太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その十二”

今回も、先回に引き続き

「自我が脆弱で悪霊の影響を受けやすく、自分の心(靈)の動きを乗っ取られて恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を起こしているその一例としての犯罪、これを成し遂げてしまっている人間」

これの具体例を挙げることとします。

 

 先回は、最近日本でも多くなった「誰でもいいから殺したい」という事件、そして「アメリカに多い銃乱射事件」を取り上げ、そこには、その犯罪を実行する人間の自我が脆弱であるがゆえに、自分の心(靈)の中の葛藤、これは善か悪かを人間の常識として知っているはずなのに実行してしまう、そこには悪霊の霊的干渉もあるのだが、それだけではなく、重複しますが自我が脆弱であるがゆえに、自分の心(靈)を悪霊に乗っ取られている。  

これの具体例として、まず、著書の<1>で取り上げた事例、それは某市で起きた女児殺人事件、これの裁判において被告が述べた

“悪魔が入り込んだ! もう一人の自分がやった!”

という証言、これは「自分の心(靈)を乗っ取られている」ことによるものである。 そして自分が悪霊の思惑通りに行動していること事態を、自分が“観察と認識”している状況である。

しかしながら先にも述べたとおり、被告自身も「これは善か悪かを(智性(神性)を持っている)人間の常識として知っているはず」であるのは当然である。

 

そこに先回述べた「悪の霊団の影響を受けて、心の中で葛藤があったとしても本人の心(靈)操られて犯罪に及ぶ」という霊的干渉があるものであり、この「心の中で葛藤があった」に於いて、自分が負けてしまって犯罪を実行したのは、自分の思う善を、自分が全うしようとする心(靈)が弱かった、ということが指摘できるものである。

 

今述べた「自分の思う善を、全うしようとする心(靈)が弱かった」、これが所以で起きていることとして、暴行、痴漢、万引き、窃盗、などの犯罪を繰り返す人が挙げられる。

 

また犯罪に限らず、“その一”から“その三”迄に於いて取り上げてきた、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きを、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)で制御、諌める、ということがむずかしい、出来にくい、という事例である。

それは、自分の体がだめになることを知っていても酒色の制限ができない、食べることも制限できない、これは子供の浮遊霊とこういった病気で亡くなった存在の霊的干渉が多いのですが、こういった人たちも「自分の思う善を全うしようとする心(靈)が弱かった」という点で先の事例と共通であり、また、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を諌めることが出来ないこと自体が、自分が“善(神格化の方向性と智性の受信)”を全うしえない心(靈)であるという指摘ができ得る。

 

ここまで「自我が脆弱」であるがゆえに起きている事例を挙げてきました。 

そこで述べたいこととしては、自我の強化がなされていくと

「自分を立派にするのも自分をだめにするのも自分である」

という考えを持つ。 これは自分自身に“善(神格化の方向性と智性の受信)”を当てはめて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を考えるようになっていくことにつながっていく。

この考えは、ある程度心(靈)が育ったなら“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の干渉により芽生えてくる概念ですが、これを自分にあてはめることをする。 それは強く自分にあてはめることをする。 この「強く自分にあてはめる」というのが、自我の強化所以のことである。 

そしてそのうえで考え、そして行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)するものであり、自我の強化所以のこれらが自分を立派にすることであるということをはっきり認識するようになっていく。

 

このことをはっきりと理解し、自身の認識とするのが、心(靈)の動きとしての智性(神性)であり、また、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の行使である。

 

よって「自分を立派にする」ということを自分が自分に強く望むなら、その心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しないで、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応するものである。

これに相対し、自我が脆弱であるなら、これが出来得ないで、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の霊的干渉に自分の心(靈)が流され、操られたりもするものである。

 

そこでたびたび述べている“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)というのが、自分の心(靈)を育てる大事な要素であることが理解できるはずですし、先回の文末で述べた

「自分自身が“善”を強く思い、自分にあてはめる、その強い意志は自我の強化があってこそなしえるのですが、そうしたなら、その心(靈)の動きに“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)である悪霊は感応しにくくなり、犯罪を実行させない通信を送ってくる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になっていくということを、今回強く述べておきます」

これは今述べたこととほぼ同義ですが、この文章を読んでいただいている方にはこのことをよく知っておいていただき、次回からは先回述べた

「神の子である人間としては、「目前の事象に対して“真偽”を見出して“ほんとう”の事柄を、自分自身が追い求める」ということをしていくなら、それは智性(神性)という心(靈)の行使であり、自分の霊的成長度が高まるものである。 そして自分の霊的成長度を高めようとする人間は、自分の人生に“行”をもとめていくものである」

というテーマに移行していくこととします。