太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 太陽凝視の意義

 

 先回

「霊的成長度の低い者は、低いものの見方(低い“観察と認識”)しかできない、それゆえに太陽凝視に対し、“ほんとう”の価値を見出せない、また見出そうともしない」

という指摘をしました。

 

 これは、言い方を変えるなら、太陽凝視の本来の意味と意義を理解し得る資質を持っていない、また、解り得ないがゆえに、自分たちの低い価値観に於いて、太陽凝視そのものを低いものとしてしまっているのだ、ということになります。

 

 この「太陽凝視そのものを低いものとしてしまっている」という現状があるがゆえに、先回述べた通り太陽凝視に対して甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見てしまうものであり、先回引用した“日月神示”春の巻 第二帖の

“特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが”

これの“九分通りしくじる”というのが、先回指摘させてもらった方々を含め、今、太陽凝視を行っているすべての人間の現状であると言い得ます。 

 

 ならばこれで述べられている

“太陽の光集めること知っているであらうが” そして “特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ”

これが春の巻 第二帖の冒頭の

“カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ”

この文言にかかっている。 

 そこでこれら文言は何を伝えようとしているのか、これについては最近“続”で解釈を行った、紫光会の経文、四空経録の西霊大眞如太神の引用が理解しやすいので、引用をしていきます。

 まず

“カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ”

これについては “その十八” http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1871.html

忿怒無策 晴天実策 諸霊援護 満歩無害 宴曲来舞 一奇満得 巨民救難

この文言の解釈を参照され

“太陽の光集めること知っているであらうが” そして “特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ”

これについては “その八” http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1851.html

普積一仏

“その十四” http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1863.html

普現実功 差別有無 力利格的 石様天門 奇仙法立 関登砥身 剥気積在 白雲足下 神力縦横 応答有波

“その十六” http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1867.html

炁塔確立

“その十八” http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1871.html

炁光満心

これら文言を参照され、ことに 炁塔確立 そして 炁光満心 というのが、西霊大眞如太神の総括 http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1873.html

で述べた通り

「実際にある者が“行”やっていかねば、こういった価値のある文言を人間には教えることをしない、という“上”の決まりのようなものがあるに決まっている」

という非常に重大なことを、たった今、太陽凝視を少しでも行っている方々に知ってもらい、太陽凝視の意義を解って貰いたい、また“日月神示”春の巻 第二帖の

“カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことである”

これが、四空経録 西霊大眞如太神の 巨民救難 これに相当することをも理解して貰いたいものですし、これが、たった今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によって“創造”されている現実、“世”、事象、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化に満ちている現状を、今後=アセンション後に移行し得るそれに変えていくためのことである、ということをも付け加えておきます。

 さらに、“その十六” http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1867.html

ここで引用した、昭和五十四年十二月十七日のローム霊訓講話で太霊が述べた

即ち神自身である

こうなることが、太陽凝視の目的である、ということを厳に述べ、この“総括編”を終えることとさせてもらいます。

 

 ご高覧いただきありがとうございました。

 

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 智性(神性)の獲得の“行”ということをどう扱うか

 

先回は、智性(神性)の獲得をするための人生、これに於いて、ということを念頭に、その人生に於いて自分はどう在るべきなのかを述べました。

 

そこで、このブログを読んでおられる方々は、多少なりとも太陽凝視のことを知っておられる、あるいはある程度実践しておられる方であると思います。

 

アタシとしては、太陽凝視という“行”が智性(神性)の獲得のためのものである、それはまた、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”である、ということを、著書でも“続”でもこのブログでも述べております。

しかしながら太陽凝視で検索すると、不食のため、とか、潜在能力を引き出す、とか、健康増進、とか、超人間になる、とかなどのネット上の書き込みが目立ちます。

こういった書き込み、自分が太陽凝視をしたならば、何か自分に特別なことが起きるのではないか、というその動機で太陽凝視を行う方々は、おそらく、人間の心(靈)の構成、いわゆる目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)と目下(めした)(動物の心(靈)の段階)ということをよく判っておられない、また心(靈)の動き、その息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、これに感応する霊的存在、その“上”“下”ということも解っておられないのであり、ただただ人と違うことをすると、自分には何か良いことが起きるのではないか、いわゆる、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見たい、そこに何かしら特別な効果を期待したい、ご利益みたいなことがあるのではないか、という考えを持っておられるのではないかと推察しますし、それ以前に、単に太陽凝視をエンターテイメント扱いしていらっしゃるのではないか、ということも感じます。

そして、今述べた「ご利益みたいなことがあるのではないか」と思うその心(靈)の動きにおいては、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”としての太陽凝視、という捉え方や考えを持っていない、そもそも人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)というその概念もおそらく持っていない、それゆえに太陽凝視に甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見たがるのである。

こういった傾向、それは著書でもブログでも述べている通り、霊的成長度の低い者は、低いものの見方(低い“観察と認識”)しかできない、それゆえに太陽凝視に対し、“ほんとう”の価値を見出せない、また見出そうともしないのであり、ただただ自分が太陽凝視をしたならば…という先に述べた考えしか持ちえないのである。

その考えの裏には、自分がほかの人とは違う特別なことをしているのだから、衒う(てらう、意は、ひけらかす、自分で自分をほめて宣伝する、自らを吹聴する)という、低い功名心由来の心(靈)の動きがあるものである。

この「低い功名心由来の心(靈)の動き」、それが所以の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)、高い存在は、感応しにくい、通信を受けにくいということが指摘出来る。 それはますます自分を衒うことばかりして、太陽凝視の“ほんとう”の価値に気づかず一生を終えてしまうか、あるいは少しだけ太陽凝視を行ってやめてしまう、という顛末になることが多い。

(著書をお読みになられて連絡をいただいた方は200人以上おられ、その方たちすべてが太陽凝視をしているのではないですが、連絡をいただいて太陽凝視をしている方々は、いま述べたこと、ほとんどがこのケースである)

(またこれは、後述する“日月神示”春の巻 第二帖における“九分通りしくじるのぢゃ”に当たることであると思えます)

 

そこで、アタシとしては今後=アセンション後に移行し得る霊的成長度の方々を増やそうと思い、著書になったブログを立ち上げ、また著書の読者にある程度の指導をしている。

また“日月神示”を書かせた艮(うしとら)の金神は、最初に黒住教に於いて朝日の日拝(にっぱい)(太陽凝視の入門、初心者向け)を教え、“日月神示”内では、“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行うこと、ということを述べているものである。

しかしながら、太陽凝視をすれば誰もが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)し得る、ということにはなり得ない、それは先に述べた通り、

「霊的成長度の低い者は、低いものの見方(低い“観察と認識”)しかできない、それゆえに太陽凝視に対し、“ほんとう”の価値を見出せない、また見出そうともしない」

という実情がある、ということを憂いております。

 

そこで、太陽凝視で検索されてこの文章を読んでおられる方もおられると思いますが、自分がどんな動機であれ太陽凝視を行っている、という方ならば、太陽凝視の“ほんとう”の価値というものをよく解っていただきたい、また真摯に“行”としてもらいたいものである。

また、太陽凝視を行うその根拠たるご自身の心(靈)の動きは、低い功名心所以のことか、あるいは物事に真実=真固止を求める智性(神性)所以のことなのか、これを自分に問うてもらいたいと思います。

 

ここまで述べたことをよく理解するために、艮(うしとら)の金神は“日月神示”春の巻 第二帖に於いて

 

カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。誰でも霊かかりであるぞ。石でも木でも土でも霊かかりぞ。これは一般かみかかりであるぞ、特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが。神の理(ミチ)をよりよく、より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。理(ミチ)であるぞ。世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ。旧、元旦、日月神

 

ということを述べていますが、ことに

“特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが”

この文言を深く理解して貰いたいので、これの解釈 

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1602.html

これをよく読んでいただきたいし、重複しますが、少しでも太陽凝視を行っておられる方々は、太陽凝視に真摯に向き合って貰いたい、ということを、今回述べておきます。

 

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 智性(神性)の獲得のための生き方

 

 先回、“神の采配”として“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課す試練、これに自分がどう向き合うのか。

またそれに於いて“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)が重要である。

上記のことを述べました。

 

このこと事態、すべて自分の心(靈)の動きによるであるし、その自分の心(靈)の動きに於いて、自分がどういう心(靈)の動きをするのか、その方向性というものの選択になることである。

またその心(靈)の動きそのものが、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となる。

こういった心(靈)の動きをして、自分を育てようとする“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が行われればよいのですが、先回も述べたように、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の者は、自我が脆弱で、脆弱であるがゆえに自我の肥大をして、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)が台頭して、常々本能由来の欲望が心(靈)の動きを占めているものであり、またそういった者は自分の保身ばかり考え、自分にとって都合のよいことばかり思い、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉)者となる、という状況になり、そういった心(靈)の動きをする者は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する、また、“上”と感応して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)することを、自分の心(靈)の動きによって避けているのであると言い得るのであり、その心(靈)の動き自体を自分で諌めることをしなければ、“上”の影響を受け得る、ということが難しい。

 

しかしながらその者に関わっている“上”は、その者を育てたいがゆえに、その者が「自分の心(靈)の動きによって避けている」ということを繰り返しているなら、同じような課題や問題、これを試練として体験させ、それは一生に於いて何度でも体験させるということをするものである。 

よってこのことについては、S会=紫光会の交霊会でよく使われた文言

神は乗り越えられない試練は与えない

ということを、自分自身がよく承知しなければならないのであり、この承知ゆえの認識(悟り、幸取=さとり)があってこそ、目前の事象に“神の采配”として“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課す試練、これを見出し得る、またそれに真摯に向き合い、頑張って(元の気を張って)いく、このこと事態が、自分を育てようとする“上”の思惑に沿って行くこととなり、それがあってこそ、“上”との感応や“気血栄衛(營)”が起きうるのであり、そうやって自分は育っていくものであることを自覚するようになっていく。

 また、いま述べた「自覚するようになっていく」、このこと事態が、自分の心(靈)が育ったということでもある。

 

 今述べてきたことは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”ということを意識しない、いわゆる大半の地球人が一生のうちに経験することであり、こうして少しずつ心(靈)が育つ段階というのが、大概の地球人のケースである。 

 

そこで先に述べた“上”が課した試練というものを「自分の心(靈)の動きによって避けている」、これを何度も繰り返して一生を終わるならば、その者は幽界に於いて自省(胸の磁性“十”)の“行”を強いられるものである、ということを、“ローム太霊講話集” 第七話~第十六話「死の前後」と「死後の種々相」 から読み取れるものである。 

その解り易い具体例としては第十話の

幽体が完成すると自由行動が許され、先ず寂しい荒野の中に独りぽつねんと立たされ…中略…そうすると、自分が肉体を持って生きてきた生涯の幻影(まぼろし)が走馬灯のように次々と現われて、あれは悪かったこれは善かったというふうに、自分の善悪の業(ごう)がしみじみと悟らされ…中略…自分は独りぽっちだと思う期間が相当続く。そのうちに段々善い方のことは頭に浮かばなくなり悪い方のことばかりが思い出されてきて、終(つい)には悔恨の涙に咽ぶ…中略…中でも一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと…以下略…

上記文言中の“人を欺(あざむ)いたこと”、これについてローム太霊講話集をお持ちの方は深く考えずに読み飛ばしてはならず、なぜ“人を欺(あざむ)いた”のか、そこに自分自身への保身というものがあるからではないか、ということを想定しなければならないのであり、その保身のために、その者が生きている間の所作というものがあるが、それが、“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”かを、その者自身が見出さねばならない、それは自省(胸の磁性“十”)であり、また智性(神性)由来の自己観察になっていくことを読み取らねばならないものである。

 そこで表題の 智性(神性)の獲得のための生き方 これは生きている間に、“神の采配”として“上”が課す課題や試練とまっとうに向き合う、そしてそれから避けることをしない、逃げない、また常に“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのかを、自分で判らねばならない、これ自体が智性(神性)の行使であり、これをすればするほど“上”との感応は進み、自分は育っていくのであるということを述べておきます。

 

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 智性(神性)の獲得に至る局面

 

 先回の「生業(なりわい)中心の人生」これについて

「低い霊的干渉が中心であるなら、その者の人生はたいして霊的成長、智性(神性)の獲得と強化ということはほとんど無く」

ということを述べました。

 

 そこでこの文章を読んでいただいている方々には、たった今ほとんどの地球人は「その者の人生はたいして霊的成長、智性(神性)の獲得と強化ということはほとんど無く」であることを考えていただきたい。 

それは、自分たちが神の子であり、神の“思惑の顕現”のための存在であり、神の“思惑の顕現”を担う使命を持っている、人生は自分の心(靈)が育つための機会である、などという自覚もなく、そもそもそのようなことは考えたことが無い方々ばかりであるのが、ほとんどの地球人である。

それゆえに、今、述べたことに該当する方々は、自分の利益、損得、本能由来の欲望、など、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが台頭しているのが当たり前、そしてその達成が自分の幸福であると思い込む傾向が強く、よってそれ由来の価値観しか持ちえないのが一般の方々である。 

 

そしてその心(靈)の動きによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には、当然のことながら「低い霊的干渉が中心」が中心であり、こういった方々にはたくさんの浮遊霊などの悪霊が憑いているものである。 そういった状況では、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の干渉は起きにくく、“上”の通信も届きにくいのであり、これについてはアタシの“主護霊”が語った

年取って、何重の層を背負ったら、どうにもならんのだ。動きが取れな”(ローム太霊との出会い 146p)

これの“何重の層を背負ったら”というのが先の「こういった方々にはたくさんの浮遊霊などの悪霊が憑いている」に該当し、それはその方々の心(靈)の動きに於いて冒頭で述べた「自分たちが神の子であり、神の“思惑の顕現”のための存在であり、神の“思惑の顕現”を担う使命を持っている、人生は自分の心(靈)が育つための機会である、などという自覚もなく、そもそもそのようなことは考えたことが無い方々ばかりである」ということであり、その“何重の層を背負ったら”“動きが取れない”というのは“上”である“主護霊”の立場からの言い回しであることを読み取っていただきたいのであり、重複しますが、多くの方がこの状況に該当することになってしまっているがゆえに「低い霊的干渉が中心である」ということになっている。

 

そこで、その人間を育てようとする“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信や干渉というものは、“何重の層”となっている“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の霊的存在に阻まれているものである。 

それは、自分は生きている間に何をするべきなのか、また自分が何者か、様々な局面に於いて自分はどう在るべきか、対外的にどう振舞うのがまっとうなのか、などを“上”は教えようとする、また、人生に於いて生業(なりわい)の“行”をある程度達成したならば、自分自身の霊的成長のためのことを“上”は教えようとする、そういう局面に遭遇させようとするが、これには“神の采配”による神の試練、本人への苦痛や苦難、苦悩を体験させる、それはまた、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、でもあるのですが、こういったことを通じて、そこに於いて自省(胸の磁性“十”)の“行”をするならば、自我の肥大から少し進んだという心(靈)の育ち、いわゆる霊的成長があり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”という自分のことしか分からない段階から、周囲と自分、そして全体と自分とは、ということを徐々に考えていくステップに入るものである。

しかしながら

「自分自身の霊的成長のためのことを“上”は教えようとする、そういう局面に遭遇させようとするが、これには“神の采配”による本人への苦痛や苦難ということが多く」

これから逃げたい、ごまかしたい、真剣に考えず忘れてしまいたい、という通信を“下”は送るものであり、これと感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)しているから、本人の心(靈)が育つその局面に於いて“上”からの通信、そして“上”との感応も阻まれていたりするものである。

結果、多くの人が生業(なりわい)中心の人生を送るのみで、たいして心(靈)が育たずに死に移行していく、そして死後、幽界に於いて自省(胸の磁性“十”)の“行”をする、これについては“続”のローム太霊講話集解釈で詳細に述べましたが、これがたった今の多くの地球人の死に方であると言い得る。

 

大事なことは、自分が先の「自分自身の霊的成長のためのことを“上”は教えようとする、そういう局面に遭遇させようとする」この局面に於いて、これを真摯に捉え、真剣に考え、自分はどう在るべきか、どう振舞うべきか、考える、そうするならば、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となり得るのであり、そうしなければ自分は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のステップを踏んで、先に進むということにならないのである、という認識をしっかり持つべきである。

これが、たびたび使う表記の“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)に当たることである。

それは、常に自分は自分の心(靈)を“観察と認識”して、たった今の自分は「“神の采配”による本人への苦痛や苦難」、これをどう捉えているか、自分は逃げていないか、ちゃんと向き合っているか、これを自分で判断することが“上”との感応の第一歩となり、ちゃんと向き合いその試練に耐えていくならば、これ事態が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、ますます“上”と感応し、よって“上”は援護し、また通信を送り、その局面々々に於いて、自分の在り方や振る舞い方を教えられる。

この過程を踏んで行かなければ、自身の智性(神性)の獲得と強化には至らないのである、ということを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 生業(なりわい)中心の“行”に於ける霊的干渉

 

 先回の文末の

 

生業(なりわい)に於ける霊的干渉であるから、その者の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に関わる高い霊的干渉というのは無いであろうことが言え、生業(なりわい)の中で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を発揮して、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということがあって自分の在り方や振る舞い方を考えていったとしてもそれは、“一”=智性=1番目のオーラの強化、ということになかなか繋がらないものであり、生業(なりわい)の“行”の場合はほとんど2~3番目のオーラの強化となっているものである。

それは、生業(なりわい)中心の人生に於いての心(靈)の動きとしては、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、までの“行”である、ということになり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結びつく、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”は対して行えていない

 

今回は上記文言中の

生業(なりわい)に於ける霊的干渉である

それは、“一”=智性=1番目のオーラの強化、ということになかなか繋がらないものであり、生業(なりわい)の“行”の場合はほとんど2~3番目のオーラの強化となっている

これについて述べることとします。

 

 そもそも生業(なりわい)の“行”というのは、物や金、また“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示すことをして自分の低い功名心を満たそうとする、ということが動機になっているものである。

これが今の地球人の当りまえであり、その中でどれくらい努力したのか、頑張ったのか、そしてどれくらいの対価を得たのか、という点でしか、人間の価値というものを評価していない傾向があるが、これがそもそも人間としての“ほんとう”の価値、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)という点に於いて、その価値というものを見誤った評価の仕方でもある。

 

 また、この「今の地球人の当りまえ」の人生の過程に於いての個々の心(靈)の動き、如何に自分たちが心(靈)の満足と幸福と思うことを得るか、そのために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付ける努力をして、その“力”を“術”(“力”の顕現)とし、これを行使して、その代償、対価を得ようとする。 

 この過程に於いても、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は課題、試練、苦難、を与えて、その者を育てようとする、そうするとその者は、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをして、自分の在り方振舞い方を見出そうとするが、その際の霊的干渉というものは、生業(なりわい)に於ける存在であり、それは先の

「「今の地球人の当りまえ」の人生の過程に於いての個々の心(靈)の動き」

これの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)によることなので、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を付けさせようとする“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は、ほとんど無いということが言いうる。

また、先の

「地球人の当りまえであり、その中でどれくらい努力したのか、頑張ったのか、という点でしか、人間の価値というものを評価していない」

という価値観しか持っていない人間の“主護霊”は、その人間の生まれ落ちた際の条件

(これについては https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2022/11/06/004329 この記事を参照のこと)、生業(なりわい)の“行”を頑張る、これをしっかり行わせる、というその人生に沿った“主護霊”であり、その人間の人生に於いてその者の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めようとするほどの思惑を、たとえその“主護霊”が持っていたとしても、それを行使することが出来ない。

よってその者に、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高め得る“行”に霊縁を付けるとか、遭遇させ得るとか、あるいは、たとえその者が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を獲得し得る太陽凝視という“行”を知ったとしても、その“行”に“ほんとう”の価値を見出させるほどの通信を送ることが出来ないとか、ということが指摘出来得る。

 

(こういった現状があるから、太陽凝視ということを知ったとしても、太陽凝視を不食のためのものだけと思う、エンターテイメント扱いする、という人間が多いのであり、それは“日月神示”春の巻 第二帖 

http://tuyukusanotuyu.blog45.fc2.com/blog-entry-1602.html 

これの

“特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが”

これの“九分通りしくじるのぢゃ”に当たる人間であるということです)

 

 これらの事柄がローム太霊講話集第四十四話の

人間の体は大別すると、肉体、幽体、霊体、神体(これは本体とも元体とも言う)の四つから成り立っているが、このうち肉体と幽体とは総支配霊とその配下の支配霊達が指導しており、霊体は主として主護霊が指導しており、神体は主護霊の上の主護神人と一般に守り神と呼ばれる神々が指導しておる

という文言の内容と合致することであり、また第四十三話ではっきり述べておられる通り

生業(なりわい)のことになると凡て支配霊の領分である

ということでもあるのであるから、生業(なりわい)中心の人生を送る者、その者の心(靈)が育つ、というのは、第四十四話の“肉体と幽体とは総支配霊とその配下の支配霊達が指導”に当たり、“霊体は主として主護霊が指導しており、神体は主護霊の上の主護神人と一般に守り神と呼ばれる神々が指導しておる”ということがその者の人生にあまり無いのであり、智性(神性)は得られにくいということが言いうる。

そしてそれは、先回の

「生業(なりわい)の中で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を発揮して、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということがあって自分の在り方や振る舞い方を考え」

これが中心になるのであり、よって

「それは、“一”=智性=1番目のオーラの強化、ということになかなか繋がらない」

ということになる。

 

 またその生業(なりわい)中心の人生の極端なものとして、ローム太霊講話集第三話

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

ということになりがちであることが指摘出来、これは例えば一攫千金を目指す者、これには人間のように物を集めたり金を使ったりしたことのない動物霊、また一獲千金を夢見て挫折して死んだ浮遊霊とかがその者の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応して憑依する、また解りやすい例として政治家にも同様に金や物に執着する動物霊と浮遊霊、そして縄張りを示す動物霊が感応するとか、プロスポーツ選手にも金や物に執着する動物霊や、ことにスポーツの技というものは動物のそれを利用しないと達者になれないので動物霊が憑くとか、芸能人も、その演技をするという息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に浮遊霊が感応し、どれくらい自分を無くしてその浮遊霊の言いなりになるのか、ということがよい演技を生み出すことになっているとか、こういったことは例を挙げるときりがないのですが、この文章を読んでいらっしゃる方は人間の所作に於ける霊的干渉というものを見出せる視点を持っていただきたいですし、これらの活躍にこの“人間に物を与えてその欲望を利用”に当たることが多く、それはその人間の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き、本能や低い功名心、それによる自我の肥大、この息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による低い霊的存在との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)や“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)、これが中心の人生であったりする。 

 

こういった低い霊的干渉が中心であるなら、その者の人生はたいして霊的成長、智性(神性)の獲得と強化ということはほとんど無く、その低い霊的干渉により心(靈)が乗っ取られ、それでもその者は人生に於いてその生業(なりわい)に“神の采配”があって試練を与えられ、失敗をしたりして自省(胸の磁性“十”)の“行”をするものであるが、その際に心(靈)が折れて、人間を恨んでいる霊的存在の影響を受けやすくなって自殺する事例も多々あるものである。

 またこういった霊的成長度の人間は、世の為、人の為、という言葉を口にしても、それは、単に言葉だけで人を欺こうとする者であったりもする。 この“欺く”ということ事態、智性(神性)無き心(靈)の所作であり、動物霊や浮遊霊に見られるものであり、その影響を受けているのでその者の智性(神性)が高まるわけがない。

例えば政治家や、既成宗教関係者や、宗教を模した詐欺商法に関わるものなどが、世の為人の為、という言葉を使っても、それは単に欺いているだけであり、また元旦の記事に引用した“日月神示”表記の“誠一つ”ではない。 そしてそれは、言葉を巧みに使って自分の利益を得るという“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”特有の“術”(“力”の顕現)であったりもするし、その“術”(“力”の顕現)に加担する霊的存在は先に述べた通りである。

 

 そこで余談になりますが、たびたび引用している“世為人為”というS会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉は、一切万象への奉仕、全体の幸福を考える、そのための自分のエネルギーの贖い(あがない)、ということであり、この文言の解釈にはその解釈した人間の霊的成長度というものが如実に表れるものである。 

その低い解釈や認識では、たとえ世の為、人の為に、と思い、そこでエネルギーを贖って(あがなって)自分が行う行為、これに対して、対価を求めるとか、代償を求めるとか、あるいは自分の低い功名心を満たすとか、あるいは自分の身の回りの範疇だけに於いてこれを考えるとか、という心(靈)の動きがあったならそれは、この文言に対する解釈がてんで低く、そう思うものは霊的成長度が低いのだということであり、これに相対し、霊的成長度の高い者の“世為人為”は、代償を求めずただただ神にその結果を任せてエネルギーの贖い(あがない)をしていくのだ、ということである。

そこで解りやすいのはローム太霊講話集第二話

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う。この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない

これの“この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない”と述べられている通りのことが今の人間の現状である。

そこで余談ついでで述べますが、アタシ自身が考え得る“世為人為”の最たるものとしては、ローム太霊講話集第六話の

神が人間のために尽される

“創造”の“主(ヌシ)”は、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に対価を求めず、ただただ人間の進化のために息吹きしているということである、そう思える…ということを述べておきます。

新年あけましておめでとうございます。

 

 たびたび新年のあいさつに於いて、“神烈しく(はげしく)”という“日月神示”の文言を引用しております。

 この“神烈しく(はげしく)”の意味合いは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の降り注ぎが盛んになる。 これ自体がまた、“創造”の“主(ヌシ)”の心(靈)の動きであり、また息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)である。

この“神烈しく(はげしく)”により、これまでとは違う変化変容が起きうるのであり、それは、神、“創造”の“主(ヌシ)”を含む、一切の存在の心(靈)の動き、思惑、そして、その心(靈)の動き、思惑、の、所作たる事象への行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)というものが、はっきり結果を示すこととなるものである。

 

そこでまず“創造”の“主(ヌシ)”の思惑というのは、“創造”の“主(ヌシ)”の被造物である人間が、現実、“世”、事象(現界)と認識する場(フィールド)を含め、死後の場(フィールド)と認識され得る、幽界、霊界、神界、をも含めた一切万象の“大弥栄”“大完成”、これに向かっていく“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)、これを進めていく、そしてそれは“うれしうれし”“大歓喜”となっていく、の意であり、これについて理解しやすいのはローム太霊がローム太霊講話集第二話で述べられた

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

であり、この“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土”、これの実現が“創造”の“主(ヌシ)”の思惑であるのですが、この“楽土”に到達し得る人間の資質を持つ者、“楽土”という事象を“創造”し得る霊的成長度の地球人は、現時点、あまりにも少なすぎる。 

 

それは、ほとんどの地球人が、誰もが持っている低い心(靈)の動きである、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き、これを諌めることをしていないのであり、こういった者たちを“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と、著書やブログで分類し定義付けをしておりますが、この者たちの思惑は、自分、あるいは自分たちだけの幸福を願うのであり、そもそもこういった者たちの幸福というのは物欲や金銭欲や本能的な欲望(食欲、性欲など)に由来し、その幸福を得るため、また自分たちの損得のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使し、金や物を集め権威を示し、低い欲望を満たすということをしている。

その結果、全体の幸福を願わない片寄った“力”の行使が台頭しており、これが、経済の格差による飢餓貧困を生じさせ、これによって死んだ者の浮遊霊の増加、特に子供の浮遊霊、この浮遊霊は経済大国の人間を恨み、憑依しているという現状がある。 また、これに加担する存在、人間に殺され人間を恨んでいる家畜の浮遊霊、さらに戦争で死んだ者の浮遊霊、個々の人間が背負っている因縁に由来する霊的存在など、これらが恨みの連鎖の霊的干渉となり、その現象化が、天災、疫病のようなもの、低い憑依現象による理由が理解しえない犯罪、などなどとなり、そして恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の最たるものは、核を使用した戦争、これに必ずなっていくものである。 

これらを誰もが観る、あるいはその災禍を被る、ということになり、これは地球人である以上、だれも免れることが出来ないのですが、この「災禍を被る」「免れない」ということと、先の「はっきり結果を示すこととなる」に対し、まだまだ徐々にしか結果が出ていない現段階、それはいよいよ近づいてきていると思われる経済の破綻、政治や経済に由来する権威が形骸であることの露呈、また“日月神示”表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)による既成宗教や宗教を模した金集めの活動の露呈、あるいは疫病のようなもの、また常識や既成概念では、理由と根拠がはっきりしない犯罪の多発、あるいは天変地異、これらなどを、誰もが“観察と認識”して、あるいはその災禍を被るであろうことを知って、これらの理由と根拠を知って今の内にこれらのことをしっかり受け止めることをする。

そしてこれを受け止めたならば、これらの原因が、自分たちの目下(めした)の心(靈)の動きにあることを自覚し、自省(胸の磁性“十”)の“行”をしていくならば、その者は次の事象へ移行し得る資質の一端の獲得をしていくものであり、その「次の事象」というのは“日月神示”表記の“グレン”、既成宗教で説かれている“最後の審判”“麦と毒麦は分けられる”そして“弥勒の世”の到来、というのが、先の“楽土”に向かっていく過程であることを理解するべきである。

そこで「“楽土”に向かっていく過程」これに参加しうる資質と資格というのは、“日月神示”表記の

善一筋”(“善(神格化の方向性と智性の受信)”一筋) 
誠一つ”(これまで、誰もが不誠実であったから、これに相対した言い回し)

また“絶対の善”を顕現しようとする、ということであるのですが、これらの事柄をアタシの著書やブログから読み取っていただき、一人でも多くの方が、先の「“楽土”に到達し得る人間の資質」というものを理解され、たった今の自分の心(靈)の動き、それは、

目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)のそれか、

あるいは目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)なのか、

あるいは“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか、

これをご自身で見出すことをする、この見出す過程が智性(神性)の発現と強化になっていくということを理解され、そういった方々が増えて一人でも多く今後=アセンション後に移行されるようになってほしい、というのがアタシの思惑であり、これの実現のための活動を、今年も行っていくつもりです。

 本年もよろしくお願いいたします。

 

 児玉登

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 生業(なりわい)中心の“行”

 

ほとんどの地球人の場合、それは、地球人における平均的な霊的成長度の人間というのは、人生に於いて、自分が選択した生業(なりわい)、いわゆる仕事をして、対価として金を儲け、そして自分が幸福と思うことを実現するためにエネルギーを贖う(あがなう)ということをしていく、いわゆる普通の人生を送り、そして死に至るものである。

そういった人生では、霊的成長、神格化に向かうこと、ということを意識するということがほとんどない。 

よって、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”に入っていくケース、というのは地球人に於いてはごく少数である。

そこで、これを読んでいらっしゃる方が間違った認識を持つといけないので、先に述べておきたいこととして、たった今の宗教関係者やスピリチュアルなことを述べている者たちは、自分たちが“行”やっていると主張したとしても、それは「“行”ごっこ」でしかなく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”を行っていないものである。 それどころか今指摘した者たちは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”、それは“日月神示”表記の“役員づら”であり、自分や自分たちの利益のため、自分たちの(形骸の)権威のために、宗教やスピリチュアルを利用しているだけなのであり、こういった者たちは、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”を行っていないものである。

今述べた「“行”ごっこ」については以下のリンク先を読んで理解してください。

 

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その七” 「神に近付こうとする」際の具体的なことを求めはじめるに当たって https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2020/07/06/055415

 

話を戻し、今述べた「普通の人生を送り、死に至る」、これと「進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のための“行”に入っていくケース」、これは生まれ落ちた時点に於いての霊的成長度の相違、ということがあり、個々の輪廻転生に於いての、心(靈)の育ち具合に差がある、ということが言いうる。

 そこで、先回述べたこと

「人生に於いて何をさせようとするか、換言すればどんな“行”をさせようとするか」

という、その者の“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑がある。

それは、生まれ落ちた時点での霊的成長度と、また、その者がどんな因縁を背負っているのか、その因縁によってどんな仕事を選び、人生に於いてどんな苦難を体験していくのか、あるいはどんな“行”に入っていくのか、これを決定づける要因となるものである。

 

そこで先に述べた「普通の人生を送り、死に至る」という多くの地球人は生業(なりわい)ということをする、それは、いわゆる物や金を得て幸福になりたいがための努力ということをするが、この生業(なりわい)、いわゆる仕事、業務に類することが、自分の“行”であるという自覚を持ちえない者が多いものである。

しかしながらその生業(なりわい)に於いて、エネルギーの贖い(あがない)を行っていくなら、体を使い、思いを巡らせ、生業(なりわい)に於ける“術”(“力”の顕現)というものを構築するものである。

そして生業(なりわい)の対価として報酬を得て、自分が思う幸福、功名心の満足、などを得るものであるが、先の

「エネルギーの贖い(あがない)を行っていくなら、体を使い、思いを巡らせ、生業(なりわい)に於ける“術”(“力”の顕現)というものを構築する」

ということをする過程に於いて、心(靈)の動きというものがあるのであり、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その息吹に対しての霊的干渉がある、ということがあるのは当然のことで、これ事態が“日月神示”表記の“弥栄”の意でもある。

 

ただしその場合は、生業(なりわい)に於ける霊的干渉であるから、その者の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に関わる高い霊的干渉というのは無いであろうことが言え、生業(なりわい)の中で“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を発揮して、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということがあって自分の在り方や振る舞い方を考えていったとしてもそれは、“一”=智性=1番目のオーラの強化、ということになかなか繋がらないものであり、生業(なりわい)の“行”の場合はほとんど2~3番目のオーラの強化となっているものである。

それは、生業(なりわい)中心の人生に於いての心(靈)の動きとしては、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、までの“行”である、ということになり、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結びつく、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”は対して行えていないことを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下”  “上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の干渉と所作による“行”の選択

 先回まで、「正鵠な認識」、これを得る、ということを述べてきました。

 その「正鵠な認識」を得て、それを自分の理念として“行”をする、というのが“行”をして進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する者にとって理想的な形と言い得るのですが、先回文末で述べた通りその認識を理念として“行”しているという自覚を持った者はほとんどいないと言い得るのが現状である。

 

それは、“行”している者の資質、これはその者が少しでも智性(神性)を発揮しているか、あるいは動物に近いのか、いわゆる霊的成長度ということである。

またその霊的成長度、そして本人が背負っている因縁など、これらによってその者がどんな“行”をしていくのか、については相違があるものである。

 

その「どんな“行”」そして「相違」、これについて、ここまでの記事でいくつか具体例を挙げ、その中には泥棒の“行”などという、一見、“善(神格化の方向性と智性の受信)”からほど遠いと思える例についても説明してきましたが、それを続けていくならば必ず右往左往と左往右往があり、本人は自省(胸の磁性“十”)して“善(神格化の方向性と智性の受信)”を意識していき、自分の在り方振舞い方を考えていくようになるものである。

(ただし、それは生きている間に於いて、自省(胸の磁性“十”)がなされるならよいが、死んでから考え自省(胸の磁性“十”)する者もある、ということも述べました)

 

この極端な例に比べ、生きている間に於いて、生きていくことに対し、苦痛や苦悩を“上”から与えられて、自分の在り方を見出していく人生というものもあり、その人生に於いて自分は何をなすべきなのかを考えていく、これ自体が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の行使であるが、そういった者も数少ないが地球上にいないわけではない。

 

たった今、比較するには少々極端な例を挙げましたが、いずれにせよ、それは必ず「正鵠な認識」を獲得するという段階に入るには違いないのであり、この「正鵠な認識」の獲得自体が、自分が神の子であり、たった今、神の子としての、生き方、在り方、振舞い方、これに合致していなくても、いつか必ず神の子に復する、ことと同義であるという言い方が出来るものである。

 

また今述べた「比較するには少々極端な例」これが派生する理由は、生まれたその時点に於いての霊的成長度の相違という要素があり、これについては著書で地球人は平均八百回ほど輪廻転生をしていることを述べましたが、その輪廻転生のさなかでの心(靈)の成長の度合い、またどんな使命を背負って生まれてくるのか、などに於いて、差、相違、というものが出来てくるものであり、そこで個々の人間、その成長に関わる存在としての“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、その者が生きている間に何をさせて“行”させるのか、これの選択をする、ということがあるものである。

それだからこそ、人間が生きている間に行うことの、差、相違、というものが見られるものである。

 

しかしながら先にも述べた通り、生きている間にエネルギーの贖い(あがない)をするならば、それがたった今どんなに“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが、どんなに醜いことであろうが、それはエネルギーの贖い(あがない)には違いないのであり、先に述べた通り

「それを続けていくならば必ず右往左往と左往右往があり、本人は自省(胸の磁性“十”)して“善(神格化の方向性と智性の受信)”を意識していき、自分の在り方振舞い方を考えていくようになるものである」

となる。 

 また少々余談になりますが、「たった今どんなに“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であろうが、どんなに醜いことであろうが」というのは、“日月神示地震の巻の表記、“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な事柄に当たるのであり、エネルギーの贖い(あがない)が、“日月神示”表記の“弥栄”に相当することでもある。

 この“弥栄”をする、個々の心(靈)がエネルギーの贖い(あがない)をするということ事態、地震の巻 第三帖の

“個の弥栄は、全体の弥栄である。 個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する”

この文言の意味と意義、これに合致することである。

 

 本題に戻り、自分がエネルギーを贖う(あがなう)ということをしていくならそれは、その行いの段階々々に於いて“二義的”(根本とは相違する、根本から派生した何か)な“善悪美醜”“真偽”“愛”と“憎”などがあったとしても、いずれ“善(神格化の方向性と智性の受信)”を言うものを見出し、自分の所業が“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)となっていくのであり、これ自体がすべての人間が神の子であるということでもある、という言い方が出来得る。

 

そこで、たった今の所業に於いて、神の子としての資質と資格というものが見受けられないような者であったとしても、自分自身の“思惑の顕現”にエネルギーの贖い(あがない)ということをしていくなら、神の子に復する、ということになりうるものである。

 

その際に、その者の“上”は、先の

「輪廻転生のさなかの成長の度合い、またどんな使命を背負って生まれてくるのか、などに於いて、差、相違、というものが出来」

ということを考え、その者の人生に於いて何をさせようとするか、換言すればどんな“行”をさせようとするか、ということを導いていくことになる。

 

 次回からは「人生に於いて何をさせようとするか、換言すればどんな“行”をさせようとするか」について述べていくこととします。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” “行”を意識し始める段階 “その五”

 

 先回文末で述べた

 

“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)あってこそ、“上”が通信を送り、それを受け取った当人が考えていく、その過程で「正鵠な認識」が得られるものである

 

この「正鵠な認識」とは何か、それは自分の“力”をどう扱い、どうやって行使していくのか、それは先回も述べた通り、

“自分の在り方を考え、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使を“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)とし、また神や仏、心霊、これを真摯に求め、追及し”

というようになっていく。 

そしてこのこと事態が、自分は何のために存在し、何のために“行”をするのか、ということを、自分自身が神に近くなっていくほど理解していくことにもなっていく、ということも言いうる。

 

しかしながらここまで述べてきたように、平均的な地球人の霊的成長度の人間、大概の人間は、まず、自分の私利私欲のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けようとする。 

そしてその“力”を行使して、金銭や物や名誉を得ようとする。 そのために自分は頑張る(元の気を張る)ということをするものである。 

そしてその頑張ることをする動機は、心(靈)の動きの本能所以の欲望の達成、名誉欲などの低い功名心の満足であったりすることが多い。

これらの心(靈)の動きは自我の肥大となるものであり、その霊的成長度の段階は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となるものである。

 

これらについて太霊は、ローム太霊講話集第十六話に於いて

 

若しその者がその求めた力によって世のために役立つことが出来なければ、その力が与えられると同時に、その肉体は消滅に近付きつつあることを自覚させる現象が、必ず本人に起こってくるものである。こういう人間は、世間から神と呼ばれて独善(ひとりよがり)の法悦(よろこび)に浸っていても、その九分九厘までは物欲、名誉欲という網の目の中の一つを求めて蠢(うごめ)いているに過ぎないのである。こうして私利私欲に執着するならば、神が与えられた人間本来の力も使命も全くその意義を失って潰(つい)え去るのであるから、その者の地上の存在は不必要となってその生命が元の所へ戻されるのは当然のことであろう

 

ということを述べておられます。

 

 また同じく第十六話に於いて

名誉欲などのために不思議の出来る人間になりたいというような考えは、決して起こすべきではない

とも述べておられます。

 

そこで先に述べたことと重複しますが、こういった動機(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈))で“力”を付け、そのために頑張る、この段階に於いては、

“上”が通信を送り、それを受け取った当人が考えていく、その過程で「正鵠な認識」が得られる

とはなりにくいものであることを先回も述べました。 それは、誰もが“力”を付けようと頑張り始める、これは人間として当然のことである。 そしてある程度頑張って徐々に“力”を付けてそれを発揮し得るほどになったとしても、

“上”が通信を送り、それを受け取った当人が考えていく

という段階にはなかなか達せないものである。

それは、“力”を付けるその努力をする過程、それは長い期間であったりもするが、その期間に於いてに、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、幾度も繰り返し、そのたびごとに考え、自省(胸の磁性“十”)して、自省することがまた心(靈)が育つことである。

 

ここまでのことがあってこそ、先に引用した

“上”が通信を送り、それを受け取った当人が考えていく、その過程で「正鵠な認識」が得られる

ということになっていくものである。

また、「自省することがまた心(靈)が育つことである」となっていくには、その人の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がある程度しっかりしていなければならない。

そこで、ほとんどの人間が、この自省(胸の磁性“十”)という心の動きが弱く、自分の在り方を考えることがあまり出来ない者が多いのですが、これについては、ローム太霊講話集の第二十三話

 

術は中々むずかしいものである…中略…現在名人と呼ばれている人…中略…二百年三百年の修行をした人の霊が或いはその道に達者な奇鬼神天霊神などが、その人の支配霊となって働いているのだと考えるべき…中略…こうして一人の鍛錬した波動の持ち主が何かの繋がりで付いたとなると、その人間は必ず名人になれるのであるから、汝等にしても自分の仕事の上でその術を磨こうとするなら、その道に堪能と言われる大本の神を拝んで、その配下を支配靈として付けてもらうのが一番よい方法ということになる。このように、天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

 

これの下線を引いた部分に相当する状況になることを述べておきます。

 

そこで、自分が“力”を付けようとする、それは(神の子としての人間として)誰でもが自分の思惑を顕現しようとする、ということであるが、一生のうちに“「正鵠な認識」が得られる”という段階にまで達する人はどれくらいいるだろうか。

また、この“「正鵠な認識」”を理念として、“業行”(生業(なりわい)と“行”)をしている者はどれくらいいるだろうか、ということを思います。

 

そこで今、自分は“力”を付けようとしている、また“行”やっている、という自覚のある方が、この文章を読まれたなら、今の自分は“「正鵠な認識」”というものを理解しているだろうか、これを行使しているだろうか、について、しっかり考えてもらいたい、ということを述べておきます。

 

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” “行”を意識し始める段階 “その四”

 先回の文末の

 

当の本人は、もっと“力”を付ける努力もする、それは頑張る(元の気を張る)ということをする、そして自分に対し、先の「何かが作用しているのかもしれない」その存在を意識し、意識し始めること事態が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その霊的干渉はもっともっと盛んになっていき、結果、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となり、“上”からの通信を受けていくことになっていく

 

これの

  • 「何かが作用しているのかもしれない」その存在を意識し
  • 意識し始めること事態が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その霊的干渉はもっともっと盛んに
  • 感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となり、“上”からの通信を受けていく

 

上記箇条書きは、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けようとする本人の思惑と努力によることである。

 

そこで本人が“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け、その顕現のために努力する、ということをしていくならば、何回も述べている通り必ず霊的干渉はあるものである。

その霊的干渉が盛んになればなるほど、というのは、本人が“力”を付けることを強く考え思い、願う、それは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、また“力”を付け得るための努力をする、これを頑張る(元の気を張る)ということをする、ということですが、そうすると、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は通信を送り、援護して、もっと努力させようとするし、本人にもっともっと“力”を付けること、また“術”(“力”の顕現)を発揮することを、考えさせるものである。

またそこに於いて“上”は、その当人に“力”の行使に於いての自分の在り方というものを見出させようとするものである。

そこでその当人は、もっともっと

「何かが作用しているのかもしれない」その存在を意識 

これをもっともっと強く意識していくものであり、その「意識していく」こと事態が、ますます強い息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、“上”との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は進むものであるし、“上”との感応と“気血栄衛(營)”が進めば“上”は通信を送り、もっと“力”を付ける、またその“力”を行使させ得るためのヒントを与えるものである。

 これについてはローム太霊講話集第二十三話

天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものである

これに合致することでもある。

 この「ヒントを与える」は、その“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)によって相違はあるものの、これ事態がその人間を先に進ませようとする“上”の思惑であり、“上”の采配であると言い得る。

 そして「ヒントを与える」に関して、“上”がその当人の努力と頑張りを観たうえで、ヒントを与え得る許可をして通信を送る、という仕組みがあることも解っておかねばならないことであり、これは先に引用したローム太霊講話集第二十三話の

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れる

これに当たることである。

 

 ここまでの事柄は、一般の生業(なりわい)、いわゆる仕事などに於いての“力”の顕現でもありうることであるし、これについては、プロスポーツの選手などの努力とその活躍などを観ると理解しやすいのであり、またその活躍の裏には必ずスランプみたいなことがあり、これがまさにローム太霊が教えた右往左往と左往右往に当たることでもあり、そのスランプみたいなことを体験している期間は当人の心(靈)が動いている期間であり、強く息吹きしている期間であるものである。

 

 そこで、神や仏、心霊、あるいは宗教のことを知っている人間が

「何かが作用しているのかもしれない」その存在を意識 

これをしていくと、当の本人はその「存在」に、神や仏や心霊を当てはめて考えたりもする。 

そうすると宗教で説かれているような“行”に入ることを真摯に考えるようになるケースもある。 

しかしながら“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が台頭しているこの現実、“世”、事象では、「“行”に入ることを真摯に考える」こういった人間はごく少数であることを、蛇足ではありますが、述べておきます。

 

また、“力”を求めるその動機というのが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”所以の、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)であり、本能所以の欲望の達成、金銭欲、物欲を目的としていると、先に取り上げたローム太霊講話集第二十三話の

天狗道、仙道その他いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたい

この下線を引いた部分に当たる者となってしまうのであり、こういう人間のほうが多い、ということが言い得るのであり、そういった者は、生きている間に“力”を行使し、活躍して、この世界で名声と形骸の名誉と(通貨としての)金と物をたくさん得たとしても、死んでから、物欲と金銭欲、本能由来の欲望、これらの心(靈)の動きしか持ちえない浮遊霊に成り下がって“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団の一員となってしまうのである。

 

そこで今指摘したケースに相対し、自分の在り方を考え、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使を“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)とし、また神や仏、心霊、これを真摯に求め、追及している者、これこそ先に述べた通りごく少数ですがこの世界、現実、“世”、事象にまったくいないわけではないのであり、それは“上”から通信を受けているから“行”することが、自分を高めることを知っている。 

 

そしてその「自分を高める」の結果は自分がどうなっていくのか。 

これをまた真摯に求め、“行”をおこなっている者、それは“日月神示”表記の“幾人も無い”(下つ巻 第三十四帖)ということではありますが、ここまでの段階に至った者は、“行”について正鵠な認識を持っている、そしてその「正鵠な認識」を自分にあてはめて、“行”を行って、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)しようとしているものである。

 

それは先にも述べた通り、本人の心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それによる“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)あってこそ、“上”が通信を送り、それを受け取った当人が考えていく、その過程で「正鵠な認識」が得られるものである、ということを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” “行”を意識し始める段階 “その三”

 

 先回の文末で述べた

「自省(胸の磁性“十”)の“行”の最初の段階」、

これの自省(胸の磁性“十”)という心(靈)の動きは、言うまでもなく

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主”(ローム太霊講話集 第二十一話)

という霊的成長度の人間にあっては、ほとんど無い心(靈)の動きであり、これに相当する霊的成長度というのは、何回も述べてきたことではありますが、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である。

これに該当する人間は、自分のためにしか“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使わない。 そして、それによることとして、自分の欲望の追求、自分の利益の追求、これを自分だけの幸福として、その追求にいそしむものである。 

 

それゆえに、ローム太霊講話集の第二話

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち…中略…この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ない

これは、全体の幸福を考えないということでもある。

先の「自分だけの幸福」を求める、こういった心(靈)の動きをする者は、他者のことなど考えもしないものであり、自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使して、人をだましてでも利用してでも、また極端なことに受け取れるかもしれませんが、犯罪や戦争などで人を殺してでも「自分だけの幸福」を得ようとする、そういった心(靈)の動きであることが指摘出来得るものである。

 

この「心(靈)の動き」は、自我の肥大であり、またそれは“日月神示”の“石屋の仕組み”の意味であることを述べてきておりますが、この霊的成長度の人間であっても、先回述べた通り

 

  • “力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう使ったらもっと良い結果になっただろうか
  • 自分の“力”の使い方はまっとうであったか
  • 自分は何のために“力”を得ようとしてきたのか
  • “力”を行使して自分は何を得ようとしていたのか、それは物や金か、自分の心(靈)の満足なのか

 

ということを考える局面に、必ず至るものである。

 

その局面、換言すればそれを思わせ得るその事象に当の本人が至ったならば、先の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きが反映した「自分の欲望の追求、自分の利益の追求、これを自分だけの幸福として、その追求にいそしむ」ということから、一歩“上”に進み得るものである。

それは、先の「考える局面に至る」、これ自体その人間を育てようとする、これ事態が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の干渉であり、また“神の采配”と言い得ることであり、そこに於いて自分の“力”というものを見直し、それは自分の努力に於いて“ほんとう”に“力”を得たということにあたるのか、また。その“力”の使い方を見直していく、もっとまっとうな使い方をするべきではなかったか、ということを考えていくものである。

その過程に於いて、自分の努力に於いてただただ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けただけでは、その結果は出ないことがあるのだ、重複しますが、自分の頑張りや努力だけが“力”の行使の結果に結びつくことではない、ということを少しずつ分かっていく過程でもある。

それは、「“力”の行使の結果」には、自分以外の存在の関与、ということがあるのかもしれない、ということに気づくものであり、その時点で運命や神を意識したりもする。

そして自分に対する霊的干渉というものを、霊的干渉と思わずに、何かが作用しているのかもしれない、ということを意識し始めたりするものである。

 

そこで当の本人は、もっと“力”を付ける努力もする、それは頑張る(元の気を張る)ということをする、そして自分に対し、先の「何かが作用しているのかもしれない」その存在を意識し、意識し始めること事態が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その霊的干渉はもっともっと盛んになっていき、結果、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)となり、“上”からの通信を受けていくことになっていく、ということが言い得ます。

 

この話は次回に続きます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” “行”を意識し始める段階 “その二”

 

 先回述べた

「“親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当する」

これに該当する人は、

「人間は神の子であるがゆえに、神の目論見に適った人間となっていくものである、そしてこれ自体、人間の存在意義である、しかしながら、これが自分に当てはまることなのだ、と思う人はとても少ない」

そしてそれは

「“下”としか感応しえない心(靈)、人間にしかない智性(神性)という心(靈)が育っていない者は、やはりその段階に於いての感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)しかない、ということが言える」

またそれは

「霊的成長度が低い」

ということである。

 

 しかしながら、今指摘させてもらった「霊的成長度が低い」人であろうと、その霊的成長の段階、あるいはその程度、これに応じてのエネルギーの贖い(あがない)はあるものであり、自分の欲や望み、これを自分の一生のうちに実現しようとする。

ただそこには、先の「その霊的成長の段階、あるいはその程度」ということがあるからこそ、その欲や望みの対象、あるいは“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということに関わらず、実現しようとしている。

そして先回も述べた通り、自分のエネルギーの贖い(あがない)に応じての霊的干渉というものは、必ずあるものである。

 

そこで指摘させてもらうならば、こういった段階の人たちはそのエネルギーの贖い(あがない)について、“行”であるという自覚が無い。 ただただ自分の“思惑の顕現”のために、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をつけたい、と思い頑張る(元の気を張る)ことをする。

 

また、この「“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をつけたい、と思い頑張る(元の気を張る)ことをする」に相対する、引きこもって好きなことだけをしていたい、という現実逃避とかと称されている人は最近多くなっていますが、この場合も、単に目前の事象から逃避しているだけで、必ず何かを思い、また行って自分の“思惑の顕現”をなそうとしているものであり、これもエネルギーの贖い(あがない)であるということが言い得ます。

 

そこで、ここまで幾たびか述べた通り、その「エネルギーの贖い(あがない)」によって“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得して、これを行使する、その過程に於いて、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということが必ずあるものであるし、この右往左往と左往右往自体が、その人間を育てようとする“上”の采配の反映した結果である。

 

そこで、今述べた右往左往と左往右往ということが生きている間にほとんどなく、ただただ裕福に一生を終わる、というケースもありますが、これについてはローム太霊講話集第二十一話

ある神はある霊を人間界に送り出して、物質欲を満喫させる修行によって新しい霊にすることもある

これに該当する心(靈)であり、それは、まだ、右往左往と左往右往という体験をさせ得るまで心(靈)が育っていない、要は人間としてとても幼い心(靈)なのである。

こういうケースもあることを少々蛇足ながら述べておきます。

 

話を戻し、この右往左往と左往右往という体験をする当の本人は、“上”が自分を育てようとしている、などということを知る由もないのであり、自分は努力した、頑張った、それなのに、なぜ、どうして、結果が出ないのか、ということを必ず思うものである。

この「なぜ、どうして、結果が出ないのか」ということを思い、自分の努力を省みて様々なことを考える、この考えるという心(靈)の動きが、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その息吹に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する存在は、通信を送り、その通信はそれを受け取った本人の心(靈)の動きに反映するものである。 

そこで

「自分の努力を省みて様々なことを考える」

「その通信はそれを受け取った本人の心(靈)の動きに反映する」

この要素があって、

 

“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)をどう使ったらもっと良い結果になっただろうか

自分の“力”の使い方はまっとうであったか

自分は何のために“力”を得ようとしてきたのか

さらに、

“力”を行使して自分は何を得ようとしていたのか、それは物や金か、自分の心(靈)の満足なのか

 

こういったことを考えるようになっていくものであり、その考えること事態が、先回引用したローム太霊講話集の第二十一話、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これの“動物的なあたまの持主”という霊的成長度の段階から、少し進化(霊的成長、神格化に向かうこと)する過程である。

 またこれら、いろいろ考えることが、自省(胸の磁性“十”)の“行”の最初の段階である、ということを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” “行”を意識し始める段階 “その一”

 先回文末で述べた

「人間は神の子であるがゆえに、神の目論見に適った人間となっていくものである」

これ自体が、人間の存在意義である、ということが言い得ます。

しかしながら上記文言を観て、これが自分に当てはまることなのだ、と思う人はとても少ないと思います。 

 

そこで、人間が霊的成長して神に近づいて行くということについて、先の

「これが自分に当てはまることなのだ、と思う人はとても少ない」

という方々について今回は述べることとします。

 

誰でも、どんな人でも、人間という者は生きているには違いない。 その生きている間、これは換言すれば、心(靈)が肉体を持っている間、ということではありますが、これに関しすることは後述するとして……誰でもどんな人間でも、人間は、生きている間に何かをしているものであり、また、それに伴って、常に心(靈)を動かしているものである。

この「生きている間に何かをしているものであり、また、それに伴って、常に心(靈)を動かしている」について一例を挙げれば、自分の欲求を満たしたい、そのために頑張って“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得ようとする、そこでうまくいったときは喜び、また失敗したときは悲しみ心(靈)が折れて思い悩む、等々、心(靈)が動いていないときは無いという言い方が出来ます。

 

そこで先に述べた「これが自分に当てはまることなのだ、と思う人はとても少ない」というのは、今述べた事柄が自分自身のエネルギーの贖い(あがない)である、ということを意識したことが無い、といえ、これらを当たり前かのように思っているということである。

また、そのエネルギーの贖い(あがない)に於いて、喜んだり悲しんだり思い悩んだりetc…先に述べた通り、常に心(靈)は動いている。 心(靈)が動いているからそれは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、息吹となるがゆえにそれに感応する霊的存在の影響を受け得るものである。

そこでその感応は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)や“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)に関わらず、心(靈)を動かしている以上、常に起きており、常に自分の肉体と心(靈)に影響を受けているものである。

 

これら、自分自身のエネルギーの贖い(あがない)によるその所作、換言すれば思いや行動、これと、“上”や“下”の霊的干渉というものは、すべて肉体内の生体内電流に変換され得るものである。 

また「肉体内の生体内電流に変換され得る」ということがあってこそ、その人間の心(靈)は育っていくものである。

余談ながら、たった今の人間の学問では、今述べた「すべて肉体内の生体内電流に還元されうる」ということにあまり着目していない感があります。

 

話を戻し、常々述べている通り、神格化のための“行”というのは生体内電流による肉体組織の結晶化、“玉(ぎょく)”となること、それは肉体組織を構成している分子の配列によることである。

この分子の配列を決定づけ得る要因が、生体内電流であるということでもある。

また、分子の配列が結晶化していくなら、高い振動を止めることが出来るようになっていくものであるからこそ、より高い振動を取り込んでいき、それによって心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくものであることを幾度となく述べてきています。

 

そこで先に述べた通り

「誰でも、どんな人でも、人間という者は生きているには違いない」

そして

「人間は、生きている間に何かをしており、また、常に心(靈)を動かしている」

のである。 そして

「自分自身のエネルギーの贖い(あがない)」が「生体内電流に変換され得る」

ということ事態が、程度の差こそあれ、霊的成長と同義であるという分析が無いし、一般にその概念もない。

 また

「自分自身のエネルギーの贖い(あがない)によるその所作、換言すれば思いや行動、これと、“上”や“下”の霊的干渉というものは、すべて肉体内の生体内電流に変換され得る」

これの、“上”との感応が自分の心(靈)に影響を与えていく段階にまで心(靈)が育っているならば、それは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得になり得るのであり、並行して“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)となっていくがゆえに、神格化のための“行”を見出そうとする、また見出したならそれを頑張るようになっていく。

 これに相対し、“下”としか感応しえない心(靈)、人間にしかない智性(神性)という心(靈)が育っていない者は、やはりその段階に於いての感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)しかない、ということが言えるのだが、この過程を経て、だんだん自分を観る、それは自省(胸の磁性“十”)となり、その自省(胸の磁性“十”)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)が、少しずつ“上”との感応になっていくものである。 

 

 ここまで述べたことは、霊的成長度の高低、これによることではありますが、今述べたこと「これに相対し、“下”としか感応しえない心(靈)…以下略…」というのは、霊的成長度が低いのであり、またそれは幾度も引用したローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当する、ということであり、これが冒頭で述べた「これが自分に当てはまることなのだ、と思う人はとても少ない」、この方々に該当するものであることを述べておきます。 

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “ここまでのまとめ”

先回の文末で

 

  • “力”を得た自分はこれからどう在るべきか、“力”をどうやって行使するか、どういう使い方が正しいのか、また、これまで自分がやってきた“力”の行使は、先にも述べた通り、人間としてまっとうであったか、ということも考えるようになっていく。
  • また、“力”を行使した自分、というものを自分が自分を振り返り、その際に“観察と認識”をしていくと、人間とはいったい何だろう…ということも考えるようになっていく。
  • 「考えるようになっていく」事態が、日足(ひたり)の極性、精神性の強化であり、考えること事態が目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳の行使であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を強化し得るものである。 これが、左往右往の実相と言い得ることでもある。
  • これまでの、“力”を求めて行使するという心(靈)の動きとは違う息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、息吹が違うゆえにそれに感応する霊的存在も違ってくるものである。 それは、その人間に対し、もっともっと“力”の使い方を考えさせ、“力”の行使に於いての、自分の在り方、振舞い方、ということを考えさせていくものであるし、人間の存在とは何か、という疑問を思わせ、自分自身が神の子であるということを少しずつ意識させていくものである。

 

ということを述べました。

 

 上記箇条書きの最後の「自分自身が神の子であるということを少しずつ意識させていく」というのが、その人間を育てようとする神の目論見である。 

 この「神の目論見」通りに人間は育っていく、育っていかねばならないのである。

それゆえに人間は、どんな人間であっても、自分が望む何かを実現したいと思うものであり、そのために努力して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けて、“思惑の顕現”、望む何かを達成しよう、ということをする。 

その“思惑の顕現”の過程に於いて、霊的成長度の低い者、まだまだ動物に近い人間は、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということをしっかり考えていない場合が多いのは、低いがゆえに当然である。

 

そこでここまで述べてきたように、先に述べたその“思惑の顕現”の過程に於いて、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをしていくものであり、そこに於ける自分の心(靈)の動きとその努力を、自分自身が“観察と認識”して、そしてその過程を観て自分は自分を振り返る、ということをして、自分の在り方を鑑みる過程に入っていくものである。

 

その「自分の在り方を鑑みる過程に入っていく」というのは、その人間が自分の“思惑の顕現”のため、精一杯エネルギーを贖い(あがない)、またその過程に於いて右往左往と左往右往を幾度となく繰り返し、そのたびに自省(胸の磁性“十”)をするものである。

こうして自分は、自分が今までどうで在ったのか、これからの自分はどう在るべきか、これらを思い、それを右往左往と左往右のたびごとに強く思うものである。

この「思う」こと事態が、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の刺激となり、また行使となり、心(靈)は育っていくものである。

 

そして「目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の刺激となり、また行使となり、心(靈)は育っていく」ということがあまり無い場合、いわゆる霊的成長度が低い場合に於いては、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はその人間の心(靈)を育てようとしている通信を送っているのだが、その通信の振動とは感応することがあまり無くほとんど素通りするものである。 

 

また“創造”の“主(ヌシ)”も、人間にこう在って欲しい、という通信を送っている。

それはローム太霊講話集の第二話

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

第六話

神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよい…中略…これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということに…以下略…

この文言に、“創造”の“主(ヌシ)”が「人間にこう在って欲しい」というその思惑が読み取れるものである。

しかしながら先にも述べた通り“創造”の“主(ヌシ)”は人間に通信を送っているが、「目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の刺激となり、また行使となり、心(靈)は育っていく」ということがあまり無い場合は、その通信の振動とは感応しえないで、素通りしていくものであり、それゆえに霊的成長度の低い者は“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということを自分にあてはめて考えたり、“善悪”を自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の規範としないものであるのだが、これに相対し、心(靈)が育てば育つほど自分は“善(神格化の方向性と智性の受信)”とは、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”とは、ということを考えていくものである。 

これ自体がまた、心(靈)が育った、神に近づいた、ということと同義である。

 

そこで表題の

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程

とは、心(靈)が育ち、“創造”の“主(ヌシ)”の通信、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信、これらの振動が自分の心(靈)に止まり、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する、ということになり得るのである。

 

そして、ある程度心(靈)が育っていくと、自分自身が思う自分の存在の意義は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は生きていくのに必要である、それゆえに“力”を付けてきたのだが、自分はその“力”をどう扱うべきか、どう行使するべきなのか、ということを考えていくものである。

その段階にまで至ると“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としては、「“力”を付けてきた」というその段階より、もっと違う段階に入らせようとする。 

それは“行”をさせてその人間の心(靈)をもっともっと育てようとする。 

そのきっかけとなる事象に遭遇させていき、その人間は“力”を付けるという段階から、“行”をしていくようになっていくものである。

そうなっていくと、ますます“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということを考えていき、その考えは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応していくようになっていくものである。

 

こうやって人間は、どんな人間であっても、人間は神の子であるがゆえに、先に述べた「神の目論見」に適った人間となっていくものである、ということを述べておきます。

現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “その四”

 

 今回も

「自分の“力”とは何か、何のために使うのか、ということを考えるようになっていく」という発想をさせる背後の霊的干渉は、当の本人の心(靈)を“上”に向かわせるものであり、またその段階よりももっと“力”を付けさせ、これまでとは違うことをさせようとする背後の霊的干渉であることが考えられる

これについて述べていきます。

 

 “その一”から“その三”で述べてきたのは、自分自身がある目的のために頑張った、だがそれは、単に“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けて活躍した事例である。

その際の霊的干渉に関しても具体例を挙げてきました。

 

 そこで自分は努力して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け、活躍し、欲望の達成、自尊心と功名心を満たす、ということをした。

その際の頑張り、言い換えればエネルギーの贖い(あがない)、というものがあったには違いないが、“力”を付けて活躍したこと事態が、“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか。 これについて先回は、泥棒の“行”という解り易い一例を挙げました。

 

自分が頑張る、頑張って(元の気を張って)頑張って努力して“力”を付け、そして自分の思惑の顕現をする、目的の達成のために“力”を行使する。

しかしながらそれは一生において順調に続く事例は少ないのであり、“力”が使えなくなったり、“力”を使っても結果が出ない…などの時期が必ずやってくるものである。

 

この“時期”に到達すると、その本人は自省(胸の磁性“十”)の段階に入る。 自分は正しかったのか、まっとうであったか、これを考えるようになっていくものである。

 

これ自体、ローム太霊が伝えた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということでもあり、これの右往左往に関しては、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)という事例もある。

 

こうやってその本人は、“力”を得た自分はこれからどう在るべきか、“力”をどうやって行使するか、どういう使い方が正しいのか、また、これまで自分がやってきた“力”の行使は、先にも述べた通り、人間としてまっとうであったか、ということも考えるようになっていく。

また、“力”を行使した自分、というものを自分が自分を振り返り、その際に“観察と認識”をしていくと、人間とはいったい何だろう…ということも考えるようになっていく。

 

この「考えるようになっていく」事態が、日足(ひたり)の極性、精神性の強化であり、考えること事態が目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳の行使であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を強化し得るものである。 これが、左往右往の実相と言い得ることでもある。

 

そしてその心(靈)の動きは、これまでの、“力”を求めて行使するという心(靈)の動きとは違う息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、息吹が違うゆえにそれに感応する霊的存在も違ってくるものである。

それは、その人間に対し、もっともっと“力”の使い方を考えさせ、“力”の行使に於いての、自分の在り方、振舞い方、ということを考えさせていくものであるし、人間の存在とは何か、という疑問を思わせ、自分自身が神の子であるということを少しずつ意識させていくものである。

そうして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)という存在は、その人間を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に方向づけさせようと常にしているから、ケースバイケースではありますが、もっともっと“行”をさせる、また、もっともっと人間の在り方ということを考えさせ得る事象に遭遇させる、ということをさせ、信仰に入らせたり、“力”をもっと得るための“行”を知る事象に遭遇させたり…ということをするものである。

これらすべて、“ほんとう”の進化論 

https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/archive/category/%E2%80%9C%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E2%80%9D%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96

の後半で述べた、1番目、2番目、3番目のオーラの強化と拡大となっていくものであり、またこのことは本人の心(靈)が育っていくことと同義であると言いうる。

 

この話は次回に続きます。