太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その九” 「神に近付こうとする」際における“それぞれの役目”、霊的成長度がある程度高い場合

 先回述べた「自分の生き方、在り方、振舞い方を問われる段階」、自身の人生に於いて、こういったことだけ、ほとんどこれだけに終始する人生、これが平均的地球人の霊的成長度におけることである。 

 それはたった今のほとんどの地球人に当てはまることであると言い得る。 

 

 この「自分の生き方、在り方、振舞い方を問われる段階」、それはその人の人生に於いてこれ以上のことが無い場合、あるいは目前の事象に“善悪”そして“真偽”を見出せない、見出しても無視する、また、人生を振り返り自省(胸の磁性“十”)をするが、それで自分の心(靈)を律することをしない、よってそれが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活きない、また、自分の人生にどんな意義があるのか考えていないでただただ目先の損得のために生業(なりわい)を行なう人生に終始する。

 こういった人間は神に対する認識も既成概念程度の事でしかないから、“ほんとう”の信仰を持ちえない。  

 さらに少々飛躍しますが、霊的成長を求めて“行”に入ることもない。

 

 これの

「目前の事象に“善悪”そして“真偽”を見出せない」

「人生を振り返り自省(胸の磁性“十”)をするが、それで自分の心(靈)を律することをしない」

「自分の心(靈)を律することをしない、よってそれが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活きない」

「“ほんとう”の信仰を持ちえない」

「霊的成長を求めて行に入ることもない」

というのはその人が次の段階、今後=アセンション後の事象に移行しうる資質が、ほとんど無いのだということが言い得ます。

 

 そこで幾度も述べている通りたった今の地球自体が、今後=アセンション後の事象に移行する。 またこれは、地球だけの事ではなく、人間の霊的成長度の高低による区分けがあることもこれまで幾度となく述べてきました。

 

 そこで表題の「霊的成長度がある程度高い場合」は、程度の差こそあれ、冒頭で述べた平均的地球人とは違う人生を送るものである。

それは自分の人生において“神の采配”である“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を受け、自省(胸の磁性“十”)を促す体験があった。 

そのうえで自分の生き方、在り方、振舞い方を考え、自分の生き方を変えていく。 変らなければいけないのだと強く思ってその心(靈)の動きが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に現われていく。 それは自分自身に於いて自省(胸の磁性“十”)の“行”が出来ている、その自省(胸の磁性“十”)も自分の心(靈)の動きを律するものとなり、そしてそれが行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活きている。

 それくらいの智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得したならば、その人の“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はもっとその人に対し「神に近付こうとする」その働きかけがあるものである。 それは、その人の心(靈)の動きが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応する姿勢を持つものとなりうるものであるので、それ以前よりは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応は少なくなり、“上”からの通信を受けやすくなっていることも指摘出来得る。

 

 こういったこと事態がその人の人生を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導く“神の采配”“神の恩恵”“神の恩寵”である。

これについて解りやすいので、最近行った

"ローム霊訓講話“ 昭和五十四年六月十四日 Kellyさん的解釈“その三”

これから引用すれば

常に自分が一つの現象に於いて最高の力を得んとする者は、それは非常に強い力となることを悟らなければならない。さすれば神はその人間を、仙道に導き羅漢道に導いてその力を段々に発揮さしてゆかれるものである。そうなって来るならば、どんなことであろうとも一つの願いこそ一つの呪文であって、あらゆるものをその中に吹き込んでそして立派な者となすことが出来得るのである

この上記文言の解釈をよく理解していただきたいものです。

 

 ただしこれは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からその人自身の成長を見込まれている。 それだからこそ、霊的成長度の低い人間が勝手に思う甘い(亜、魔、出ずる、泉)ことは起きず、苦痛や苦悩を体験する人生となるのであり、その苦痛や苦悩、これ事態がその人を育てようとする“上”の采配である。

 

 これら“神の采配”“上”の采配、これらは冒頭に述べた「たった今のほとんどの地球人に当てはまる」という人生に於いてそれがあったとしても、これを自分の成長に活かすことが出来えないものであり、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)が自分を育てるものであることを認めたがらない傾向もある。 その「認めたがらない傾向」には、自我の脆弱さ、自我の肥大、ということがあるからである。

 それはやはり、保身、目先の損得を優先して考えそれ由来の心(靈)の動きと行動をしてしまう。 

そういうことであるならば、それは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)があまりないのだ、ということが指摘出来ます。

 

 この「智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)があまりない」というのは、まだまだ動物に近い、それは著書で、地球人は八百回ほど転生を繰り返していることを述べましたが、その八百回に於いて霊的成長度の差が出来(未刊行の著書<6>で述べた“玉石混交(淆)”)、ある程度霊的成長度の高い人間と、これに相対したまだまだ低い段階、それはローム太霊講話集第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

という、この差が出来ている。

 そこで表題から少々逸脱しますが、同じくローム太霊講話集の第六十八話、

人間が神の分霊であり神の子である

この言葉が頭に止まり、その意味をしっかり考えようとするほどの霊的成長度であるなら、自分は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指し、神に近付く人生、ということを考えていく。

 そういう人間は、当然のことながら物の見方も違う、心(靈)の動きも自分を律するものとなる、物事に“真偽”を見出し、目前の事象に“ほんとう”を求め、また自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にもそれを当てはめていくものである。

 重複しますが、そういった人間を、神や“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、見過ごすことをせず、その人の人生を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に導くことをしていくのだということを述べておきます。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その八” 「神に近付こうとする」際における“それぞれの役目”、霊的成長度の低い場合

 

まず、霊的成長度の低い人間においての“それぞれの役目”について述べますが、その前に“その六”で引用した“日月神示” 地震の巻 第三帖の

“個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである…中略…親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。 悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。 悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである”

 

これの“御用の悪”“御用の醜”そして“共に神の御旨の中に真実として生きる”ということを念頭に置いていただきたいし、今回述べるのは、これ所以の“それぞれの役目”であることをご承知おき下さい。

 

先回

“自分が頑張らねばよい結果を得ることが出来ないということを知っています。 同様に、何となく“行”あるいは“修行”の概念もある”

ということを述べました。

 

そこで、ほとんどの人間がそうなのですが、自分自身が「神に近付く」ということを知らない、またこれ自体が生命の存在の意義であるということを説明しても理解できない。

よって「神に近付く」に対し、意識していない段階においては、人間は“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)というものを自分に厳しく課し、自分を律して生業(なりわい)を行なっている人は少ないものである。 

しかしながらこれに相対し人間が「神に近付く」を成し得ていくならば、“絶対の善”を顕現しようとするものである。

 

そこで、その生業において“頑張らねばよい結果を得ることが出来ない”ということをよくわかっている人間は真摯に一途にその生業(なりわい)に向き合い、自分の生業(なりわい)を完成させようとするが、これが“術”(“力”の顕現)となりうる、あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が“術”と認め得るものである。

またその“術”の獲得を目的とした頑張りは生業(なりわい)においての“行”となり得るし、目的を達成しようとする意志は、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となるが、その息吹はその時の“善悪”により、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応、あるいはその生業(なりわい)の種類にもより“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との霊的干渉があるものである。

 

この“上”“下”の霊的干渉とそれを引き起こしている心(靈)の動きというのを説明すれば、先にも述べた通り人間の生業(なりわい)はすべてが“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではなく、ほとんどの地球人が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをしているから、多少の悪には目をつむり“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を無視して、自分の利益や欲望を優先することが多いものであり、“絶対の善”の顕現など考えたこともない人が大多数である。 

そこで極端な例を挙げれば、明らかな“悪(心の動きの本能化と低振動化)”である泥棒とか詐欺とかなどの犯罪においても、それ自体がエネルギーの贖い(あがない)となり、それに関連した霊的存在が感応するものであり、そのエネルギーの贖い(あがない)において霊的存在は“力”を貸したり加担したりする。 

よってこれも“術”(“力”の顕現)ということが出来得る。

これに関してはローム太霊講話集第二十三話

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

これの“いろいろな道”、これは“善悪”にかかわらず本人が選択するものであり、

その反面には道に外(はず)れた術のある

ということを太霊は教えておられ

年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い

と述べておられる通り、本人が選択した“術”が、“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではないケースを先に述べたが、それを行使して“年功を積んだ動物霊など”の加担があり、先に極端な例として挙げた犯罪が成立したとしても、必ず

さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる

これ自体が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配と言えることである。

 

このように程度の低い人間、“善悪”を自分に課して自分を律することをあまり考えない人間の一生において、例えば死ぬまで犯罪行為をおこなっていたとしても、必ずそれは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の審判があり、それは“悲惨な結果になる”のであり、自分の生き方、在り方、振舞い方を問われる段階があるものである。

重複するが、個々の人間の霊的成長度の高低があるがゆえに“それぞれの役目”、“日月神示”表記の“御用”も違うので、自分に“善悪”を課すその程度の差があり、一生を犯罪行為という生業(なりわい)で頑張って(元の気を張って)それ自体がエネルギーの贖い(あがない)となっていてそれがその人の心(靈)の成長になっているケースは結構多いものである。

結果それは死んでからであっても自省(胸の磁性“十”)の“行”に入るのだが、生きている間に自省(胸の磁性“十”)出来ていない人間は智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得にはなかなか至らないし、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)があまりないからこそ“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を考えないで自分の欲望を満たすことが中心の生き方をする、

しかしながらこれも“それぞれの役目” 、“日月神示”表記の“御用”と言い得ることであるし、先に述べた通り自分のエネルギーの贖い(あがない)に応じての霊的干渉もあり、霊的存在が持つ“力”の加担もあるが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”ではないので、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はその人間に“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を与え自分の生き方、在り方、振舞い方を考えさせるものである。

また、自分の生き方、在り方、振舞い方を考える機会を与えられ、自省(胸の磁性“十”)すること自体が、霊的成長度の低い段階においての「神に近付く」のステップであると言い得ることであり、人間がもっともっと「神に近付く」ために、最低限、必須の要綱である、ということを述べておきます。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その七” 「神に近付こうとする」際の具体的なことを求めはじめるに当たって

ほとんどの人は、自分が頑張らねばよい結果を得ることが出来ないということを知っています。 同様に、何となく“行”あるいは“修行”の概念もある。

 

そこで先回文末で述べた「“善(神格化の方向性と智性の受信)”を意識しての顕現」、これは人間が“神そのものの分霊”(ローム太霊講話集第五十六話の表記)であるがゆえに、自分自身はある程度智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現したならば、先回も述べた

 

  • 心(靈)の“上”“下”を認識し区別する
  • “善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出す
  • 現津(あきつ)、観察され得る事象に“真偽”を見出す
  • 自分自身に真実=真固止を当てはめる
  • 現津(あきつ)、観察され得る事象に“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す

 

これを規範とか指標にして、何かをなそうとする。

 結果これ事態が「神に近付こうとする」に相当することとなり、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)において当然の成り行きと言える。

 

そこで、その「神に近付こうとする」手段、具体策を求めるに当たり、間違えやすいこととして、多くの人間が“信仰ごっこ”をしているので既成宗教や新興宗教などに求めることが多く、これらがほとんど営利目的と成り下がっており、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見させるご利益ばかり強調しているから、自分が苦しまず楽に生きていきたいという既成概念が出来上がっており、そこで求める“行”と“修行”らしきものは“行”ごっこに過ぎず、お題目を唱えるとか、写経するとか、神社仏閣に参拝するとか、という程度のものから始まる。

これも一応、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になり得る要素はあるのだが、そこにご利益を求める息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)があると、程度の低い存在、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するものである。

またこれら「“行”ごっこ」では、自分と神との関係を深く認識するには至らない、それは以前述べた「信仰ごっこ」が、一般に当たり前のように思われているからでもある。 

今述べた「“行”ごっこ」「信仰ごっこ」、こういったことで一生を終えたなら霊的成長は望めないものである。

よって、この段階においては、常に自分の心(靈)を見張り、自分が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応の息吹をしているのか、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応の息吹をしているのか、またそれは“善(神格化の方向性と智性の受信)”か、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、これを見定めねばならない。 

しかしながらそこまでのことを考え得るほどの智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の持ち主ならば、こんな段階は脱却するものである。

そこで上記のことが大して「神に近付こうとする」とはならない、「“行”ごっこ」「信仰ごっこ」であると見定めることが出来るほどの霊的成長度なら、“行”とは、“修行”とは何か、を考え、求めるものである。

 

その考えること、求めること、これは心(靈)の動きで息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるから、これ事態が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になり得るものである。 

ならば、“上”はその人の“それぞれの役目”(ローム太霊講話集第五十六話、先回の記事を参照の事)に応じた“行”と縁(霊縁)を付けることをしようとするものであり、その“行”を通じてその人間を育てるための采配をするものでもある。 

これは“上”がその人の霊的成長を望んでいるからである。

 

また、この段階で間違えやすいこととして、神が“力”であるという間違った認識を持った者は、ただ自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を人よりも多く示したいがため、その訓練を自分に課す。 そして自分が得た“力”を示す、これ自体が低い功名心由来の心(靈)の動きである。 

またその“力”を自分の利益のためにしか行使しえない、自分を示すために“力”を誇示する(示威行為)、ということをするならば、それは、すでに“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応になっていると言い得るが、これに気づかない人間は割と多いものである。

この心(靈)の動きはローム太霊講話集第十六話の

名誉欲などのために不思議の出来る人間になりたいというような考えは、決して起こすべきではない

これの“名誉欲など”、低い功名心と自尊心、また目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望、これらに当たるものである。

 これに関して太霊はローム太霊講話集第二十三話で

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

この“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”、これはスポーツやエンターテイメント、また憑依現象による一時的な霊能力の発現、これらなどによく見受けられる霊的干渉と言えます。

 その結果として富と名声を得て自分の低い欲望(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の欲望)を達成したとしても“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い”、これは富と名声のための“力”の行使、ということを自分自身が強く思う

=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)した結果の、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、いわゆる霊的干渉であり、よってこれ事態がローム太霊講話集第三話の

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

これに該当することとなる。

 

 そこで太霊は上記第十六話の続きとして

真に行ずる者は、それが天の使命であるかないかは別として…中略…自然に引かれる方向に向って一段一段と自分の業行を積み上げてゆくことが、自分に負わされた務めであるという自覚を確(しっか)と持っていることが必要

ということを述べておられ、これの

自然に引かれる方向に向って一段一段と自分の業行を積み上げてゆくことが、自分に負わされた務め

これが先に述べた

「その人の“それぞれの役目”(ローム太霊講話集第五十六話、先回の記事を参照の事)に応じた“行”と縁(霊縁)を付けることをしようとする」

これに該当することであるし、これ自体が“上”の采配、“神の采配”、“神の恩寵”、さらに自分自身が「神に近付こうとする」ことを教えられているので“神の恩恵”であることを理解すべきである。

 

 次回は上記の“それぞれの役目”に応じた“行”と“修行”について述べることとします。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その六” 自分自身を“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向に変えていこうとする心(靈)の動き

ここまでの“その一~五”において

  • 心(靈)の“上”“下”を認識し区別する
  • “善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出す
  • 現津(あきつ)、観察され得る事象に“真偽”を見出す
  • 自分自身に真実=真固止を当てはめる
  • 現津(あきつ)、観察され得る事象に“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す

ということを述べてきました。

 

これらすべて、ある程度智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)と言う心(靈)の動きの行使がないと理解や判別が出来ないことである。

更にこれらを考えること自体が、自分の存在の意義と意味、そして人間とはなにか、人間の価値とはなにか、これらを深く考える材料となるものであり、自分はどう生きていくべきかを考えるようになる。

また同時に、人間と神の関係をも深く考えるようになるものでもある。

 

前後するが、自分はどう生きていくべきか、そこにおいて、自分のよい形というものを考える、また、まっとうな生き方を考える。 

これらを考えるがゆえに、自分を変えるための希望を持つ、今より変わった自分に期待を持つ、そういった心(靈)の動きがあるものであり、その心(靈)の動きの根拠たることは自分が自分にとっての“ほんとう”の幸福を求めるが故のことである。

 

(幸福の意味は、幸は“夭と屰”(ようとげき)、夭折に逆らい生きている間に沢山の認識を獲得すること、福は、神を示す示す偏(へん)、“創造”の“主(ヌシ)”の振動を示す“一”とそれを受け止める口と“田”(心、靈、の四つの場(フィールド)、大脳の新皮質)、“畐”)

 

重複しますが、こういったことを深く考えて思索すること事態が、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の行使であり、その心(靈)の動きは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となる。

その息吹に感応する存在は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)である。

よって、これらの事柄を思い続けること自体が、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となる。

これもまた進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の筋道と言えるが、この進化の筋道がある理由と根拠は、“創造”の“主(ヌシ)”、神自身が神の被造物である人間に望むことである。

 

そこでローム太霊講話集の第五十六話から引用すれば

 

凡ての人間は皆それぞれの役目によって働かされ…中略…常にその誇りを失わず…中略…卑屈な心は決して持ってはならない。一個の人間としての力を与えられている以上、神そのものの分霊であり、神と同じであると思えばよい

 

この“皆それぞれの役目によって働かされ”これはだれが何のために“役目”を与えているか。 

それは“一個の人間としての力を与えられている以上、神そのものの分霊であり、神と同じである”という文言に答えがあり、自分自身が“神そのものの分霊”であるからこそ“それぞれの役目によって働かさ”ている。 

これに関しては、“日月神示”の“御用”という表記が解りやすく、この“それぞれの役目”には“善(神格化の方向性と智性の受信)”の“御用”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“御用”があり、この“善悪”という相対が、同じく“日月神示” 地震の巻 第三帖の

 

“個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。 個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。 霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。 其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである…中略…親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。 されば、その用に於ては千変万化である。 千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。 悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。 悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである”

 

この文言の“全体の弥栄”、そして“共に神の御旨の中に真実として生きる”これはローム太霊講話集表記の“三光の大道”、宇宙万物、“一切万象”の“完成”のために“皆それぞれの役目によって働かさ”ているものである。

 

(“三光の大道”については

“ローム太霊講話集” 第六十五話 神の波動の中に入ること Kellyさん的解釈“その四”

を参照の事)

 

 そこで人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)が進めば進むほど、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を意識して顕現しようとするものであると言え、それは“日月神示”表記の“善(神格化の方向性と智性の受信)”の“御用”に該当する。 

 

 これに相対し、解りやすいので何度も引用するが、ローム太霊講話集第二十一話の“動物的な頭の持ち主”では、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を意識して顕現する、そのための思索が進むこともなく、よって“それぞれの役目”などと言うことを自覚もしないで、ただ漫然と生き目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望を満たすために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得ることを考え、欲望の行使を目的として努力をするので、その息吹は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しやすく、冒頭で述べたような智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の行使によるようなことはないものである。 

よって、こういった人間は霊的成長度が低く、いま述べたようにその人間の息吹は“下”と感応する。 そしてタイトルの「自分を善い方向(“善(神格化の方向性と智性の受信)”)に変えようとする心(靈)の動き」ではなく、単に自分の欲望を満たしたいという希望を持ち、そのための努力しかしていないものである。

 

それでは“善(神格化の方向性と智性の受信)”を意識しての顕現する、そのための努力、さらに自分と神との関係を考えて行くならどんな努力をするか、次回はそれを述べることとします。

 

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その五” “一切万象”、すべての事象に道理を見出す

先回、「“真偽”に関しても、それを人に見出そうとさせるための試練と課題であり、これをこなしていかなければ人生において心(靈)は育たない」そして

 

  • 目前の事象に対し、それの“真偽”を考え判別する
  • “ほんとう”の価値、とはなにか、これを考えはじめる
  • これら事態が目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳の行使となり、その心(靈)の動きは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その息吹は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応となって“上”の通信を受け得る、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し得る資質を獲得する
  • この“上”の通信を受け得る資質を獲得、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のステップである
  • 自らが“観察と認識”している事象、それは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)、そして自分の外側(外国と幽界)の事象に、真実を求めようとする

 

ということを述べました。

 

 そこで自分としては、自分の心(靈)の動き(内面とか内側(心の中と感じている事))と、それが外側(外国と幽界)に表れる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に、自分が思う真実=真固止を当てはめることをする、言いかえれば自分に課す。

 

こういったことをし始めること自体が過去の自分とは違う、それは過去の自分の心(靈)に相対し、心(靈)の動きが変容していくことを、自分自身で確認して認識しうるものである。

 また、真実=真固止を自分に当てはめることは、現津(あきつ)、観察され得る事象、言いかえれば現実において、自分がどう在るべきか自分で自分を観察することとなる。 これが般若心経の“観自在”の“ほんとう”の意味であることを著書で述べました。

 

 前後しますが、先に述べた「心(靈)の変容」、これは一体どういうことなのかを自分で考え始める。

それは、なぜ自分は真実=真固止を求め、それを自分に当てはめることをするようになるのか、その理由を考える。

そこで思い当たるのは、心(靈)が育つとは何か。

心(靈)が育っていくと自分はどうなっていくのか。

さらに自分と他者の相対的な比較として、自分は真実=真固止を当てはめた心(靈)の動きと行動を自分に課しているが、そうではない人間がたくさんいることをしっかり再認識する。 また先の「心(靈)の変容」を見出したなら、過去の自分は対して心(靈)が育っていなかったのではないか、と思い当たるものでもある。

 

上記のことを考えると、自分が“観察と認識”している事象、人間やこの世界は、規則正しく構成されているのではないか。この「規則正しい」に反しているなにかは、苦痛や苦悩を味わう結果となったり、崩壊したりする、それが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ではないか。

 

これらを鑑みて“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)と“神の采配”というようなことを考え始める。

さらに“神の咎め”と“神の采配”があること自体が、この世界の道理ではないか、というようなことを考え始める。

 

また先の「心(靈)が育つ」とは、自分が真実=真固止を追い求め、それを自分に課すこと自体が神に近付くことになるのではないか、とも思い始める。

 

これら事態が、神の実在を認識しうるきっかけとなり得ることであり、神あっての自分、神の子である自分、神と自分の関係を真摯に考え始めるものである。

 

(当然のことながら、ただ漫然と生き、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)を行使している段階、ローム太霊講話集第二十一話の“親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主”、この段階の霊的成長度ではこれらのことを考えることが出来えない、考えうる資質がない、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応という要素も足りなさすぎである)

 

そのきっかけが、自分と自分以外、この自分以外というのは一切の生命、一切の生命とは“創造”の“主(ヌシ)”から悪魔、微生物から多種多様な生命、そして人間、などと言う分類に関わりなく、ということであり、また人間が生命だと思っていない(生命であると認識することが出来ていない)物質や、学者が発見してきた物理現象や物理の法則性などを含め、これら一切が現津(あきつ)、観察され得る事象、いわゆる現実におけることで、これらに道理(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を見出しうる段階に至るものである。

 

この段階にまで至って、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とはどういうことか、これを求める心(靈)の動きをするのである、と言い得ます。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その四” 真実を見出そうとする心(靈)の発露

著書の<4><5>のそれぞれの話の副題として「事象の形骸化」という表記を使いました。 

この表記の意味合いとしては、霊的成長度の低い人間は、自分が観察している事象、ありていに言えば物事や心(靈)の動きに真、偽、を見出そうとしない、あるいは真偽がわかったとしても、それを自分の利益や立場のために無視をする傾向がある、そして霊的成長度の低い人間は、“ほんとう”に価値のあるなにかを、自分たちの立場や利益のために、偽物にして内実の無いものとしてしまっている、という意味合いを含んでおります。 

 

そこで著書の<4><5>では、

  • 人間全体のための政治は、人間全体の本の一部の金持ちの利益のためのものになっている、そして政治家の財布のためのものとなっている
  • 個々の霊的成長のために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が宗教の開祖に様々な事柄を教えたはずの宗教は、これに従事する人間が“行”を行っていない、よって悪霊を自省(胸の磁性“十”)させるべき祓い、そして死んだ後の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための供養は、儀式にしかなっていない、また宗教の教義も個々の霊的成長のためのものであるのだが、程度の低い人間が間違った解釈をしてその解釈が台頭している
  • 本来霊的成長度の高い人間が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応して詔(みことのり)を述べ、人間全体の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を助長するはずであった天皇は、現在その役割を喪失している
  • 霊的成長のためのヨガ、“行”である筈のヨガは、たった今全く違うものになり果てている
  • 人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の指針となるべきスピリチュアルな事柄は、ただ言葉や雰囲気に酔うだけのものになり果てており、程度の低い人間の金儲けの道具となっている

 

…など、列挙すればきりがないのですが、こういった事柄を考えていただきたい、その指針となることを述べました。

 

 これらを要約すれば、この世界は偽物だらけである。 また偽物をほめそやす人間が多い傾向があり、偽物をほめそやす理由はそこに物欲や金銭欲や本能由来の欲があるからである。 

こういった心(靈)の動きではものごとの“真偽”を見出そうとすることが出来えない。

またこういったことが台頭しているから、この事象において“ほんとう”に価値にあるなにかは、程度の低い人間の考えによって書き換えられて価値を失っている、言い換えれば、自分たちの利益、示威行為や保身のための形骸の権威の行使、これらは“ほんとう”に価値のあるなにかを腐らせていくものである。

これも著書で述べたことです。

 

いま述べた、真偽、“ほんとう”の価値、こういったことを考えうるのは、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)である。

しかしながら大概の人間は、ただ漠然と生きている、欲望を満たしたなら幸福と思う、そして物事の真偽を見出そうとしない、という、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが中心の人が多い。

しかしそれでは心(靈)が育たないから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、試練や課題を与えるということをするものであるし、これがローム太霊が述べた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、でもある。

 

これは先回まで述べた“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)でもそうですが、いま述べている“真偽”に関しても、それを人に見出そうとさせるための試練と課題であり、これをこなしていかなければ人生において心(靈)は育たないものである。

それは“真偽”の区別がついたなら、真実を求めようとする。

また、真実とはなにか、これを考えるようになる。

これ事態が、先の目下(めした)の心(靈)から一段上がった心(靈)の動きと言えるのであり、先ず目前の事象に対し、それの“真偽”を考え判別する、そして“ほんとう”の価値、とはなにか、これを考えはじめる、これら事態が目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳の行使となり、その心(靈)の動きは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その息吹は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応となって“上”の通信を受け得る資質を獲得する。

こういったこと自体が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のステップと言え、自らが“観察と認識”している事象、それは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)、そして自分の外側(外国と幽界)の事象に、真実を求めようとする、その心(靈)の動きの発露となると言い得ます。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その三” 善悪を見極めるならば

先回

「人間においては、“絶対の善”、あるいは“絶対悪”という概念を当てはめることが出来えない、百パーセント悪人とか善人とかという概念も不適切である。 たった今の地球人においては善人を目指していても多少の悪があったりする、同様に悪人でも良心があり多少の善意があったりもするものである」

そして

「良心や多少の善意というものが、悪を行使して死んだ人間であっても死後の世界において自省(胸の磁性“十”)の“行”をする理由となり、自省するからこそその心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性に向かうことが出来うる」

ということを述べました。

 

上記で述べたように、どんな悪人であっても人間である以上、良心や多少の善意というものがあるから“絶対悪”を自分に課すことは不可能である。

また究極の悪を目指そうとして、自分の欲望と利益のために、他者を利用する、他者から奪う、殺してでも奪う、ということをしても、自分以外すべての人間を殺したならば、自分の欲望の行使、また自分の利益、というものもその対象がいなくなるために無意味となるということを考えうるものである。

 

これらは、どんな人間でも“善(神格化の方向性と智性の受信)”に向かうべく心(靈)であるという証明ともなりうることであり、人間が、あるいは自分自身が、神に近づいていくべく存在なのだ、という考え方を構築する材料となる。

 

ただし、こういった考え方をするにはある程度の霊的成長度が必須である。 それはローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

こういった霊的成長度の段階では、上記のことまで考えが及ばない。

 

 上記で述べた良心についてローム太霊講話集から引用するならば、第四十三話、

本霊というのは本体の霊、言わば人間に内在する神で…中略…一般には良心と呼んでいるが、これが本霊の声と思えばよい…中略…従って、何事に対しても本霊の発する心の言葉が一番間違いない

この“本霊の声”“本霊の発する心の言葉”は、誰にでもあるものであるし、それは“人間に内在する”であるという言い回しをローム太霊はされておられるものである。

また、“日月神示地震の巻 には“復霊、復力、復体の   f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(うごき)”という表記があります。

これを理解するために、地震の巻 第九帖

“悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。 善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。 悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。 力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する”

これは“悪”と“善”が相対するものであることを述べており、さらに

“善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。 善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにても また同様である。 故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである”

上記文言中の“御用”、その世界において“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)は必須であることが述べられており、その理由について

“何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である”

と述べられている。

 またそこで、人間の浅はかさを指摘している文言が

“悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。 この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。 悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。 この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる”

と、“善”と“悪”の相対、必要性、について述べられている。

 

 そこで、同じく第九帖で述べられている

“霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。 これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体の   f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(うごき)をなす”
先にピックアップしたこの“復霊、復力、復体の   f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(うごき)”、これが“根元からの存在であり用である”と称され“動き弥栄する道程に於て”、これをなすのが“霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する”のであり、これに関しては以下のように解釈をしました。


“復霊、復力、復体”、この“復”の意味合いは、もとの状態にもどる、もどす、かえす、復活、復帰、復旧、復元、回復、あるいは、同じことを繰り返す、復習、復唱、反復、などの意であり、何に“復”するのかは、“弥栄”、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性、と解し、“動き弥栄する道程”というのは、先の“善”と“悪”であり、この“二義的”な事柄を個の心(靈)が認識して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出し実践することを“復霊、復力、復体の   f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(うごき)をなす”と称されており、この“   f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(うごき)をなす”(日足(ひたり)回転は“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転)こと事態が先の“真実が生れ、生命する”であり“根元からの存在であり用である”と定義づけられている。 

生命(生きる使命=存在理由)とはそういったものであることを知れ、という意味合いである。

 この“復霊、復力、復体の   f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(うごき)”、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転である日足(ひたり)回転、ということを“地上人”はよく認識して、自分の心(靈)を自分で観察していくこと事態、そして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくことが、“地上人の光栄ある大使命”である。

それと先のローム太霊講話集からの引用“本霊の声”“本霊の発する心の言葉”それは “人間に内在する神”であるということ。

 

これら事態が、人間が善意を持っている、良心がある、自身の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の“善”を良しとするものであるし、“善(神格化の方向性と智性の受信)”を為すべく理由となり、その目的は、自分の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるということになります。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その二” 善悪を観るということ

 先回、智性の無い人間以下の動物の違いについて“善悪の認識と判別ができない”ということを述べました。

 また、平均的地球人は“動物的なあたまの持主”(ローム太霊講話集第二十一話の表記)であることも述べました。

 そこで、人間ならば“善悪”は判別しうる、ある程度理解も出来ている。 

その理由は、人間には多少、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)という心(靈)が発現しているからであるし、それは目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳が地球上の生物の中で一番発達しているからでもある。 

 しかしながら人間にしか発現していないこの智性(神性)を行使していない心(靈)の動きは、“善”を無視して、著書やブログで幾度となく述べているように、自分に“悪”を容認し“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となるものであり、たった今ほとんどの地球人がこの段階の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である。

 

それで著書やブログで述べていることとして、“善”とは神格化の方向性であり、その心(靈)の動きを行使するなら“上”(宇宙の中心、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹、それと太陽)からの荷電粒子の振動、天意のうちの智性(神性)を構成する高い振動の受信になっていく。

これに相対する“悪”とは、“善悪”が判別できる人間の心(靈)が“善(神格化の方向性と智性の受信)”を無視しているのだから、先の高い振動の受信につながらない、それは心(靈)の動きの本能化であり、その心(靈)は人間である資質を失う方向性、それは智性(神性)を持つ人間の動物化であり、自らの心(靈)を構成する振動が低いものになるからこそ、自我より“下”の心(靈)の動き(本能、情動、功名心、自我)しかなくなっていく傾向となる。

これが平均的地球人を称した表現、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“善悪”を無視すること自体が自我の肥大でもあり、その心(靈)が行う所作は、“日月神示”表記の“石屋の仕組み”である。

それは、自分のことしかわからない、自分の都合の良いことしか思わない、他者に尊厳を持たない、自分の損得しかわからない、(通貨としての)金の奴隷になる、真実=真固止を知らず形骸のものしかわからない、その形骸のもの(たった今権威を示している政治、経済、既成宗教、天皇制etc.)に肖る(あやかる)などであり、こういった心(靈)は自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分の損得勘定のためにしか行使しない。

 

そこで、人間においては、“絶対の善”、あるいは“絶対悪”という概念を当てはめることが出来えない、百パーセント悪人とか善人とかという概念も不適切である。 

たった今の地球人においては善人を目指していても多少の悪があったりする、同様に悪人でも良心があり多少の善意があったりもするものであるし、この良心や多少の善意というものが、悪を行使して死んだ人間であっても死後の世界において自省(胸の磁性“十”)の“行”をする理由となり、自省するからこそその心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性に向かうことが出来うる。

 

上記のように人間は、生きている、あるいは死んでいるにかかわらず、自分の自由意志で自分が“善”“悪”のどちらの心(靈)の動き、それ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、これを選択することが出来うる。

ならば自分は、自分の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”をいさめることが出来、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を選択することもできる。 

この“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を諌める心(靈)の動きが、自分の在り方を観るということであり、それは智性(神性)と自分に対する厳しさであるが、その真逆が、自分に対して甘い(亜、魔、出ずる、泉)ということであるし、自分に対して甘いというのが、悪魔に対しての認識(悟り、幸取=さとり)の無さ で述べてきたように自我が脆弱であり、脆弱であるがゆえに自我の肥大をしているので、自分がどう在るべきかをしっかり鑑みることが出来ない低度の低い心(靈)であるといいうる。

 

これらの心(靈)の動き自体が、人間として発現している智性(神性)であり、冒頭で述べたように智性(神性)があるからこそ人間には“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を認識して判別することが出来、そのどちらかを自分に課すことが出来うる。 

 

こういったことは個人、個の心(靈)の自由なのですが、自由というのは、単にわがまま放題、好き勝手に何かを選択するということではなく、“自”は自分自身、“由”は理由の由、自分が選択したことは自分が選択したという理由により、その結果は自己責任である。

(ただし、霊的成長度の低い心(靈)が持つ“自由”に対する認識は、単に自分勝手、わがまま放題、という実に都合の良いものが多い)

 

それで、自分が“善(神格化の方向性と智性の受信)”に向かうか、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に向かうか、これは、自分自身で選択することである。

これこそが人間が神に近づくことが出来うる最低の資質であると言え、それゆえに“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、そして“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)、これらが人間には必須であるということを述べておきます。

 

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その一” 心(靈)の“上”“下”を知る

 これまでも述べてきたことですが、人間と人間以外の生物の違い、これを観察して進化論が構築された。 そしてその進化論自体は、平均的地球人の“観察と認識”によるものなので、物質、いわゆる肉体を観ての分類でしかない。

 

 このブログの「“ほんとう”の進化論」

http://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/archive/category/%E2%80%9C%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E2%80%9D%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96

をお読みになられた方は、進化は神に近づく過程であり、死んで肉体を捨てていくという生物のことわりがあるが故に、進化の本質は心(靈)が育つことである。 

このことをある程度理解していらっしゃると思います。

 

 そして心(靈)が育つ過程は、微生物から始まっており、その途中を大幅に省いて、人間においては智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現したことを述べました。

また、著書の<3>で心(靈)の構造は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、という分類が出来得ることを述べました。

 

この、心(靈)の動きの分類自体を行うことが出来得るのは、人間だけである。 

それは動物にはない心(靈)、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)があるからである。

よって人間以下の動物に、このことは理解できない。

それ以前に人間以下の動物は、(事象を分類するための)言葉がない、神の概念がない、自分がどう生きるべきか、なんてことを考えることが出来ない、幸福の概念もない、善悪の認識と判別ができない、これらは智性(神性)由来のことであるがゆえに、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の低い動物は神に近くないといえる。

これを換言すれば、霊的成長度、どれくらい神に近いのかの度合い、これによることは“上”の心(靈)から“下”の心(靈)をみると分類は出来得るということであり、これも智性(神性)を持った人間が、智性(神性)を発揮して行う“観察と認識”によることといいえます。

 

ならば智性(神性)を持った人間は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解したならば、自分はどう生きるべきか考える、こういったことが出来うるものである。

 

そしてこのこと自体が人間に課せられた命題であるのですが、これを考えることが出来る出来ないはその人の霊的成長度にもよる、ということも言え、それはまだ大半の地球人が智性(神性)を行使した思索が出来ない、何度も引用したローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当する人間が大多数である。

 

 次回からは、上記の平均的地球人のことはおいといて、自分はどうしたら神に近づいていくことが出来るか、これを述べていくこととさせてもらいます。

新年あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。

すでにライフワークになっております “日月神示”解釈とローム太霊講話集解釈、これにおいて多くの方々に理解していただきたいこととして以下の項目があります。

 

  • すべての生命が“観察と認識”している現実、肉体を持った心(靈)である人間が観察しているのは、物質の振動で構成された現界であり物質中心の「現実」である(物質中心の現実でしかない)
  • 人間を構成しているのは肉体、幽体、霊体、神体、であり、またそれは、それぞれが位置する場(フィールド)に相違がある
  • 人間が肉体を捨てる、いわゆる死後、幽界、霊界、に移行するものであるが、それぞれの界を構成する振動には相違がある
  • しかしながらそれぞれの界における心(靈)の“観察と認識”、現津(あきつ)、観察され得る事象も、それぞれの心(靈)にとって「現実」と認識しうるものである
  • 現実とは、自分の心(靈)がその界を構成する振動を受ける、そしてその界に位置している心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)を受ける、この両者の振動をうけ「現実」を心(靈)の中に“映像される”(“日月神示地震の巻の表記)ということが起きている(「現実」と認識する)

 

たった今の世界は物質中心の振動で構成され、この世界に位置している物質である肉体を伴った心(靈)、人間は、大多数の人間が物質を対象とした心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しかしていない。 よって自分以外の人間に対する認識も、物質中心の“観察と認識”でしかない(肉体を中心にみているだけなので、他者の不幸を意に介さないし、物質しか見ていないのでその存在の意義や意味を追求する心(靈)の動きが少ない)。

また、物質中心の場(フィールド)に位置する心(靈)は霊的成長度が低く、自分たちが獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、物質の奪い合いにしか行使しない、その結果、恨みの連鎖の霊的干渉が増大した世界を構築してしまい、著書の<4>の帯文で述べた

「目上(めうえ)(智性)の心を発揮しない者は、内在する悪に囚(とら)われ、地球を、恨みの連鎖の霊的干渉で満たした。その結果は、神の咎(とが)めとして、文明の崩壊を招く」

ということになりえます。

これについて解りやすいのが昨年話題になりました国連気候行動サミットでのグレタ・トゥンベリさんのスピーチ、

(これに関してはユニオン(宇宙連合)の通信を受けたチャネリングであると解しています)

 

We’re in the beginning of mass extinction

私達は大量絶滅の始まりにいる

If you’ve really understood the situation, and still kept on failing to act, you’ll be evil, and that I refuse to believe.

もし本当に理解しているのに行動していないのなら、あなたがたは悪魔ということになるから私は信じることを拒む

 

 いうまでもなくこれは、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の心(靈)を発揮しない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の行いの結果である。 それは、先進国の人間の奢りであると言え、目先の利益と自己中心の考えしかもっていない、さらに自分以外、他者のことを考えていない、全体を考えていない、よって人に対しても環境に対しても未来の地球に対しても、無責任、不誠実であると言いうる。

しかしながら今後=アセンション後は、“神烈しく(はげしく)”(“日月神示”表記)となり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、いわゆる“創造”の“主(ヌシ)”の息吹、これの高い振動がより多く注がれるようになる。 そうなるとこの世界の「現実」は“日月神示”表記の“半霊半物質”(今の事象よりも思惑が早く顕現する))となり、そこに位置する心(靈)は、それに見合うべく資質を持った者、奪い合いをする心(靈)を諫め(そんな人間はいない世界になる)、他者、そして全体のバランス、さらに自分たちの存在の意義は神に近づくことであることを理解して、それ由来の思想をもち、それ由来の行動を実践するようになる。 

いよいよこの時期が迫ってきた感があります。 

そこで毎年述べております通り、多くの方がアタシの文章からその資質を読み取っていただき、ご自身の認識(悟り、幸取=さとり)とされ、体現して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していただきたい、今年もこの活動を中心に頑張っていきたいと思っております。 

 児玉登

悪魔に対しての認識の無さ “その十五” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間が課題としなければならない自我の強化”

 自我が脆弱な人間は、保身、我が身可愛さが台頭するから、その場限りの嘘をついたり、ごまかしたりする。

 これに相対し、自我の強化の方向性は、自分に対しても他者に対しても嘘をついたりごまかしたりしないし、誠実、真摯、ということを規範として自分を戒め、振る舞うものである。

 

 また、自我が脆弱な人間は、自分が努力をして“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得ることを避け、頑張ることを避け、簡単に自分の利益になると思しきことを求める。 

 それゆえ簡単に目先の利益になることを求め、その利益のために人を欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、うまくごまかして他者から奪ったりもする。

 あるいは漁夫の利を求める。 そして、自分の利益になりそうな何かを利用して、それを自分の手柄のように吹聴したりもする。 

よって形骸の地位に固執し、それを利用して、形骸を形骸とわからない人間から金を集めたり、権威をふるう、えらそうにしたりもする。

(形骸の地位とは、今の天皇制、政治、経済界、既成宗教など、権威を示す、これが中心になってしまっているそれらが分りやすい)

 こういった漁夫の利、何かを利用して自分の手柄にしたその対象を自分と関連付けて、自分が獲得したのではないそれを大げさに強調するという示威行為が目立つ傾向がある。 

 その傾向の理由と根拠は、自我が脆弱、保身、我が身可愛さが台頭するからであり、これに相対する自我の強化された心(靈)は、自分の低い心を諫め、自分の心(靈)の動きにも行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にも、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を規範とした観方をする。 また、“ほんとう”の“力”、位(くらい)、とは、人が評価するものではなく、神が評価するそれであることを解るものである。

 

 ローム太霊はローム太霊講話集第五十七話で

真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者

 

と、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を考えない、自分の努力を惜しむ、漁夫の利を得る、形骸の権威を利用しそれに固執する、などの自我が脆弱な人間のことを指摘しておられます。

 

 そのうえで

神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい…中略…それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば…以下略…

 

と述べておられ、この“個人が良心によって定める善悪”、これに“善悪に従って努力”をせよと述べておられる。 また先の“真心(まごころ)”ということを常に考えるべきである。

 それで、自我が脆弱な人間はこれをしない、したがらない、なので先の、保身、我が身可愛さが台頭、その場限りの嘘をついたり、ごまかしたり、利益のために人を欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、たいして持っていない“力”を大げさに強調する示威行為、などということが台頭している。

 ならば、自分自身が自分の自我の脆弱さを容認しているということになり、また“その十三”のタイトル通り、 自我の脆弱な心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない ということになる。

 

 これを、様々な霊的干渉から考えれば、自我の脆弱な人間は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するものである。

 

 これに相対し、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”、この息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になる。

 

 そこで、自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出す、これらの心(靈)の在り方はいま述べた通りであり、これを常に考える(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))ことが、自我の脆弱な人間にとって必須であり、具体的には、自分の非を認め、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を理解し、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に当てはめて考えるということをしなければならない。

 そしてこれは生きている間だけではなく、死後も考えねばならないことである。 それを教えるために宗教では地獄の概念が説かれていることにも気づくべきである。

 

 たった今は、自我の脆弱な人間が大多数であるという現状ですが、自我の強化、これによる“絶対の善”の顕現、これは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって必須であることを強調しておきます。

悪魔に対しての認識の無さ “その十四” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間、自我の脆弱な心(靈)は、生き死ににかかわらず自省(胸の磁性“十”)の“行”をしなければならない”

 自我が脆弱であると、自分のことしかわからない、自分を守ることしか考えない、自分の損得しか頭にない、当然のことながら、他者のことを思いやるとか、自分と他者というバランスなど考えない。 また、正しい、間違っている、あるいは“善(神格化の方向性と智性の受信)”“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を規範として自分の心(靈)の動きを見出そうとしないし、律することもできない。

 そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がその人の霊的成長や生き方の指針として課した試練や課題、それから逃げる、あるいはごまかす、などの心(靈)の動きをする。

 

 ここまで、こういったことを指摘してきました。

 

 それで、ローム太霊講話集の第十話で太霊は以下のように述べておられます。

人間はどのみち肉体を捨てなければならない…中略…幽体が完成すると自由行動が許され、先ず寂しい荒野の中に独りぽつねんと立たされるのである…中略…自分が肉体を持って生きてきた生涯の幻影(まぼろし)が走馬灯のように次々と現われて、あれは悪かったこれは善かったというふうに、自分の善悪の業(ごう)がしみじみと悟らされる…中略…そのうちに段々善い方のことは頭に浮かばなくなり悪い方のことばかりが思い出されてきて、終(つい)には悔恨の涙に咽ぶ…中略…中でも一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと


 この“一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと”。

 なぜ“人を欺(あざむ)いたこと”をするのか。 それは、その人の自我が脆弱であり、自分の立場を守りたい、人に自分の悪いところを指摘されたくない、だから嘘をついてごまかしたりもする、また、形骸の地位にしがみつく、あるいは自分の利益を守りたい、もっと利益を得たい、などという損得中心、自己中心の考えしか持っていない……など、具体例を挙げればきりがないのですが、すべてこれは我が身可愛さ、保身、という心(靈)が台頭した心(靈)の動き、それ所以のことである。

 

 そして同じく第十話で、
同じ欺瞞(ぎまん)でも他人に見破られた場合はよいが、それが成功して名声を博したり巨富を積んだりして一生を終ったということになると、それが自分の心の癌(がん)となって、それを取り除くためには人間の貧困者や業病者に対してあらゆる援助をする役目を仰せ付かる

と述べられています。

 

 これは何のために“貧困者や業病者に対してあらゆる援助をする役目を仰せ付かる”のか、それは“自分の心の癌(がん)”を“取り除くため”であると述べられています。

 この“役目を仰せ付かる”、このために自分が頑張る、その時の心境は先の“一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと”、これを悔やむ、自省(胸の磁性“十”)する、ということであり、それをしないと、自分の非を認めやってきたことが悪だと認識しないと“心の癌(がん)となって、それを取り除く”ことが出来えないのであり、自省(胸の磁性“十”)の出来ていないままの心(靈)であるならば、それは悪霊になり、悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)に加担することとなる。

 

 そして前後しますが“他人に見破られた場合はよい”というのは、自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を他人に批判される、これを機に自省(胸の磁性“十”)するチャンスがあたえられるからでもあるし、生きている間にこれを行っておくと、自省(胸の磁性“十”)出来ていない心(靈)よりも、死んでから先に進むことができるからである。

 

 著書でも“続”でも自省(胸の磁性“十”)の“行”について幾度も述べておりますが、自我が強化されるためには、脆弱な自我が、まず、いびつな心(靈)の動きである自我の肥大をする、それはここまで述べてきた通り、自分のことしかわからない、自分を示したい(示威行為)、自分の損得しか思わない、よって金や物に執着する、形骸の名誉を得ようとする。

これらのことをして、その結果、人生で失敗をするものである。

右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)

 

 それで、この段階から“上”の心(靈)の成長は、先に述べた通り自分の非を認める、自分がやってきたことが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であることをしっかり認識する、その際の心(靈)の動きが、自分を省みることであり、自我より“上”の心(靈)である“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”が発現していくものであり、またそれは自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”となって、自分の低い心(靈)を諫め、律することができるようになるが、これが自我の強化につながり、強化された自我は、自己にも他者にも“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を認めず、“絶対の善”を顕現しようとする心(靈)の動きとなっていくものである。

 これが強化された自我の一側面であることを述べておきますし、先に述べた通り、本来は生きている間にこれを行うべきであることを付け加えておきます。

悪魔に対しての認識の無さ “その十三” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間、自我の脆弱な心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない”

 先回、自我が脆弱な人間は“保身”“我が身可愛さ”という心(靈)の動きが台頭することを指摘しました。

 これは換言すれば、自分に厳しくなれない、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)が解っていても、自分にとって都合の良い方を選んでしまう…ということも述べました。

 また、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課した試練や課題、それから逃げる、あるいはごまかす、などの心(靈)の動きをすることも指摘しました。

 

 こういった人間は、“上”が課した試練や課題に対して向き合わない、というよりも、向き合うことができない、またそれは、向き合う心(靈)の資質が足りなさすぎるものであるが、その理由は、自我が強化されていないからである。

 仮に自我が強化されているならば、目前の事象に対し、どんなに嫌な苦しい目にあっていようとも、立ち向かおうとするものであり、立ち向かって初めて“上”が課した試練や課題の意味と意義を解っていくものである。

 そしてそのこと自体が、なぜ自分がこんな目にあっているのか、これを考えること自体が自分と神の関係を理解し、目前の事象に“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出すことにもなり、結果それは“ほんとう”を求める、真実=真固止を理解するということになりえる。

 これらが、自分の心(靈)が育ったのだ、といえるのだが、自我が脆弱な心(靈)では、先に述べた通り、真摯に向き合うことができないということになり、逃げる、ごまかす、ということをする。

 その心(靈)の動きは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応し、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信は届かなくなる(振動の法則性としての感応が無くなるということ)。

 そして苦痛や苦悩を忘れるために目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望を満たしたり、低い功名心や自尊心を満たそうとする(形骸の地位、あるいは形骸の“美”を追い求めるなど)ものである。

 

 この“上”からの通信が届かない、この通信は目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳で感応するものである。

その目上(めうえ)の脳を行使しているならば、自分がどう在るべきか、目前の事象に対し自分がどう振る舞うべきか、考えるものであり、これ事態が自我の強化につながることであるし、結果それは自分がどうしたら育つのか、ということを理解する、これにもつながるものである。

 そこで初めて、進化が、心(靈)が育つ、それは霊的成長であり、神に近づくことなのだということを実感しうるものである。

 

 これに相対し自我が脆弱ならば、先に述べた通り目下(めした)の心(靈)の動きが台頭する、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)という結果しかない。

 また目前の事象の、“上”が課した課題や試練に対して、自分の成長を見出せないものである。

 

 こんな心(靈)では、自分の存在意義、自分が進化したならば神に近くなっていく、などという考えもなく、あるいはそれを知識として知っていたとしても、自分に当てはめて考えることができない。

 またそれは、自分に厳しくなれないものであるといえ、結果それは、生きている間に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない程度の低い霊的成長度の心(靈)でしかない、といえます。

 さらにこういった、自我が脆弱、あるいは自我の肥大を起こしたまま死んでしまった人間は、真実=真固止を求めず、

さらに自省(胸の磁性“十”)が出来ていないから、悪霊となりうる資質、これが中心の心(靈)であると言い得ます。 

これに関連し、次回は、自我が脆弱なまま死んだらどうなるか、それをローム太霊講話集から引用して私見を述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その十二” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は、自我が脆弱で、我が身可愛さ、保身、という心(靈)が台頭する”

 たった今のほとんどの地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階であることを述べております。

 

 この自我の確立=固定化とは、まだまだ自我が脆弱であるから、自我の強化が必要、また、自我の強化が進化にとって必須要綱であるが故に、自我が脆弱な人はいびつな心(靈)である自我の肥大をしていきながら自我を強化するものである。

 その自我の肥大をしているいびつな心(靈)、この段階の心(靈)の動きしか持ちえない人は、自分の心(靈)の低い心(靈)の動きを見出せないし、低い、高いが判別できない。 

 あるいは、人間ならば誰でも少しだけ持っている智性(神性)により自分の心(靈)の動きが低いと判別出来ても、無視しているものである。

 また、自我が脆弱であると自分のことしかわからない、よって自分を守ることしか考えない、自分の損得しか頭にない、当然のことながら、他者のことを思いやるとか、自分と他者というバランスなど考えない。

 また、正しい、間違っている、あるいは“善(神格化の方向性と智性の受信)”“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を規範として自分の心(靈)の動きを見出そうとしないし、律することもできない。 

 仮に、自我が強化されていれば、自分の心(靈)の動きを自分で諫め律することが出来得るものである。

 また、自我が強化されているならば、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“を行使する、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)、正しい、と、間違っている、これを規範とし自分を律するものであり、さらに、自分がどうなれば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのかを見出そうとするものでもある。

 仮に自我が強化されているならば、苦痛や苦悩に負けない心(靈)の動きを持つ、あるいは持とうとするものでもある。

 

 これに反し、自我が脆弱で自我の肥大をしている人は“善悪”正しい間違っている、などの事柄を、人や自分が遭遇する事象や“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)などに、咎められたり、指摘されたりすると、条件反射のように反目をしてしまうことが多いし、自分に問題があるとは思いたくない、自分の非を認めたくない、また、逃げる、ごまかす、ということをする。

 これは言い換えれば、自分さえよければいい、自分の都合しか考えていない、あるいは自分中心であるがゆえに、他者に迷惑をかけているとか、他者に対して、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をしていても、自分は間違っていないとか、間違っていることを判っていたとしても、その場しのぎの嘘やごまかしをしたりする。

 また、自我が脆弱であると、常に、自分は攻撃されているのではないか、非難されているのではないか、だれかが自分を陥れようとしているのではないか、悪口を言われているのではないか、などという被害者意識を伴った強迫観念のような心(靈)の動きが台頭する傾向がある。 この心(靈)の動きは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)でもあるが、この心(靈)の動きは“下”と感応し、ますますその傾向は強くなっていくものである。

 

 本題に戻り、先に述べた

「“善悪”正しい間違っている、などの事柄を…中略…咎められたり」、

これ事態が自我が脆弱な人にとっての、神、あるいは“上”の采配であるし、これに真摯に向き合わねば、その人の心(靈)は育たず、自我も強化されないものである。

 上記のこと、これは幾度となく述べていますが、自我の強化のために神、あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、自分の心(靈)の在り方をその本人に見出させようとする。 

 それが目的で、人生において課題や試練を与える。 

 これがまたローム太霊の言葉、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、の、一つの意味合いでもあり、程度の低い砌の“行”は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き由来の欲望の達成であったりする。

 

 この、神や“上”が課した試練に対し、保身、我が身可愛さ、という心(靈)の動きが台頭して、逃げる、避ける、その場しのぎでごまかす、真摯に向き合わない、ということをしているならば、神あるいは“上”がその人を育てようとして課した試練を受け止めていないということであり、もしそうならば、その人の人生はたいして価値のないものとなる。

 

 ちなみに、人生において“ほんとう”に価値のある事、などと説いてもほとんどの地球人には理解できないことなのですが、それは、生きている間に自分の心(靈)がどれくらい育つか、である。 

 それだからこそ、自分の心(靈)の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ぐらいは見いだせねばならないし、自分が考え得る正しいことを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)としていかねばならないものである。

 こうやって生きること事態が、“上”に認められ、自分の心(靈)の“ほんとう”の満足につながるものである。

 これに相対し、自我が脆弱で自我の肥大したほとんどの人間は、物や金、目先の快楽(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望)、形骸の地位、示威行為、これに満足を求めようとする。

 あるいは先に述べた神あるいは“上”が課した試練から逃げる、忘れようとする際に目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望由来の行為、本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)に走ったりする。 

 また、神や“上”が課した試練に伴う苦痛や苦悩を忘れようとするために、エンターテイメントを楽しむ、あるいは甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見させる形骸の宗教、インチキスピリチュアルなどに傾倒したりする。

また、自分がやってきたことの“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)として世に示された際に、ごまかしたりする形骸の名誉に固執する人間などは、最近よく報道されています。

 

 ローム太霊は、自我の強化のために参考となる自分の心(靈)の在り方として、第九話で以下のように述べておられます。

人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも 傷(きづつ)けられないという立派な精神に…中略…誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行…中略…どんなに恨まれても決して恨まない心を造ることが大切…中略…仮令拷問(ごうもん)にかけられ…中略…堪え得るだけの精神の修養はロームが常に教えている筈…中略…絶えず向上を計りまた向上する人間は、心がそこへ行こうとも、本心は真の神を祈っている

 

 この文言中の“本心は真の神を祈っている”、これは、自分の心(靈)が育つために神や“上”が課題や試練を与えている、それが

悪口雑言されようとも”“誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行

また

恨まれても決して恨まない心を造る

これは自我があるがゆえに仕返ししたいと思うことであるが、それではダメであることを述べておられるのであり、そこで

絶えず向上を計りまた向上する人間

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すならば、

真の神を祈っている

自分が“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止))になる、そのための課題や試練、これが神や“上”采配であることを解り、

悪口雑言されようとも

誰に何と言われようと

恨まれても決して恨まない

仮令拷問(ごうもん)にかけられ

目前の事象が、こういったことであろうが、

堪え得るだけの精神の修養”、これらを真摯に受け止め向き合い、自分の在り方を自分に問うことをする、そしてさらなる進化を目指す、の意であることを述べておきます。

 

悪魔に対しての認識の無さ “その十一” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間はアセンション後に移行しうる最低限の心(靈)の資質すら無い”

  アタシ的には、読者の方や治療をする人に会い、霊的な事柄を中心に人間の生き方や在り方などを話す機会に恵まれたときに以下の事柄に留意しております。

  • この人はどれくらい、生きること、死ぬこと、心が霊であること、霊は生死という状態の変化はあるが永遠不滅であること、に対する認識を持っているか
  • 人間だけが“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を認識しうること
  • 人間だけが幸福の概念をもっていること
  • 人間だけが神と悪魔を認識し始めていること
  • しかしながら神と悪魔の認識は個人差がある、それは霊的成長度の高低により雲泥の差がある

 

 上記の事柄を考慮して話をしないと、その人の持つ人生観(自分を含めた人間の生き方や生きることの意味に関する考え)により、こちらの説明が通じない、理解してもらえないことが多いためです。

 

 著書やブログで、アセンションという事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”してしまった醜い事象を継続させない、そのため霊的成長度の高低における区分けが、アセンションであることを述べています。

 また、次の事象の“創造”に参加しうる人間はとても少ないであろうことも述べています。

 

 それは、平均的地球人の霊的成長度がアタシから観て、あるいは宇宙連合(ユニオン)から観て、低すぎるからであり、

(宇宙連合(ユニオン)に地球人が参加しえないのは、参加する資質を持っていないからである)

大多数の人間がただ漫然(特別の目的もなく事をなすさま、ぼんやり)と生きているだけであり、自分の生き方に対し、神に認められる、まっとうに生きる、自分に恥じないように生きる、そのために自分の思想や行動に“善悪”を当てはめていく、などの考えはなく、目先の快楽を追い求め、そのために金を儲け、金の奴隷となり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”として、欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、奪うとかの要素のある生業(なりわい)をするが、自我の肥大をしているから、自分は欺いていない、騙していない、嘘をついていない、奪っていない、と思い込みたがる傾向がある。

 

 こういった心(靈)の動き、それは、自分の人生をしっかり考えたことがない、自分が遭遇する目前の事象に対して常に自分がどう在るべきなのか、その在り方を考えない。

 また、生きることの意味を考えたことがない。

 生きることの意味を考えたことがないから神や霊に対する認識も低い(言葉でしか知り得ない)、神を考えない、あるいは神に対する認識がてんで間違っている。

(これらに関しては、 神に対しての認識の無さ “その一~八” で述べましたのでそちらを参照のこと)

 

 そして、先に述べたことと重複しますが、“善悪”を自分の思想や行動に当てはめて考えない、あるいは無視して自分にとって都合の良いことだけを考える。

 

 まとめれば、自分の生き方に対する是非、これを考えず、目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の欲望の達成、これ由来の理想とか希望とかを持つ。 

 言ってしまえば程度の低い心(靈)の理想や希望はそんなものでしかない。

 そしてそのために自分のエネルギーを使い、努力する。 

 その結果得られた“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使するが、やはり目下(めした)の欲望の達成のためでしかなく、それ故に目先の損得しか思わない傾向がある。

 これが大半の地球人の現状である。

 

 それで、今後=アセンション後に移行する最低限の資質といいうる、自分が自分の在り方を観て(般若心経の“観自在”)常に自分がどう在るべきか考える。

 それは“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を自分に当てはめ、また獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使、自分の損得のために使うのではなく、全体を考えて“力”を行使することにつながっていく。

 その心(靈)の動きは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になり、さらに普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを取り込んでいくその始まりとなりうる。

 これに相対し、先に指摘した目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きのままでは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の、人間として獲得しなければならない高い振動は、素通りしてしまう。 

 その素通りしてしまっている状態がまた、動物と同じような振動しか止めていない心(靈)である。

 これが“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”、ローム太霊講話集の第二十一話“動物的なあたまの持ち主”、アタシの表記としての目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)である。

 

 しかしながら人間は動物とは違い、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳をもち、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの、動物とは違う振動を取り込み、自分に止めていくその素地(大脳新皮質)を持つがゆえに、自分の在り方を鑑みることが出来得る。 

 そういった心(靈)が次の事象の“創造”に参加しうる最低限の資質である。

 その資質であることを著書やブログで述べており、結果としてそれは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得と行使をし始めるということになっていくものであり、こういったことが“ほんとう”の意味での進化(霊的成長、神格化に向かうこと)である。

 

 それで“幼稚化した人間”が多いこの事象では、いまだ、アセンションに対して全く稚拙な見方をしたり、誰もが救われるなどの甘い(亜、魔、出ずる、泉)考えを持つ人も多いようですが、たった今の事象は先に述べたように“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しながら“創造”してしまった恨みの連鎖の霊的干渉が盛んな場(フィールド)であり、このままでは人間の体も心(靈)もダメになり、文明も崩壊してしまう。

 だがこれは、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)である。 “創造”の“主(ヌシ)”はすべてを崩壊させることをさせないし、望んでいるのは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるから、霊的成長度の高低における区分けを行うものである。

 

 それだからこそ、神の介入として、宗教の開祖や、進化した宇宙人、高い霊的存在、これ等を介して、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と今後=アセンション後のことを教えてはいるのだが、これも金儲けに利用されて間違った情報の方が圧倒的に多く流布されているという現状があるし、これを行っているのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり“役員づら”であり神や悪魔に対しての認識がてんで低い、そして自分のまっとうな在り方など考えもしないから、上記の神の介入を自分たちの商売に利用したりしている程度の低い人間である。

 

 本題に戻り、たった今の醜い事象は人間がやってきたことの結果、それはまた自己責任でもある。 その醜い事象、それを“観察と認識”していく、これからもっと多くの現象が起きて誰もがこの世界が腐っていることを知る。

 これらが人間のやってきたことの結果であること、それを知るのが学習であり、学習したならこれからは自分がどう在るべきか、それを考えることが出来得るようになる。

 そしてこれまでとは違う理想や希望を持つ。 全体の幸福を考えて(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して)、自分の持っている“力”の使い方を考え、それはまた自分の在り方を観ることと同義であるが、そうやって次の事象を“創造”する。

 それが今後=アセンション後の事象である。

 

 たった今、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化で一度に何十人も死ぬ事件がどんどん増え続けていますが、こういったことはもっと増えていくでしょうし、それを観たなら単なる偶然などと考えるのではなく、

(これに関しては、 “その五” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を偶然と誤認する” を参照のこと)

ちゃんとした霊的な理由と根拠があることを考えていただきたいし、考えた結果それが自分の認識(悟り、幸取=さとり)になったなら、これからは自分が(生きている死んでいるにかかわらず)どう在るべきか(自分の在り方を観る、“観自在”)考えていただきたいものです。

 

 また考えたならばそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になりうることを先に述べましたが、“上”の通信を受けて、自分の在り方を考え、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)することが、次の事象の“創造”に参加しうる最低限の資質であることを重ねて述べておきます。