現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その十”
先回取り上げた
「多少、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に役立っていると見做される方々」
これらが
「幼稚な心(靈)に対し、霊や神やオーラや宇宙の成り立ちなどを教えるに当たっては、まず幼稚な心(靈)が理解し得る段階の事柄から教えなければ…」
ということを指摘しました。
そしてそれは
「今までのほとんどの既成宗教や新興宗教の教義の大要となっている」
ということも述べました。
これらが“日月神示”表記の“取次”であり、その“取次”で、漁夫の利を得ようとする全く程度の低い“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)となっていることも述べました。
多くの方に気づいて欲しいこととして、上記のものに関わって自分たちは信仰をしている、そして自分たちはまっとうな人生を送っている、また、自分たちはある程度の幸福を得ている、と思っているならば、それは錯覚であり、これを端的に言えば、上記のものにその“真偽”を見出そうとしないならそれは、信仰ごっこである。
また“真偽”を見出そうとしないその心(靈)の動きは、高い存在、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しないのであり、当然のことながら自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を妨げる“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の存在と感応しやすい心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を自分が構築しているものである。
こういった事柄は既に著書の<5> 智性(神性)なき心(靈)はアセンションを見誤る を中心に述べたことではあります。
そこで、その信仰ごっこなどの対象に“真偽”を見出して、“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める、ということが、上記のものに関わっている人間に対しての試金石(物事の価値や成否の行方などを見極めるための指標となる事柄)となりうるものである。
また、この“真偽”“ほんとう”の事柄、これを見出し、自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とはなにか、これを考え、その考えを実践して、そして“行”に入っていくならば、それは、神の子としての人間としてまっとうな人生を送ることになり得るものである。
そこで今述べたことを踏まえて、ローム太霊講話集をお持ちの方は、第二十六話の
“元来道とか宗教とかは、人間の歴史の半面を支配するものであって、極端な言い方をすれば宗教の顕われが歴史であるということ…中略…それは人間のいろいろな思想の具体化されたものが宗教であり、現実に流通している宗教の思想がその時代の心であるから、歴史そのものは科学であるとともに道であると言え…以下略…”
自分たちはこれの“道である”というその対象を求めている、ということを自分たち自身にあてはめ、そして
“人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来る…中略…あることは、科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じ…中略…そうするとこの一点自体もやはり一つの仮定であって…中略…それが果たしていつまで有効に使えるかは疑問”
こうしてその“道”に対し“ほんとう”の事柄を見出そうとしているのが自分たちであることを解り、そして
“電話が発達してラジオになりテレビになったように、その期間に長短の差はあっても、常に進化していることには変りない…中略…人間の想像もかくあるべきもの”
こうやって人間は“上”の通信を受けている、そして
“過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)を推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点、…中略…その最後は再び一点に合致するのであって、そこに神の意図がある”
こうやって“ほんとう”の事柄を見出させようとしているのが“神の意図”であることを神の子である人間はよく知って、そして
“神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造しようとあらゆる努力をされ、そのためには科学者の頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられている…中略…が、こういうのを宗教というから語弊があるのであって、これは一つの道にある人間の心の問題なのである”
この文言に先の“神の意図”と、神の子である人間は“ほんとう”の事柄を見出していかねばならない、また“ほんとう”の事柄を見出そうとすること自体が“神の意図”と合致しているのである。
またそれは“神はこの理論と実際とを融合(とけあわ)さして、地球の上にその理想を創造しよう”ということでもあるのを知り、これがまた神の子としての人間の“一つの道にある人間の心の問題”ということを知らねばならない。
そこで、今取り上げた文言を詳細に読んでいただき、冒頭で述べた事柄、信仰ごっこなどの対象、これはいったいどういうものなのかをしっかり考えていただき、先の
“頭脳に神智の閃(ひらめ)きすら与えられている”
これを得るための手法が、先に述べた「“真偽”“ほんとう”の事柄を見出す」という心(靈)の動きに“上”が感応して通信を送るのだ、ということを理解してもらいたいし、これを行っていれば必ず神の子としてまっとうな道に入っていくものである、ということを解っていただきたい。
そこでその具体例としての事柄を“続”で以前取り上げたことがあるのでリンク先を読んでいただき、
その記事で取り上げた霊媒をほめそやす会員たちと、その霊媒を使って語った存在の言葉に「“真偽”“ほんとう”の事柄を見出す」、これを追い求めたその方の人生、その相違をよく見出だしてもらい、多くの方が信仰ごっこから脱却してもらう、その意図でこの文章を作成しているものであることも理解していただきたいものであることを述べておきます。