太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 生業(なりわい)中心の“行”に於ける霊的干渉

 

 先回の文末の

 

生業(なりわい)に於ける霊的干渉であるから、その者の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に関わる高い霊的干渉というのは無いであろうことが言え、生業(なりわい)の中で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を発揮して、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということがあって自分の在り方や振る舞い方を考えていったとしてもそれは、“一”=智性=1番目のオーラの強化、ということになかなか繋がらないものであり、生業(なりわい)の“行”の場合はほとんど2~3番目のオーラの強化となっているものである。

それは、生業(なりわい)中心の人生に於いての心(靈)の動きとしては、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、までの“行”である、ということになり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結びつく、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”は対して行えていない

 

今回は上記文言中の

生業(なりわい)に於ける霊的干渉である

それは、“一”=智性=1番目のオーラの強化、ということになかなか繋がらないものであり、生業(なりわい)の“行”の場合はほとんど2~3番目のオーラの強化となっている

これについて述べることとします。

 

 そもそも生業(なりわい)の“行”というのは、物や金、また“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示すことをして自分の低い功名心を満たそうとする、ということが動機になっているものである。

これが今の地球人の当りまえであり、その中でどれくらい努力したのか、頑張ったのか、そしてどれくらいの対価を得たのか、という点でしか、人間の価値というものを評価していない傾向があるが、これがそもそも人間としての“ほんとう”の価値、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という点に於いて、その価値というものを見誤った評価の仕方でもある。

 

 また、この「今の地球人の当りまえ」の人生の過程に於いての個々の心(靈)の動き、如何に自分たちが心(靈)の満足と幸福と思うことを得るか、そのために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付ける努力をして、その“力”を“術”(“力”の顕現)とし、これを行使して、その代償、対価を得ようとする。 

 この過程に於いても、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は課題、試練、苦難、を与えて、その者を育てようとする、そうするとその者は、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをして、自分の在り方振舞い方を見出そうとするが、その際の霊的干渉というものは、生業(なりわい)に於ける存在であり、それは先の

「「今の地球人の当りまえ」の人生の過程に於いての個々の心(靈)の動き」

これの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によることなので、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を付けさせようとする“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は、ほとんど無いということが言いうる。

また、先の

「地球人の当りまえであり、その中でどれくらい努力したのか、頑張ったのか、という点でしか、人間の価値というものを評価していない」

という価値観しか持っていない人間の“主護霊”は、その人間の生まれ落ちた際の条件

(これについては https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2022/11/06/004329 この記事を参照のこと)、生業(なりわい)の“行”を頑張る、これをしっかり行わせる、というその人生に沿った“主護霊”であり、その人間の人生に於いてその者の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めようとするほどの思惑を、たとえその“主護霊”が持っていたとしても、それを行使することが出来ない。

よってその者に、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高め得る“行”に霊縁を付けるとか、遭遇させ得るとか、あるいは、たとえその者が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得し得る太陽凝視という“行”を知ったとしても、その“行”に“ほんとう”の価値を見出させるほどの通信を送ることが出来ないとか、ということが指摘出来得る。

 

(こういった現状があるから、太陽凝視ということを知ったとしても、太陽凝視を不食のためのものだけと思う、エンターテイメント扱いする、という人間が多いのであり、それは“日月神示”春の巻 第二帖 

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1602.html 

これの

“特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが”

これの“九分通りしくじるのぢゃ”に当たる人間であるということです)

 

 これらの事柄がローム太霊講話集第四十四話の

人間の体は大別すると、肉体、幽体、霊体、神体(これは本体とも元体とも言う)の四つから成り立っているが、このうち肉体と幽体とは総支配霊とその配下の支配霊達が指導しており、霊体は主として主護霊が指導しており、神体は主護霊の上の主護神人と一般に守り神と呼ばれる神々が指導しておる

という文言の内容と合致することであり、また第四十三話ではっきり述べておられる通り

生業(なりわい)のことになると凡て支配霊の領分である

ということでもあるのであるから、生業(なりわい)中心の人生を送る者、その者の心(靈)が育つ、というのは、第四十四話の“肉体と幽体とは総支配霊とその配下の支配霊達が指導”に当たり、“霊体は主として主護霊が指導しており、神体は主護霊の上の主護神人と一般に守り神と呼ばれる神々が指導しておる”ということがその者の人生にあまり無いのであり、智性(神性)は得られにくいということが言いうる。

そしてそれは、先回の

「生業(なりわい)の中で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を発揮して、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということがあって自分の在り方や振る舞い方を考え」

これが中心になるのであり、よって

「それは、“一”=智性=1番目のオーラの強化、ということになかなか繋がらない」

ということになる。

 

 またその生業(なりわい)中心の人生の極端なものとして、ローム太霊講話集第三話

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

ということになりがちであることが指摘出来、これは例えば一攫千金を目指す者、これには人間のように物を集めたり金を使ったりしたことのない動物霊、また一獲千金を夢見て挫折して死んだ浮遊霊とかがその者の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応して憑依する、また解りやすい例として政治家にも同様に金や物に執着する動物霊と浮遊霊、そして縄張りを示す動物霊が感応するとか、プロスポーツ選手にも金や物に執着する動物霊や、ことにスポーツの技というものは動物のそれを利用しないと達者になれないので動物霊が憑くとか、芸能人も、その演技をするという息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に浮遊霊が感応し、どれくらい自分を無くしてその浮遊霊の言いなりになるのか、ということがよい演技を生み出すことになっているとか、こういったことは例を挙げるときりがないのですが、この文章を読んでいらっしゃる方は人間の所作に於ける霊的干渉というものを見出せる視点を持っていただきたいですし、これらの活躍にこの“人間に物を与えてその欲望を利用”に当たることが多く、それはその人間の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き、本能や低い功名心、それによる自我の肥大、この息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による低い霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)、これが中心の人生であったりする。 

 

こういった低い霊的干渉が中心であるなら、その者の人生はたいして霊的成長、智性(神性)の獲得と強化ということはほとんど無く、その低い霊的干渉により心(靈)が乗っ取られ、それでもその者は人生に於いてその生業(なりわい)に“神の采配”があって試練を与えられ、失敗をしたりして自省(胸の磁性“十”)の“行”をするものであるが、その際に心(靈)が折れて、人間を恨んでいる霊的存在の影響を受けやすくなって自殺する事例も多々あるものである。

 またこういった霊的成長度の人間は、世の為、人の為、という言葉を口にしても、それは、単に言葉だけで人を欺こうとする者であったりもする。 この“欺く”ということ事態、智性(神性)無き心(靈)の所作であり、動物霊や浮遊霊に見られるものであり、その影響を受けているのでその者の智性(神性)が高まるわけがない。

例えば政治家や、既成宗教関係者や、宗教を模した詐欺商法に関わるものなどが、世の為人の為、という言葉を使っても、それは単に欺いているだけであり、また元旦の記事に引用した“日月神示”表記の“誠一つ”ではない。 そしてそれは、言葉を巧みに使って自分の利益を得るという“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”特有の“術”(“力”の顕現)であったりもするし、その“術”(“力”の顕現)に加担する霊的存在は先に述べた通りである。

 

 そこで余談になりますが、たびたび引用している“世為人為”というS会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉は、一切万象への奉仕、全体の幸福を考える、そのための自分のエネルギーの贖い(あがない)、ということであり、この文言の解釈にはその解釈した人間の霊的成長度というものが如実に表れるものである。 

その低い解釈や認識では、たとえ世の為、人の為に、と思い、そこでエネルギーを贖って(あがなって)自分が行う行為、これに対して、対価を求めるとか、代償を求めるとか、あるいは自分の低い功名心を満たすとか、あるいは自分の身の回りの範疇だけに於いてこれを考えるとか、という心(靈)の動きがあったならそれは、この文言に対する解釈がてんで低く、そう思うものは霊的成長度が低いのだということであり、これに相対し、霊的成長度の高い者の“世為人為”は、代償を求めずただただ神にその結果を任せてエネルギーの贖い(あがない)をしていくのだ、ということである。

そこで解りやすいのはローム太霊講話集第二話

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う。この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない

これの“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない”と述べられている通りのことが今の人間の現状である。

そこで余談ついでで述べますが、アタシ自身が考え得る“世為人為”の最たるものとしては、ローム太霊講話集第六話の

神が人間のために尽される

“創造”の“主(ヌシ)”は、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対価を求めず、ただただ人間の進化のために息吹きしているということである、そう思える…ということを述べておきます。