲とか本能由来の欲望の達成とかという心(靈)の動きが根拠と理由になっているのであり、そこに先の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の行使はあまりなく、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の行使もあまりなかったと言え…中略…その息吹に感応する存在は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をあまり行使しないで死んだ人間、冒頭で述べた浮遊霊、それと、もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊、汚い金に由来する金の精などが中心」

 

これを要約すれば、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する存在は、“その一”“その二”で取り上げた浮遊霊、動物霊、汚い金に由来する金の精、であるということ。

これらは当然のことながら“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)ではなく“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の霊的存在である。 

 

ことに「汚い金に由来する金の精」、これは“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視してまっとうではない方法で金を集める人間、金額の大きさしか分からない人間、漁夫の利を得ようとする人間、自分の金のために他者が不幸になろうが意に介さない人間、当然のことながらこう言う人間は霊的成長度が低く、この心(靈)の動き、願い、希望、祈り、これらがすべて息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、またこれを達成しようとする努力で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得して行使して、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をなしていく。 

その結果として金を得るのですが、これに付随して金の精も集まる。 

その金の精は、ローム太霊講話集 第二十七話で述べられている通り
妖精は単に精とも呼ばれ…中略…細菌のような下等動物から植物、鉱物更に雲、風などの自然現象に至る迄、森羅万象に存在…中略…言わばその念の固(かた)まりが物質化したようなもの…中略…この精と妖精とは大体同じものを指すのである

この“念の固(かた)まりが物質化したようなもの”という、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による結果としての汚い金の精は、人の目下(めした)の欲望、その達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかによって金を得る。 また奪い取られた側は奪い取られたことに対する恨み、また妬み、怒り、悲しみ、などの心(靈)の動きがあり、これも息吹となりその念によって金の精も“その念の固(かた)まりが物質化したようなもの”、いわゆる“現界”において“創造”されているものである。

そして太霊は同じく第二十七話で、金の精の性質を教えておられる。

金の妖精は、人間の善悪などには関(かか)わりなく、一旦好きとなったらその者にこびり付いて離れない…中略…性質は頗る単純…中略…金の嫌いな気分になれば忽ちいなくなってしまうし、金の好きな波動を起こせば直ぐに寄ってくる

この“人間の善悪などには関(かか)わりなく”そして“一旦好きとなったらその者にこびり付いて離れない”というのが、たった今たくさんの金を所持し、それを使って目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の欲望を満たし形骸の権威をふるっている人間に“こびり付いて離れない”のである。

そしてそれは“人間の善悪などには関(かか)わりなく”、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視して金を集めた際に、その金に付随しているのが汚い金の精である。

 

重複しますが、「目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の欲望を満たしている人間」には「智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をあまり行使しないで死んだ人間、冒頭で述べた浮遊霊、それと、もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊」と感応し、これらをたくさん憑けており、その霊的干渉の影響を受けているものであるから、ますます目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが増していっているものであり、その憑依によって自分のまっとうな心(靈)の動きは阻害され、さらに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の「自分の在り方を鑑みよ」という通信も届かなくなる。

それはアタシの“主護霊”がS会=紫光会の主護霊会で述べたように、

何重の層を背負ったら、どうにもならんのだ。動きが取れない”(ローム太霊との出会い 146p参照)

となるものである。

 

 そこで前後しますが、「目先の欲望の達成のために“力”を付けて頑張ったことが中心の人生」、たった今は、こういった人間が高い評価を受け、成功者であるとほめそやされているものである。

 今述べた「高い評価を受け、成功者であるとほめそやされている」という人たち、近年こういった人たちが「馬脚を露わす」(化けの皮が剥がれる、隠していた悪事がばれる、明らかになる)という事例がいくつも報道されています。 

こういった人たちは、こういった人たちと同程度の人間から見れば、先の「高い評価を受け…以下略…」ではあるのですが、人間としてはまっとうではない、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視して金を儲け、人をだますようなことをして形骸の権威を獲得してきたのであり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から評価されることではない。

 

しかしながらこういった人間も、その低い段階から少しずつ“上”に向かう、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しつつあるので、“神の采配”として“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)もその人の人生に介入し、その人の心(靈)が育つ方向性に導くものである。 

そのために、先に述べた「馬脚を露わす」ということを“上”はさせるものであり、その結果、人の批判を受け、社会的制裁を受け、自分で自分の人生を恥じる、これは“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)であり、それを体験したうえでこれから自分がどう振舞うか考えるようになっていく。

 

この「考えるようになっていく」(これは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもあります)ということ事態、心(靈)が育つ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出すことであることを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その三”

“その一”“その二”に於いて、

 

  • 霊的成長度の低い人間は「自分が死んだあとは何もないのだ」と思い込んでいる人が多い 
  • 自分に制限を加えることが出来なくて自分の欲求の赴くままに生き、その結果自分に与えられた課題である病気を克服するということをしないで死んだ人間が、浮遊霊になり下がり悪の霊団の一員となる
  • こういう人は、飲食に対する欲求、そのために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け“力”を行使して、金を集め金儲けに執着する、これが経済の発展の裏事情でもある
  • 経済の発展により、金持ちだけが金や物を集め目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を満たし、その裏で飢餓貧困が起き、子供の浮遊霊がどんどん増えていく。 さらに、美食の追求のために家畜を殺し家畜の浮遊霊も増え、飢餓貧困と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望中心の心(靈)のまま死んでいく霊も増えていく
  • これらの霊は当然のことであるが、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊であり、この悪霊が同じような死に方をする人をますます増やしていく

 

ということを述べました。

 

 上記引用に於いて

「自分が死んだあとは何もないのだ」と思い込んでいる人

「自分に与えられた課題である病気を克服するということをしないで死んだ人間」

「金を集め金儲けに執着する」という人

こういった人たちは、

自分がなぜ生きているのか?何のために生き、何をなすべきなのか?

という、

“神の子としての人間”が考えなくてはいけない事柄をしっかり考えたことがない、またそこまで心(靈)が育っていないと言えます。

 

そしてそれはその人たちの人生に於いて、目先の欲望の達成のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け、その“力”を行使して欲望の達成のために頑張ってきたのといえます。 

 

(もっともそれ以前に、たいして頑張らないで裕福な一生を送るというケースもありますが、これらに関してはローム太霊講話集第二十一話

ある神はある霊を人間界に送り出して、物質欲を満喫させる修行によって新しい霊にすることもある

というローム太霊の説明が理解しやすい)

 

 こういった人生に於いて、先の「自分がなぜ生きているのか?何のために生き、何をなすべきなのか?」ということを考えなかったその心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、どんな存在と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)しているのか。

これに関しては真逆のことから説明すると理解しやすく、それは先の「自分がなぜ生きているのか?何のために生き、何をなすべきなのか?」という心(靈)の動きは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)によるものであり、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の行使といえ、こういったことを考えれば考えるほどその息吹は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)となるものであるし、「自分がなぜ生きているのか?何のために生き、何をなすべきなのか?」の答えを求めようとすること自体が霊的成長の一歩でもある。

 

しかしながら今回取り上げているケースは、これをたいしてしてこなかった人生であり、目先の欲望の達成のために“力”を付けて頑張ったことが中心の人生である。

この人生は、物欲とか名誉欲とか本能由来の欲望の達成とかという心(靈)の動きが根拠と理由になっているのであり、そこに先の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の行使はあまりなく、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の行使もあまりなかったと言えます。

そしてその息吹に感応する存在は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をあまり行使しないで死んだ人間、冒頭で述べた浮遊霊、それと、もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊、汚い金に由来する金の精などが中心である。 

こういった霊的存在の霊的干渉は、すでに述べたように“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受けにくくなり(主護霊の立場での言い回し“動きが取れない”)、冒頭で述べた「悪の霊団」の影響を受けて死んでいき、その後「悪の霊団」の一員となって、自分と同じような条件、それは心(靈)の動き誓い、またそれは同じような霊的成長度の人間なのですが、その人に憑いて自分同じような人生を送ることをさせる。

これがその「悪の霊団」を構成する霊を増やしていくものである、ということを述べておきます。