太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “その二”

先回の文末で

「何かを達成するには、自分の努力と、努力によって得られた“力”の行使、これだけではダメなのだ。 そこに“神の采配”というものがあるのだ。 ということに気づく。 そして、自分と神、あるいは“上”との関係というものがあるのではないか、と思うものである。 そうして、自分と神、“上”との関係、自分が“力”を得る、そして行使する、そのためにはこれを考えていかねばならない、その認識(悟り、幸取=さとり)に至ったならば…」

ということを述べました。

これについて当の本人がそこまでのことを考える、そこに至るには、自分の思惑の顕現、その目的とすることに対し、相当エネルギーの贖い(あがない)があったはずである。 

そして自分は頑張ったのに自分の思うとおりに力を発揮でき得ない、という、自分としては理不尽に感じるその状況に於いて、自分以外の“力”が作用しているのではないか? ということを考え始める。 

 

この「自分以外の“力”が作用しているのではないか?」と考え始めること事態が、霊的干渉であり、“力”を貸し与えようとする、“力”を付けさせようとする、背後の霊的存在からの通信を受けているものである。 

しかしながら、この段階に於いて当の本人は、自分の背後の存在が“力”を貸し与え、あるいは“力”を付けさせようとしている、通信を受けている、などという霊的干渉ということに理解が及んでいない場合が多い。

それでも、先の「自分は頑張ったのに自分の思うとおりに力を発揮でき得ない、という、自分としては理不尽に感じるその状況」というのは、自分の頑張り以外の何かが作用しているのではないか、と思い始めるものであるし、この「自分の頑張り以外の何かが作用している」と当の本人に思わせ、背後の存在を意識させることが、また、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となるものであり、この感応や“気血栄衛(營)”が進めば進むほど、当の本人は、自分がここまで頑張っても自分の思い通りにならないということに対して、これは自分の“行”なのではないか、という発想もするものである。 またこの「“行”なのではないか、という発想」自体も、背後の通信を受けているからである。

そこでその本人は、“行”を意識して、そのうえでもっともっと努力をする。

またその過程に於いてますます背後の霊的存在との感応や“気血栄衛(營)”が進んでいく。

そして背後の霊的存在は当の本人にもっと“力”を付けさせようとする。 その場合、努力に応じた結果を出す、あるいは背後の霊的存在が干渉して自分が思った以上に結果を出させる、ということを体験させる。 

またこれに相対し、自分の思惑以上の結果が出たとしても、それはいつまでも続くわけではなく、うまくいかなくなる時もあり、いわゆるスランプみたいな時期も体験させる。 

これも背後の霊的干渉により、頑張って(元の気を張って)も頑張っても結果を出させない、そうやってもっともっとその本人に努力させることをもする、ということも起きるものであるし、この繰り返しを行っていくと、当の本人は背後の霊的存在の通信を受けて、自分の思い通りにならないのなら、先人に倣って“行”をすると“力”が得られるのではないか、と思い始める。 

 

この「思い始める」こと事態、当の本人にもっと“力”を付けさせようとする霊的存在の干渉そのものである。 また「当の本人にもっと“力”を付けさせようとする霊的存在の干渉」、これがローム太霊の伝えた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、であったりもする。

ここまで述べてきたことの解り易い具体例として、プロ野球川上哲治が打席に立った際、ボールが止まって見えた、という事例、これも川上哲治本人が野球に於いてエネルギーの贖い(あがない)があった結果、野球に“力”を発揮する霊的な存在、この場合は反射速度を上げるための動物霊(ネコ科の動物など)の憑依が中心でしょうが、この“力”が貸し与えられてひとつの“術”(“力”の顕現)となったということが言い得ます。

もう一つ例を挙げるなら、極真空手大山倍達身延山に籠り、そこで数か月過ごして、自然石を手刀で割ることができるようになった。 その際に大山倍達本人にだけ、自然石の割れ目のようなものが見えるようになった。 これは、身延山にいる様々な霊的存在の感応と“気血栄衛(營)”の結果、こういったことが出来るようになったと分析し得るものである。

 

これらの事柄、自分の努力、エネルギーの贖い(あがない)、これに対する霊的干渉、これは、人間が何かを成し遂げようとするその意志、それを強く思い、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に移す、ということをしなければ、様々な霊的存在は“力”を加えたり“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を貸し与えたりはしない、ということである。

そうやって当の本人は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けて、顕現する、それは“術”(“力”の顕現)として行使する、ということが言えますが、これをしていき、ある程度自分の自尊心と功名心を満たしたとする、それは具体的には、金を得る、名声を得る、などがあって、そのうえで、自分の“力”とは何か、何のために使うのか、自分の努力はいったい何だったのだろうか、ということを考えるようになっていく。

この「自分の“力”とは何か、何のために使うのか、ということを考えるようになっていく」という発想をさせる背後の霊的干渉は、当の本人の心(靈)を“上”に向かわせるものであり、またその段階よりももっと“力”を付けさせ、これまでとは違うことをさせようとする背後の霊的干渉であることが考えられる。

 

この話は次回に続きます。