太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 霊的成長度の低い心とその息吹に感応する悪霊“その四”

先回の文末で以下の事柄を述べました。

 

「目先の欲望の達成のために“力”を付けて頑張ったことが中心の人生…中略…物欲とか名誉欲とか本能由来の欲望の達成とかという心(靈)の動きが根拠と理由になっているのであり、そこに先の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の行使はあまりなく、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の行使もあまりなかったと言え…中略…その息吹に感応する存在は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をあまり行使しないで死んだ人間、冒頭で述べた浮遊霊、それと、もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊、汚い金に由来する金の精などが中心」

 

これを要約すれば、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する存在は、“その一”“その二”で取り上げた浮遊霊、動物霊、汚い金に由来する金の精、であるということ。

これらは当然のことながら“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)ではなく“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の霊的存在である。 

 

ことに「汚い金に由来する金の精」、これは“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視してまっとうではない方法で金を集める人間、金額の大きさしか分からない人間、漁夫の利を得ようとする人間、自分の金のために他者が不幸になろうが意に介さない人間、当然のことながらこう言う人間は霊的成長度が低く、この心(靈)の動き、願い、希望、祈り、これらがすべて息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、またこれを達成しようとする努力で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得して行使して、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をなしていく。 

その結果として金を得るのですが、これに付随して金の精も集まる。 

その金の精は、ローム太霊講話集 第二十七話で述べられている通り
妖精は単に精とも呼ばれ…中略…細菌のような下等動物から植物、鉱物更に雲、風などの自然現象に至る迄、森羅万象に存在…中略…言わばその念の固(かた)まりが物質化したようなもの…中略…この精と妖精とは大体同じものを指すのである

この“念の固(かた)まりが物質化したようなもの”という、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による結果としての汚い金の精は、人の目下(めした)の欲望、その達成のために他者を欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかによって金を得る。 また奪い取られた側は奪い取られたことに対する恨み、また妬み、怒り、悲しみ、などの心(靈)の動きがあり、これも息吹となりその念によって金の精も“その念の固(かた)まりが物質化したようなもの”、いわゆる“現界”において“創造”されているものである。

そして太霊は同じく第二十七話で、金の精の性質を教えておられる。

金の妖精は、人間の善悪などには関(かか)わりなく、一旦好きとなったらその者にこびり付いて離れない…中略…性質は頗る単純…中略…金の嫌いな気分になれば忽ちいなくなってしまうし、金の好きな波動を起こせば直ぐに寄ってくる

この“人間の善悪などには関(かか)わりなく”そして“一旦好きとなったらその者にこびり付いて離れない”というのが、たった今たくさんの金を所持し、それを使って目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の欲望を満たし形骸の権威をふるっている人間に“こびり付いて離れない”のである。

そしてそれは“人間の善悪などには関(かか)わりなく”、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視して金を集めた際に、その金に付随しているのが汚い金の精である。

 

重複しますが、「目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の欲望を満たしている人間」には「智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)をあまり行使しないで死んだ人間、冒頭で述べた浮遊霊、それと、もともと智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持っていない動物霊」と感応し、これらをたくさん憑けており、その霊的干渉の影響を受けているものであるから、ますます目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが増していっているものであり、その憑依によって自分のまっとうな心(靈)の動きは阻害され、さらに“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の「自分の在り方を鑑みよ」という通信も届かなくなる。

それはアタシの“主護霊”がS会=紫光会の主護霊会で述べたように、

何重の層を背負ったら、どうにもならんのだ。動きが取れない”(ローム太霊との出会い 146p参照)

となるものである。

 

 そこで前後しますが、「目先の欲望の達成のために“力”を付けて頑張ったことが中心の人生」、たった今は、こういった人間が高い評価を受け、成功者であるとほめそやされているものである。

 今述べた「高い評価を受け、成功者であるとほめそやされている」という人たち、近年こういった人たちが「馬脚を露わす」(化けの皮が剥がれる、隠していた悪事がばれる、明らかになる)という事例がいくつも報道されています。 

こういった人たちは、こういった人たちと同程度の人間から見れば、先の「高い評価を受け…以下略…」ではあるのですが、人間としてはまっとうではない、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視して金を儲け、人をだますようなことをして形骸の権威を獲得してきたのであり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から評価されることではない。

 

しかしながらこういった人間も、その低い段階から少しずつ“上”に向かう、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しつつあるので、“神の采配”として“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)もその人の人生に介入し、その人の心(靈)が育つ方向性に導くものである。 

そのために、先に述べた「馬脚を露わす」ということを“上”はさせるものであり、その結果、人の批判を受け、社会的制裁を受け、自分で自分の人生を恥じる、これは“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)であり、それを体験したうえでこれから自分がどう振舞うか考えるようになっていく。

 

この「考えるようになっていく」(これは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするでもあります)ということ事態、心(靈)が育つ、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出すことであることを述べておきます。