現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その八”
今回は、先回文末で述べた“「自称、霊能力者、などと名乗っている人間」”について述べます。
それで、“「自称、霊能力者、などと名乗っている人間」”を十把一絡げに論じるのは少々無理があるので、まず、程度の低い者から述べることとします
本題に入る前に述べなければならないこととして、一般に霊能力に対する認識がとても低い、ただただ現象が起きることだけをもてはやす傾向がある。
その具体例としては、一般常識で考えられない珍しそうな現象をおこす、それは財布の中身を当てる、失せものを探す、行方不明の人間を探す、人の過去を暴く、(著書でも述べた例ですが)念力で鉄球を浮かしたりする、それ以外には、念写をする、透視をする、火の無いところに火を出したりするetc.
こういう“力”を発現させる霊的存在が、自分は〇〇神である、〇〇大天使である、と名乗ることが多いですが、これはたいして高くない霊的存在が自分を認めてほしい、着目させたい、という心理所以の威圧や恫喝、示威行為である。
また、こういった「〇〇神である、〇〇大天使である」という存在が憑いたと誇示したりする「自称、霊能力者」が多いですが、「“力”を発現させる霊的存在」は神や天使ではなく、低い霊的存在である。
あるいは、死んだ人を呼び出す、イタコ、口寄せ、の類。
そして、たいして霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)も開いていないのに、あなたのオーラを見て運命を占いましょう、あるいは、悪因縁の解除をする、あるいは除霊をする、という詐欺まがいのことをする。
こういうことをありがたがる人間は、霊に関することはエンターテイメントであるという認識を持っていることが多く、霊的な事柄で人間の本質や現津(あきつ)、観察され得る事象の真実を理解していく、などという考えは持っていないことが多いのであり、こういった人間をだますのは非常に簡単で、先に述べた「一般常識で考えられない珍しそうな現象をおこす」ということをすれば着目される、あるいはインチキをしてさも“力”を発現させたかのように見せかける、そしてそれらを材料に金を集め自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を満たすことができると考えるのが、多くの「自称、霊能力者」であり、こういった人間の低い心(靈)の動きをよく解っているのが、先回も引用したローム太霊講話集第二十話の
“道に外(はず)れた術のある…中略…年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある…中略…非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い”
これの“年功を積んだ動物霊など”である。
また“道に外(はず)れた術”に当たるのが「一般常識で考えられない珍しそうな現象をおこす」ということであり、これを発現させて「自称、霊能力者」の低い功名心と自尊心を刺激すること事態を“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる”とも述べておられる。
そもそもそんなものは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって役にも立たないものであり、それこそそれは先に述べた「霊に関することはエンターテイメントであるという認識を持っている」人間が「ありがたがる」ことであるし、「自称、霊能力者」たちも“道に外(はず)れた術”を「ありがたがる」、そしてそれを利用して漁夫の利を得る、という低い認識しかもっていないからである。
もうひとつ、“道に外(はず)れた術”という太霊の言葉の裏には、これらは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)には何の役にも立たないがゆえにこういう言い回しをされているということに気づかねばならない。
こういった人間の末路は、まず“年功を積んだ動物霊など”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して“道に外(はず)れた術”を行使して霊的成長度の低い人間からほめそやされ、そして金を集め、先に述べた「目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を満たす」ということをするのであれば、これは先回も引用したローム太霊講話集第三話
“正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである”
これの“本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用する”に該当することであり、ある程度の期間はこれが続くが“一部の奇鬼神や低級な霊達”と“年功を積んだ動物霊など”はその人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を阻むことが目的であるので、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の介入があって“道に外(はず)れた術”の発現は“上”によって止められたりする。
要は“道に外(はず)れた術”の行使、その顕現は長くは続かないということですが、そこにおいて「自称、霊能力者」はその時点で、何を思うのか、思うべきなのか。
そこで、多くの者はインチキをしてでも本能的な欲求や金や低い功名心や自尊心に執着をするのであり、その心(靈)の動きは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)であるから、高い存在、“上”の通信を受けられないほどの悪霊を呼び寄せて感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)していく。
そうなっていくと、これはアタシが知っている実例としても、本人の精神が低級な霊的干渉の影響によって気がふれたようになるものである。
当然こういう状況で死を迎えたならば、先の“低級な霊達”の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団(ローム太霊が述べた概念)の一員となり、その後の行先は地獄である。
そこでこの「“道に外(はず)れた術”の発現は“上”によって止められたりする」事例において、自分は何を思うか、何を思うべきなのか。
結論を言ってしまえば、大事なのは、そこに於いて、自分の在り方を思う、思わされる、ということが“神の采配”であり試練である、と認識すべきであり、そして“道に外(はず)れた術”の行使が、自分にとっても自分以外にとっても、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の役には立たない、ということを自覚していかねばならないのである。
また、そんな段階に於いて自分自身は、まだまだほんの少し霊的干渉について知っただけであるということを、自分でよく解らねばならない。
しかしながら、そこまで自省(胸の磁性“十”)して上記の認識を得るには、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望を諌め、そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応して“気血栄衛(營)”して、肉体も心(靈)も進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出す、それはローム太霊講話集 第二十話の
“人間の為すべき善行”と“人間として最もよき判断に従っての善悪正邪を弁(わきま)え得てこそ神の道をゆくと言える”
この文言を参考として、神の子である人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)、これを見失しなうことなく、自分に“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“を律して自分が進化をしていかなければならない、ということが必須であることを述べておきます。