太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

悪魔に対しての認識の無さ “その一” 悪魔を認識しえない霊的成長度

 すでに「神に対する認識の無さ」で述べたことではありますが、ほとんどの人、平均的地球人は、神も認識しえない、同時に悪魔も認識しえない。 そんなものはあるのかないのか分らない、その実在に関して真剣に考えないか、考えたことが無い人が大多数。

 そして自分たちの人生に神や悪魔が関わっているなどとは思っていないものでもあるし、この世界、現津(あきつ)、観察され得る事象、現実に、神と悪魔の影響がある、ということを真剣に考えている人はごく少数、さらに神や悪魔を自分たちの利益のために都合よく利用している宗教関係者やそれに関わる権力者などもいる。

(“日月神示”表記の“役員づら”) 

 

 これらの理由として、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階である。 

 それゆえ自分の利益と損得しか考えない人間が多い。 

 また、神や悪魔を示す何か見ても、神や悪魔の実在を示すどんな事象に遭遇しても、自分にとって都合の良い解釈をしたりしてその意味を追求しない、あるいはそういったことですら自分の利益や損得、あるいは形骸の権威のために利用しているものまでいる。

 

 アタシの著書やブログを読んでいる人たちは、上記の人間の霊的成長度に対し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ということを思われる、しかしながらたった今の地球人の大半はこういった人間でしかない。

 

 それで、神の思惑としては、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、そのために“神の采配”、“神の咎め”があるものである。

 

 そして人間自身が、自分が思うまっとうな事柄に対し、頑張った人間に対し、“神の恩恵”があるのは“正当な報酬”として当然のこと。

 

 これに相対し、悪魔の思惑、人間を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させようとしない、人間を生物学的に虚弱にしている、恨みの連鎖の霊的干渉を増して悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)をふやし、天変地異や犯罪や病気をどんどん増やしている、などを、著書やブログで述べていますが、「悪魔の思惑」などという言葉を使うと、一笑に付す人が圧倒的多数でもある。

 

 その「一笑に付す」理由として、先に述べたようにたった今の地球人は自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをしているものであり、自分の利益と損得しか思わない、それしか考えていない、ありていに言えば自分のことしか分らない人間が多い、この世界が神の思惑通りになっていく、生命(生きる使命=存在理由)としての人間は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていくものである、などと思わない、こういったことを考えることが出来ない。

その神の思惑として、何回も引用しますがローム太霊はローム太霊講話集、第二話で

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

と説明しておられ、これに対しローム太霊は

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられます。

 しかしながら“自分のできる範囲でこの神の心を出せば”などということを実際に行っている人はごく少数である。 またローム太霊講話集の第二話を読んでもこの言葉の意味を理解している人はほとんどいない。

 

 また“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたい”に対し、アタシの著書やブログの文章を読んだ人でも、恨みの連鎖の霊的干渉の意味も理解しえないし、自分にとってそんなことは関係ないのだ、と思う人に幾人も遭遇しました。

 

  こんな思い方をする、悪魔の思惑を理解しようとしない、恨みの連鎖の霊的干渉を知識として知っても自分の在り方を考えないのは、その人達の心(靈)が悪魔に近いのであり、それは、悪魔は自分の思惑の達成のために他者の命や尊厳など無視する、結果それは究極の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と言いうるからである。

 またそれは、自分たちの心(靈)が神に近いか悪魔に近いかを判別しえない、自分の心(靈)を自分で観察して“上”の心(靈)か“下”の心(靈)かを判別できる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がない。

 だからこそその人達は、自分たちの心(靈)の中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認する、自分に対しての“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ちえない、その厳しさゆえの自分の在り方を思わない、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)、ということになりますが、こういった人たちの心(靈)はすでに悪魔の傀儡に近いと言い得ますし、悪魔の傀儡だからこそ悪魔の“思惑の顕現”=現象化を認識しえない傾向があるといえます。

(※ 傀儡とは、かいらい、くぐつ、操り人形、の意)

 

 それで、これからこのカテゴリーでは、たった今の世界、この事象に対しどんなふうに悪魔が働きかけ、その思惑を現象化させているのか、またそれと感応している悪魔の傀儡に成り下がっている大多数の人間の心(靈)の動きについて、具体的に述べていく事とします。

神に対しての認識の無さ “その八” 平均的地球人の霊的成長度における神の概念は低すぎるということ

 ここまで「神に対しての認識の無さ」ということを述べ、それについては、ほとんどの人間がただ漫然と生きているだけであり、それは神を言葉でしか知らないし、真剣に、真摯に、考えないことが無い、鑑みたことが無い、自分にとって都合の良い神の概念を持ったりする、そして薄っぺらい神の概念は権力の行使に使われたりもするし、神の概念を間違えていることにすら自分で気付いていない…など、その認識の低さを指摘してきました。 

 それで、なぜ、ほとんどの人間が神に対して深く考えていないか、あるいは自分と神の関係について知ろうとしない、そのことを求めようとしないのか、また、神を理解しえないのか、それは自分にとって都合の良い神の概念しか持たないのか、これらは単に霊的成長度が低い、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が足らないからであるといえ、換言すれば、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)が未発達である。 

 未発達がゆえに、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの低い部分としか感応しておらず、それはまだ動物に近い、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の段階の心(靈)の発現しかしていないからである。 

 ただし「神に対しての認識の無さ」は、平均的地球人の当り前であり、その低い概念は既成概念でもあり、また、自分たちが低いという認識すらないものでもある。

 それで、アタシが述べてきていること、平均的地球人が持っている神に対しての認識、それが低いという指摘が出来得る。 

 その指摘は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が強化された心(靈)でなければ出来得ない。 

 その理由として、平均的地球人よりも、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)でなければ、平均的地球人の神に対する認識の低さを指摘することが出来ない。

 仮に平均的地球人と同等の霊的成長度ならば、その認識の低さを判別できないものであるといえる。

 

 アタシが長年行ってきた太陽凝視は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得と強化のための厳しい“行”であり、智性(神性)が高まるからこそ、神に対してもこの事象〈現実〉に対しても平均的地球人とは違うものの見方をするようになり、さらにそこで自分の在り方を考えることが出来るようになってきた。 

 それは厳しい太陽凝視をここまで45年、“行”として行ってきて、その間にさまざまな事を考えた、考えたことはアタシ自身の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、それに感応する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在があった。

 また先に述べたように、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の、高い振動と感応し“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)してきた過程がある。

 

 余談になりますが、アタシの霊的成長度が“行”を始めた18歳の時から高かったわけではなく、何年も何十年も太陽凝視を行い、また電気行も行いつつ徐々に育ってきた。 

その育った段階(アタシの霊的成長度)に応じた“上”との感応があり、“行”を頑張れば頑張るほど“上”は通信を送り、贈ってきた。

 また、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、との感応も変化をして、高い振動を取り込み(“日止、霊止”)認識(悟り、幸取=さとり)は変容してそうやってアタシの心(靈)は育ってきた。 

 この「心(靈)が育つ」(進化(霊的成長、神格化に向かうこと))ということ。

 “行”を頑張り、目前の事象の意味を深く考える人間には、神は高い認識を獲得させようとするものである。

 これに相対し、頑張っていない人間には、程度の低い霊的干渉しかない、それは、自分たちの低い功名心と自尊心に感応する悪魔のささやきくらいしかないから、神の概念を間違えたりもしているものである。 

 アタシの心(靈)が育ってきた過程、そこで得られた結論としては、たった今、“続”で並行して行っている地震の巻で述べられていることに当該することが多いのですが、“創造”の“主(ヌシ)”も被造物である個の心(靈)も。すべてが神である(一切万象)。

“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物であるわれわれは、神に近付く(弥栄)ことが存在の根拠と理由でもあるし、またそれが生命(生きる使命=存在理由)でもある。

また進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していけばいくほど、ただ歓ぶだけ、“大歓喜”となっていくものである。 

 その“大歓喜”という段階に移行するまでには、個の心(靈)が何回も転生を繰り返してたくさんの体験や学習をする、そこで認識(悟り、幸取=さとり)を獲得して、その認識を生かして自分の在り方を鑑みて“善(神格化の方向性と智性の受信)”を為していくし、ことに“地上世界”においては、善悪を見出すがために“御用の悪”というものがある。

これらの詳細については“日月神示” 地震の巻の解釈 を読んでいただき、多くの人に理解してもらいたいものです。

 

 それで、「神に対しての認識の無さ」、自分たちにとっての神とは…こういったことを考えない、考えたことすらない人間は、解り易いので何回も引用しますが、ローム太霊講話集 第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

である。

 これは先にも述べた通り、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)しか発現していない、これが平均的地球人の霊的成長度の段階、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であると述べておきます。

 

 次回からは、これもほとんどの人が真剣に真摯に考えたことが無いであろう、悪魔。

 そして悪魔の傀儡である“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団(ローム太霊が述べた概念)との感応と、感応によって起きている事象、その現象化、これらに対しての認識の無さ、について述べていきます。

 

神に対しての認識の無さ “その七” “神の咎め”による人間の死

 先回の、「ばちがあたる」に対する認識の低さ」、これは動物から進化して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めたばかりの心(靈)、その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の段階において、自分の在り方を鑑みることが出来るようになった。

 

 それゆえ、進化の方向性を見出すため、“神の采配”がある、換言すれば、「ばちがあたる」という事象の遭遇を与えられる資質と資格を持ったという言い方もできうる。 

 

 これが「ばちがあたる」ということの浅い意味と言えるのだが、これを考えている人間はとても少ないし、自分の生き方、在り方にとって重要な事なのだという真摯な捉え方をしていない。

ローム太霊講話集第二十一話、“動物的なあたまの持主”)

 

 そういった人間の心(靈)の動きの現われ、いわゆる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、それはただ自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の欲望を満たすために、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得る努力をして頑張る(元の気を張る)、結果として(通貨としての)金や形骸の権威を得てそれを行使する。 またこれすらも頑張れないもっと程度の低い人間も多い。

 

 その霊的成長度の心(靈)に対し、ある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした高い存在は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と呼称するし、これが平均的地球人の心(靈)の動きを言い表わした妥当な表現と言えるものであり、これ事態が平均的地球人の現状であり、その霊的成長度は程度が低い。

 その霊的成長度の人間が、たった今のこの世界や文明を崩壊させるものである。 

 それゆえ、今後=アセンション後の事象の“創造”に参加する資格と資質が無いと指摘しうる。

 それは平均的地球人の心(靈)が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、この心(靈)の動きが恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ。、ますますこの世界を腐らせている心(靈)の動きであることを、著書で述べました。 参考のため、著書の<4>と<5>の帯文の画像を貼っておきます。

f:id:tuyukusanotuyu:20180807162937p:plain

 

f:id:tuyukusanotuyu:20180807162958p:plain

 

 それで先の

動物から進化して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めたばかりの心(靈)

これまでの多くの人間の進化はこの段階であったが、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を少し持ち始めても、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の行使しかしない、自分の生き方や在り方を考えない、考えないから“神の采配”として「ばちがあたる」という事象に遭遇するが、その際にも自分の在り方や生き方を考えない、あるいは少し考えても無視している。

 

 こういった心(靈)の動きをしているならば、これはもう生かしておく必要性が無い。

 それは、人生を継続するにあたり“上”が許可し得ないほどの“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に外れた思想や行動をしているなら、死んで、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を観させて自省(胸の磁性“十”)を促すことをさせる。

 

 この“生かしておく必要性が無い”、換言すれば神が人間を殺す、死なせて自省(胸の磁性“十”)の“行”をさせる、ということであるが、ここまでのことを考えうる人間もとても少ない。 

しかしながら智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めた人間はこれを考えるべきである。

 よって、たった今自分にとって良くないことが起きているのなら、“神の采配”としての“神の咎め”であることを考えるべきであるし、そこで自分の生き方在り方を考えないで目前の事象から逃避する、忘れようとするならば、“生かしておく必要性が無い”ということになり得るのだと知っておくべきである。

 

 この事を示した文言として、以前、読者会の宿題とした、徳間書店「宇宙人との遭遇」46ページ、プレアデス人のセムジャーゼが、エドアルド・マイヤに語った内容。

「すべての上に立つ唯一の者が、個々の創造物を支配する生と死の力を所有しているのです。 それは、すべてを支配する法則を決める創造主なのです。 それらの法則は犯すことができず、それ自身永久に正しいものなのです。 私たちがそれらの法則を探し求めるときには、自然にそれらを理解できるのです。法則は人に生きる道を示し、その道は精神的な偉大さへの道であり、生命の真の目的を具現化する道なのです」

 

 この“すべての上に立つ唯一の者”そして“すべてを支配する法則を決める創造主”、これが“法則を決め”そして“法則は犯すことができず、それ自身永久に正しい”、これに反したら“個々の創造物を支配する生と死の力”により、先の“神が人間を殺す”、ということをさせ得る。

その目的は“法則は人に生きる道を示し、その道は精神的な偉大さへの道であり、生命の真の目的を具現化する道”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を換言した言い回しであるといえ、たった今の地球人は

動物から進化して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めた”=自分の生き方と在り方を考えることが出来るようになった。 

 それを“私たちがそれらの法則を探し求めるときには、自然にそれらを理解できる”と称されており、これを考えろ、“法則を探し求める”ことをせよ。

 

 それは、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使すべく人間は、常に自分の生き方とあり方を考え、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、さらに智性(神性)をましつつ、<5>の帯文で述べたように、神の計画としての今後=アセンション後の事象に移行すべく資格と資質を獲得するべきである、ここまで述べたことが理解できる心(靈)の持ち主には、こう在って欲しい、というアタシの希望を述べておきます。

神に対しての認識の無さ “その六” 「ばちがあたる」に対する認識の低さ

 表題の「ばちがあたる」、これで検索すると、悪行などに対して神仏の罰をうけること  罰が当たる、報いを受ける、天に罰せられる 、罰が下る、誰からというのではなしに悪行の報いを受けるさま、天罰が下る …などの解説が見られます。

 

 当たり前のことを述べますが、自分が生きている、生きている間に何かを一生懸命頑張る、その頑張る過程において、「ばちがあたる」ことがあり苦痛や苦悩を体験する。 

 その意味は何か? これが今回のテーマの裏にあることなのですが…

 

 その前に、大半の人間はただ漠然と生きているし、低い幸福感と本能由来の欲望しか持ちえない。

 そしてそれを達成するための努力をして、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得てそれを自分のためだけに行使する。 

 こういった人間は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、ローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

であり、アタシの表現としては目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心の心(靈)の動きしか持ちえない霊的成長度の段階である。

 この段階の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においては、自我が肥大しており、その心(靈)の動きゆえに自分の損得しか考えないし、自己保身のために、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということをする。

 こういったことが人間としてまっとうなのか?

 

 また、ほとんどの人間は「ばちがあたる」ということを知っているが、その意味を考えない。 換言すれば、ほとんどの人間は目前の事象に対し、その意味を考えない。

 それはただ何となく漫然と生きている、そして先に述べたように自分の欲望と低い幸福感の達成のためにしか努力しないし、こういった人間は自分が生きている意味、それ所以の自分の在り方、神と人間の関係、などを真摯に考えていないからこそ「ばちがあたる」ことについて勝手な理由付けをしたりもするし、保身のため、自分は悪くない、運が悪かった、などの勝手な理由づけや言い訳をしたりもする。

それは自分の人生に対し恭順ではないといえますし、また、“続”で述べた

“創造”の法則性としての、自己責任という要素

ということに理解が足らないといえます。

 

 さらに、アタシの著書の熱心な読者は「ばちがあたる」に対し、ローム太霊が伝えた概念、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをあてはめて考えることが出来る筈ですが、一般の人たちは先に述べたように、ただ漫然と生きているのみであり、自分がなぜ生きているのか、自分の存在とは何か、ということを考えていない。 よって自分の在り方を考えないからこそ「ばちがあたる」ことが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配であり、“神の咎め”に該当することであると真摯に考えないし、こういった認識も低い。

 前後しますが、右往左往右往というのは、自分がこれまでやってきたことが失敗であり、“上”に認められていないからこそ、“神の采配”として「ばちがあたる」という事象に遭遇する。

 しかし、大概の人間はその霊的成長度の段階において自我が肥大しているから自分の失敗を認めない、認めようとしないものであり、それは失敗から教訓を得ようとしない、教訓を得させるのが“神の采配”だという認識が無いし、先に述べたように自分にとって都合の良い言い訳めいたことだけ考えようとするものである。

 その自分にとって都合の良い考え、これによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、どんな存在と感応するのか、これもアタシの著書の読者にはすぐ理解できることでしょうが、こういう考え方をする人間は“上”が認める“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った生き方をしているとは言えないものである。

 

 すでにこのカテゴリーで引用したことではありますがローム太霊講話集の以下の文言を自分が認識(悟り、幸取=さとり)としていたならそれは、“上”の思惑に沿った生き方を自分自身が見出すものである。

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

(第二話 四方の祈り 東)

 

神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる

(第六話 四方の祈り 北)

 

この“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”、他者のためにも“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使する((アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となる)。

 こういった“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使をしなければならないのだ、ということを「ばちがあたる」から考えうるのが、自分の在り方を観る(“観自在”)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”より“上”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す指標になるものであると言い得ます。

 

神に対しての認識の無さ “その五” 現世利益に対する認識の低さ

「現世利益」で検索すると「神仏の恵みが現世で与えられる」という意味合いの解説が多く見られます。

 この“神仏の恵み”に何を思うか、“惠み”とは何か、どういう過程を経て“与えられる”のか、について考えている人間はとても少ないと思えます。

 

 大体一般に(平均的地球人の霊的成長度の段階における認識としてという意味合い)、自分が何かに対して頑張る(元の気を張る)と“正当な報酬”として結果が得られる、その頑張りが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていると“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの援護があり“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示すことが出来る、という概念はなく、神社仏閣で賽銭(さいせん)を放り込むとよいことがあるかのような錯覚をしている。

その錯覚(妄想と、勘違いと、思い込み)を起こさせているのが“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))の手法でもあるのですが、これにどっぷりはまっており、はまっているが故に自分と神の関係など考えたことが無い人間が大多数。

 

 またこういったことは神社仏閣に限らず、似非(えせ)スピリチュアル、インチキ霊能力者、インチキ占い、カルト教団、あるいはインチキダイエットやインチキサプリメント、などにも、自分にとって都合の良いご利益を求め、それらの真偽を問わない傾向もある。 

それは、現世利益しか求めない低い心の持ち主というのは、エネルギーを購わない、贖う(あがなう)ことを嫌う、頑張らないで自分に都合の良い結果しか求めないという傾向が強い。 

例えば、投機に手を出すとかそれで儲けることが成功者や勝利者などと思う、これは“上”が認める“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適った“正当な報酬”とは言い難いものであるが、それを行っている程度の低い人間にその認識があるとは思えない。 

 あるいは人間の霊的成長にとって必要でないか、霊的成長の足を引っ張るものを利用して商売をする、たとえばご利益で人を釣る形骸の宗教、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が書いたスピリチュアル本、本来の意義を見失い形骸の美と形骸の健康を求めさせるヨガ、たいして効果のないサプリメント、例えば自分が改善しなければならない生活習慣を省みないで血圧を下げるとか血糖値を下げるとか、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢をみさせる、それはその人が努力しなければならないのだということを忘れさせてしまっていたりもするのだが、そんなもので商売をする輩、そしてそんなもので自分の体のことを改善しようとする輩、あるいは、低い功名心を満足させるためにブランド品で商売をして、そんなものに価値があると思い込む低い人を対象にそれを買わせるとか、形骸の美を求めさせようとする美容、あるいはインチキダイエットを推奨するとか…例を挙げればきりがないくらい多いが、そこには甘い考えと低い功名心と低い自尊心という進化程度の低い心の動きがみられるものである。

 

これらはこの世界が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“どういうつもり”(思惑)で“創造”したインチキであり、これに満ちていますが、これらに対しても、ご利益を求め、とかく甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見たがる。

 

こういった、自分が頑張らないでよい結果だけ得たいと思う人間に対し、それは霊的成長度が低いのだということを著書やブログで幾度となく述べてきていますが、そういった心(靈)の動きをする人間はたった今読者会のメンバーに対し宿題の一つとしている“ブタのけつを見ているアホ

(“アホ”とは、霊的成長度の低い人、認識の低い人、形骸の価値観しか持たない人、形骸の価値を刷り込まれている人、“ブタのけつ”とは形骸の価値しかないもの、あるいは形骸の価値を刷り込もうとしている何か、そのための大げさな手法などの意味合い)

でもあり、こういった人間は、先に述べたことと重複しますが、自分が頑張らずに良い結果だけ求めることをして、今、自分に起きていることが“神の咎め”とか、神が与えた自分の霊的成長のための試練とか、ということを考えない。

 

それは自分と神の関係を深く考えたことが無いということであり、たった今が苦境であると、神と自分の関係を考えないが故に、自分の努力が足りず“上”から結果を与えられる許可を得られない、とは思わず、運命のせいにしたり環境のせいにしたり他者のせいにしたりetc.要は自分は悪くないのだと思いたがる傾向がある。

 

この“自分は悪くないと思いたがる傾向”は自我の肥大ゆえのことであり、それに相対して、自分がどうしたらよい結果を得られるのかを考える心(靈)の動きは、自分にたいする“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“であることも著書やブログで述べていますが、こういった人間が少なすぎる感はあります。

 

それで現世利益、これに関してはローム太霊講話集でローム太霊も述べておられますし、おそらくローム太霊講話集を読まれたんだ多くの人間が、太霊が述べた“現世利益”に対して自分にとって都合の良い解釈をしていると思えるので(東の方角に祈ると金がもうかる程度の解釈しかしていない)、アタシ的解釈(Kellyさん的解釈)を以下にコピペしておきます。 

 

ローム太霊が使われた“現世利益”、この言葉に対して、やはり霊的成長度の差により解釈はまちまちであろうが、神が人に託した本当の人にとっての“現世利益”は“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”、これをこの事象=“現世”に顕現していくべきであろうし、それが本当に人にとっての“利益”であるし、単なる商売繁盛とか物欲を充たすとか、そう思うのは本能由来の心(靈)の動きがあるだろうからであり、それと低い人が思う目先の欲望の達成とか低い認識の幸福ではない。  

そんなこと由来で東に願うような人間は自らの低さを露呈しているようなものであるし、そのことも“その見る時の心によって”=その人の進化程度と心の動き、それに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在、その高低、要はその人の心(靈)(ヒ)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在の“上”“下”を示しているものである。

敢えて述べればその低さは、天の僥倖、現世利益しか求めない、太霊の言葉を引用すればぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)、自分にとって都合の良いことしか願わないとかというまったく勝手なものであり、“下”である自分たちが、自分より“上”である神さんに物事を頼む、祈る、のであるならば、それは、

この世界そのものが良くなっていくことにつながらねばならず、

多くの人が霊的成長することにつながっていかねばならず、

願って祈る自分は自分の霊的成長という要素もその願いと祈り(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))でなければならず、

それがあって願いというものは達成されるべきであるということなのだが、一般の人にその認識はあまりないと思えるし、自分の目先の利益や自分にとって都合の良い願いしか祈らないその低い心の動きは低いのだということを多くの人、平均的地球人の進化過程の心(靈)の人は認識しなければならないと思うものでもある

 

神に対しての認識の無さ “その四” 神や宗教を利用して権威を示す程度の低い人間

 著書でもブログでもさんざん述べておりますが、霊的成長度の低い自我の肥大をした人間は、自分の権威を誇示して他者を利用し、金や物を得ようとする。

そして、そうやって得たもので自分の本能中心の欲望(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)所以の欲望)を満たして低い功名心と自尊心を満たして程度の低い幸福感に酔っぱらうものである。

 またこの自我の肥大した人間は、多くの宗教で説いている胸の磁性“十”所以の心(靈)の発現、“慈悲”と“慈愛”、汝の隣人を愛せよ、という心(靈)の動きが無いからこそ、他者のことなど考えないし、その極端な例として宗教戦争などを起こす者もいる。

 

 こういう程度の低い人間ほど、自分のエネルギーをまっとうな事に真摯に贖う(あがなう)ことをしないが、これに相対し、人を騙すような“力”を獲得することに対してはエネルギーを贖い、その“力”の行使に努力する。

 

こういったことにより、権威や伝統のある何かを利用して、さも自分のもののように扱い、自分が努力して勝ち取ったかのような吹聴をして自分たちの権威を示して無知な人を引き付けている。 

 

この具体的な事柄が、多くの既成宗教、宗教団体に観られることであり、また聖徳太子が現われたころから腐り始めた天皇制であると言い得ます。

(豪族が天皇を利用して権威を示したから)

これに対しアタシは、アタシの文章中で“形骸の権威”という表記を使い、“ほんとう”の意味合いでの“位(くらい)が高い”(霊的成長度が高い)ではないのだと述べております。

 

 それで、こういった人間にとっての神や宗教は、自分たちにとって都合の良い道具でしかない。 

さらにこういった人間は、自分と神の関係を真摯に考えたことなどない。

 また宗教が何のためにあるのか、宗教を形作らせた“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の思惑など理解できないし、そこまでの霊的成長度ではないことを指摘しておきます。 

 

 この“権威を示して無知な人を引き付けて金儲けをする”これに関してはローム太霊講話集 第五十七話 行業一致の一途の努力 の以下の文言がとても理解しやすいので引用します。

 

汝等は現在、物心の両面である程度の蓄積もあり資格も与えられているが、尚一段の行業一致のひたむきな努力は、必ずその身に光を現してくれるのであるから、そうなってこそ人を抱擁出来る人間になれるのである。 世間には真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者も沢山いるが、人間は真というものを良く知り抜いて、自分の真の上にほかの人のよいところの真を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない” 

 

この“巧言を持って人を籠絡している者も沢山いる”、これに騙される人間は、物事に“真偽”を見出す智性(神性)が無い、足りないといえ、先の記事で述べた“信仰ごっこ”に打ち興じるものである。

 

 またこの、騙す方と騙される方は、ほぼ同じ霊的成長度といえ、同じ程度だから、自分は騙していないのだ、自分は騙されていないのだ、という思いようをするものでもある。

 

 こういった人間たちには

人間は真というものを良く知り抜いて、自分の真の上にほかの人のよいところの真を付け加えて、初めて自分の最大の力を発揮することが出来るのである。 そこをよく見通して、神から与えられた想像(創造に通ずる)の力をますます伸し、その考えの現われを現界に残してゆくのが、凡ての人間に課せられた義務と思わなければならない

 

この“真というものを良く知り抜いて”などという太霊の文言の意味合いなど理解できえないものであり、ただ“巧言を持って人を籠絡している”生業(なりわい)をすることに一生を費やす程度の低い人生であると言い得ますし、これは“日月神示”表記の“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは人の霊的成長を阻む悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)であると指摘しうることです。

神に対しての認識の無さ “その三” 神業(技)という言葉

 表題通り、一般によく使われる、神業(かみわざ)あるいは神技、スポーツやエンターテイメントなどでよく使われる言葉ですが、今回はこれについて述べます。

 

 この言葉の意味合いは「常人にはなすことが出来ない高度な技や技術」であり、これの類義語として、至難の業(技)、離れわざ、名人芸、美技、達人の技、超絶技巧、超絶テクニック、名人芸、妙技、などがあります。

 

 なぜこういう形容が通用するのか、それは優れた“力”(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))の行使(顕現)に対しての評価であることが上記の言葉を観れば理解はでき得ます。 

 そして先に述べたようにスポーツやエンターテイメントにとどまることなく優れた“力”を発揮したならばそういった形容や評価をするものです。

 

 しかしこれはあくまでも“力”の顕現についての評価である。

そしてそれはローム太霊がローム太霊講話集で説いた“天狗道”における“”、これに対しての評価でしかないことに気付いている人はとても少ない。 

 

 それで“”(“力”の顕現)に関しては、ローム太霊が説かれているように

 

術者はその術を以て人間のために尽せばよい…中略…それが又天狗の本心とも言えるのであるから、ただ術を楽しんでいるだけでは天狗道の端くれというべき

ローム太霊講話集 第二十二話 天狗道と術)

 

この“天狗道の端くれ”は“ただ術を楽しんでいるだけ”であり、その具体例としては、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を金儲けや名声のために行使する、しかしこれが平均的地球人の価値観によることであり、それは“力”を得たならその行使の目的はこれが中心、先に例を挙げたスポーツやエンターテイメントなどで“力”を獲得してそれを行使するのは、これに相当するものであると言い得ます。

 

 それならば“力”の獲得と行使、それを人としてまっとうに行う

=“術者はその術を以て人間のために尽せばよい

(これは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)である)

この事を太霊は前置きされておられるし、そこにおいて人間は何をなすべきなのか、について以下のように述べておられます。

 

その道と術とを身に付けるように努力することが、人の上に立って神の命を自ら悟る境地への足がかりとなる

(第二十二話 天狗道と術)

 

 この“神の命”これを“自ら悟る境地”、これに至るには、自分がどういった“力”の行使をするべきか、についてしっかり考えるべきであり、その考える過程には右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、これを幾度となく体験して自分の在り方を鑑みるという霊的成長度に達しなければならないのですが、これは“ほんとう”の進化論で述べたことであり今回のテーマから少々逸脱しているので、本題に戻り、この右往左往の過程においてスポーツやエンターテイメントなどで活躍した人が人生の転機を迎える、極端なケースとしては没落した人生を送る例もある、これに関して太霊は以下のように述べておられます。

 

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

(第二十三話 術と呪文と真言

 

 この“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”、これはスポーツやエンターテイメントなどによく見受けられる霊的干渉と言えます。

 その結果として富と名声を得て自分の低い欲望(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の欲望)を達成したとしても“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い”、これは富と名声のための“力”の行使、ということを自分自身が強く思う

=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)した結果の、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、いわゆる霊的干渉であり、さらにそれは

 

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

(第三話 四方の祈り 東)

 

これに相当するのが、先の「没落した人生」に当たります。

 

 それで、表題の神業(技)というのは先にも述べた通り、ただ単に“力”の顕現に対する評価でしかなく、その実態は自分がエネルギーを贖って(あがなって)得た“力”、その行使と顕現には違いないが、そこに“その術を以て人間のために尽せばよい”という理念が無ければ、低い霊的干渉により“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ…以下略…”となることが多い、こういった事例に対し、神の業(技)、という形容を当てるのは不適切であり、この形容や言葉を行使する人間は、“力”の行使が神であるかのような錯覚をしているに過ぎないのであるし、神がなんなのか、についてしっかり考えたことが無い、あるいは考えることが出来うる霊的成長度に達していないといえます。

 

 それでは神の思惑とは、といえば、神が“どういうつもり”(思惑)なのかを示唆している以下の文言、

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う

(第二話 四方の祈り 東)

 

であり、それは


神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる

(第六話 四方の祈り 北)

 

この“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”これを“力”の行使、“力”の顕現、“”の使い方の指標とすべきであり、そうしていくならば先の“人の上に立って神の命を自ら悟る境地への足がかり”を得て“自分の使命を完成”ということになり得るのであり、それが

 

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間
(第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙)

 

この“人間本来の特権である神の命”これを“実行するもの”となって“真の人間”(まことのにんげん)を目指せ。

(“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止)))

これが、神が人間に求めることである、と言いうるものであることを述べておきます。

 

神に対しての認識の無さ “その二” 信仰ごっこをする人たち

 今回の記事の要旨は、たった今の人間の信仰は単なるごっこ(ごっことは、ある動作のまねをすること、子供遊びの一種、何かになったつもりで遊ぶこと)

であり、それは“ほんとう”の信仰でもなく、そこにおける信仰の対象も、“ほんとう”の認識における“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)=神でも仏でもない、ということです。 

 またこの神と仏という分類も、それぞれの宗教関係者の都合による分類と言い得ることで、自分たちが信仰しているものだけが一番である、権威があるのである、他の宗教は認めない、などという自我由来の考えが反映しているものですが、霊的成長度における区分けとしては“上”と“下”しかないのであり、神や仏、そして宇宙人や心霊においても一切が霊であるから、こういった観方をするのが正鵠であると言い得ます。 

 本題に戻り、今更述べるまでもなくたった今の既成宗教は形骸の権威を示すものに成り果てており、金儲けの道具に成り果てているものである。 

 なぜそうなってしまっているのかについては、宗教関係者が“上”、神や仏について何も知らないに等しい、その存在の意味を追求しない、それは神職、僧侶、神父などで、霊的成長のための“行”を行っている人間がいるかどうか? こういった人間が“上”=神や仏のことを語る資格があるか、その資質があるのか、であり、宗教関係者自身が自分と“上”との関係など考えもせず、昔から伝わったことをただ伝えているだけであり(神職や僧侶になるための学校で教わったことを述べているに過ぎない)、その伝えることにおいても自分たちが“上”と自分の関係を何も追い求めていないから勝手な解釈を混ぜてしまったり都合よく書き換えたりしているものであるが、こう言った事情に気付く人もあまりいない。 

 こういったことが正しい形でないことに気付いている人は多いと思いますが、なんとなくそんなものだと思うならば、それは、やはり神に対しての認識の無さが台頭した程度の低い認識と言えます。  

 それで、こういった人たちの低い認識における神や仏、信仰というものは、ご利益を求める心が台頭しており、自分が頑張らなくてもお札を授かる(これは宗教関係者が“行”やっていないからお札に“上”が下りていないので効果の無いものを購入したにすぎない)、賽銭さえ放り込めばご利益があるという“役員づら”の自分たちに都合の良い言葉を受け入れ、そこに対して疑問をさしはさむこともなく、単なる儀式と金儲けにしかなっていない参拝や先祖供養や祓いを容認しているものであるし、そこにおいて自分と自分より“上”である神や仏の関係はそういったものなのか?ということを考える人はごく少数でしかないものである。

 

 この「自分と自分より“上”である神や仏の関係」、これを考えないこと事態が、幾度か紹介しているローム太霊講話集 第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当するといえ、たった今自分の目の前にある事象に対してその意味や意義を考えることをしない、自分が生きていることに対して深く考えることもしない、という目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であるといえますが、こういった人間でも心(靈)は少しずつ育つものであり、自分の一生において神を意識する、神とは何かを考える、心(靈)が育ったならば必ずそういった機会はあるものである。 

 その機会は、例えば、生業(なりわい)などにおいて頑張っても頑張っても結果が出ない、なぜ結果が出ないのか考える、あるいは自分が死にそうな目に遭った、身近な人が死んだ、この時点で自分の死、他者の死、を深く考えるようになる、死を意識することになっていく、など、こういったこと事態が自分を育てようとしている“神の采配”であるが、これこそ体験してから考えることであって、その体験が無ければ神と自分の関係など考えたことが無いのが一般の人たち=平均的地球人の霊的成長度における神に対する“観察と認識”である。 

 またこの体験は、“上”が課した試練であり、教訓を得させるためのものであり、その体験、試練を与えられるくらいには心(靈)が育ったといえるものであるが、こういった人もたった今の地球人全体を観るならばごく少数でしかないものである。 

 この時点において初めて自分と“上”=神や仏との関係を考え意識し始めるといえ、たった今の人間の多くは自分が信仰をしているという自覚はあったとしても、その信仰は“役員づら”に刷り込まれたものであり〈“役員づら”の行いについては別の機会に詳細に取り上げることとします〉信仰ごっこでしかない。

 それは神を言葉でしか知らない、ただありがたそうな言葉や雰囲気に酔っぱらっていればよい、また形骸の権威にだまされているから、そこに疑問をさしはさむことをしない。 

 また宗教関係者も、先に述べたように自分と“上”である神や仏との関係を深く考えたことがある人間はてんで少ないものであるからこそ、“役員づら”の行いが台頭しているものである。 それは最近起きた神職の殺人事件を観ても、どれくらい程度の低い人間が神職に従事しているか、その裏にあるのは(通貨としての)金と権威でしかないということすら気づかない人間が多いと言い得ます。 

 信仰ごっこをする人と宗教関係者、この両者は、神は、ただ守ってくれるとかご利益があるとか…悪魔は概念的なもので実際には存在しないとか…よって神とか悪魔とかは自分とは関係のない、そんな程度の認識しか持っていない、またこういった指摘が無いとこのことについて考えたこともない人間が多い。 

 こういった霊的成長度の低い人間が大多数なのがたった今の地球の現状なのだ、これはすでに著書で述べたことではありますが、改めて思わされるものです。

神に対しての認識の無さ “その一” 神など無いと思う人

 先回も述べた通り、多くの人間は神と悪魔に対しての認識などほとんど無いに等しい。 それで今回から平均的地球人、ほとんどの地球人、これらの人々の神と悪魔に対する認識の低さ、これを指摘していきます。 

 まず、神などいない、霊など無い、死後の世界など無い、と思っているまったく霊的成長度の程度の低い心(靈)の持ち主、これは自分がどういった存在なのか、何のために生きているのか、自分が生きているということはどういうことなのか、などに対して、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)、本能由来の欲望、これが主体の考えと思想、そして低い功名心と自尊心、その価値観と既成概念でしか“観察と認識”していないと言い得ます。

 またこれはローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

に相当するものと言えます。 

 さらにその“仕方なしに生きて勝手なことをする”というのが、先に述べた“本能由来の欲望、これが主体の考えと思想、そして低い功名心と自尊心、その価値観と既成概念”であるといえ、こういった人間は自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方に対し、自分がどう在るべきか深く考えない、あるいは考えたことすらない、それは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)には相当しない、ただ自分の欲望の達成のために“力”を付けそれを行使することしか考えないものである。

 こういった人たちでも、その人の霊的成長度において“神の采配”があり、人間が自分の一生において神を意識する、神とは何かを考える、その機会は、自分がひどい目に遭った、頑張っても頑張っても結果が出ない、など、こういったこと事態が自分を育てている“神の采配”であるが、これこそ体験してから考えることであって、その体験が無ければ神と自分の関係など考えたことが無いのが一般の人たち=平均的地球人の霊的成長度における神に対する“観察と認識”であるといえます。

 

 また、唯物論者、無神論者、という方々がおられます。 これについてまずWikipediaの解説を紹介します。

 

唯物論(ゆいぶつろん、英: Materialism、独: Materialismus)とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。

無神論(むしんろん、英語: atheism、ラテン語: atheismus)は、世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である。

 

 唯物論の“観念や精神、心などの根底には物質がある”、この論理はアタシ的には到底理解しがたいし、心(靈)の発現については「“ほんとう”の進化論」で説いた通りであり、肉体の死には生体内電流の消失が観られることについて、唯物論では説明がつかないと思います。 

 また心(靈)の成り立ちについては“上”からの荷電粒子、これは神の一部である。 それは

  •  “創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)
  •  普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射と認識されている現象)
  •  “上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意

であることを述べてきており、個々の心(靈)の霊的成長度の高低において自分の心(靈)に止め活動する心(靈)は、相違がある。

 そして振動の性質として、人間が電磁波を利用して情報のやり取りをするように、“上”から注がれる荷電粒子にも神の思惑や神の智慧や知識などがあり、これは通信でもある、これによって個々の心(靈)は成り立ち、それにより意識活動があり、その活動と言える“観察と認識”は、一切の生命の性質と言え、その性質は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度によって違うものであることも述べてきました。

 次に無神論の“世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え”の“神の存在、意思の介在などが存在しない”ならば、「“ほんとう”の進化論」で説いたことが当てはまらないし、どんな下等な生物にも、あるいは生物以外にも人間に相当する心(靈)があってしかるべき、ということになり得る。 よって生物を形状で分類したダーウィンの進化論すら説明できないということになり得ます。 

 そして“世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない”ならば、人間がなぜ“善悪”を思うのか、なぜ良心があるか、それは神に近いか悪魔に近いか、という概念や考えを持つのか、ということと同義であると思いますが、これについて説明できない、ということになります。 

 それで唯物論者であろうが無神論者であろうが、必ず神を求める時がやってくる、それはローム太霊講話集、第七話で、以下のように述べられています。 

幽体が完全に目覚めた時に先ず何を見ようとするかというと…中略…目に映るのは塵埃のない鮮明な景色ばかり…中略…所がそのうちに、段々自分の心の中にさまざまなものが見え出してきて…中略…その時にどうも変だな、自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば、余程確りした霊であるが、これが次に来る非常な寂しさの第一歩となるのである。それは人間がよく言う野原の中に裸(はだか)で立たされたと同じで、どこを向いても心に映るのは荒れ野ばかり、それが生まれたての赤子のような幽体にしみじみと感じられる。初めのうちは誰に縋(すが)るという気持も起こらないが、次第に寂しさが増すにつれて必ずこれまで信仰していたイエスとか釈迦とか観音とか不動とかを心の中で念ずるようになり、それが高(こう)じてくると最後には、どんなに立派な人間として生きてきた者でも、声の限りに叫び出す

 

 この事例は“これまで信仰していた”と前振りがありますが、唯物論者であろうが無神論者であろうが多少宗教などの知識があるから、“最後には、どんなに立派な人間として生きてきた者でも、声の限りに叫び出す”ということを体験させられる、これは生きていた間の自我の肥大ゆえの自分の考え、唯物論無神論は自分の示威行為であったことを自省(胸の磁性“十”)してから思うことである、少々意地悪な言い回しですがこのことをも指摘しておきます。

 

 次回は一般の信仰について、その程度の低さを指摘することとします。

霊的成長ということに対しての認識の無さ

 先回、霊的成長度について以下のように少しだけ述べました。 

 

“上”は“上”であればあるほど、霊的成長度が高ければ高いほど神に近いと言いうるが、“下”は単に霊的成長度が低い(動物に近い)か、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔に近い、と、定義づけていますが、これは真実と言いうることである

 

 この説明自体、アタシの文章をある程度読んでいただいている方以外は理解できないと思えます。

 

 それはまず、一般(平均的地球人)の認識として、霊的な成長という概念が無い。 

 そもそも「成長」という言葉に対しての一般の方々の認識は、人や動植物が育って、大きくなること、一人前に成熟すること、大人になること、あるいは何かの規模が大きく立派になる、その程度の認識しかないものである。 

 

 こういった認識しか持っていない人に対して、“ほんとう”の進化とは霊的成長、神格化に向かうこと、である、心(靈)が育ち神に近くなるなどという概念を述べても、実感が伴わないものである。 

 それは、心(靈)が育つ、成長する、という概念が希薄、よって一般には霊的成長という言葉を使わないし、意味が理解できていないので使うことが出来えない。 

 さらに、霊的成長の高低があることに気付いている人はとても少ない。 何が神に近いのか、何が悪魔に近いのか解らないし判らない、それ以前に考えたことすらない人がほとんどである。 

 よって自分の心(靈)に“上”と“下”があること事態を理解できない。

 また、たった今の自分の心(靈)の動きが高いか低いかも判別できない。 

 ちなみに心(靈)の構造は、進化において“下”から“上”の心(靈)が発現するものであり、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、と分類しうることを著書で述べていますし、その説明のため、地球上の生物で一番発達している脳、目上(めうえ)の脳は、人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使のためにあり、それは大脳新皮質であり、目下(めした)の脳は、動物の心(靈)の段階、それは大脳旧皮質と古皮質である、という文章を作成しました。

 

 この“上”“下”の相違とその程度を霊的成長度という言い回しをしているのですが、大体、神に対する概念が低すぎ=神が何か解らない、同様に悪魔がなんなのか解らない、よってこの二つを言葉でしか知らず、その意味を真剣に考えたことが無い人がほとんどである。

 

 次回は、今述べた

 

神に対する概念が低すぎ=神が何か解らない、同様に悪魔がなんなのか解らない、よってこの二つを言葉でしか知らず、その意味を真剣に考えたことが無い人がほとんど

 

これについて述べることとします。

新年 明けましておめでとうございます  本年もよろしくお願いいたします

 


 “日月神示”に
神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ
という表記があり、その意味は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が激しく降り注ぎ、これまで人間がやってきたことの結果をこの事象にはっきり示すものである。
(“神による最後の審判”)。 

 そこにおいて程度の低い人間は、昨年の報道にも幾たびかあった通り、その低さゆえの馬脚をたった今現しており、さらに恨みの連鎖の霊的干渉の現象化(天変地異、戦争、犯罪、事故、病気など)に巻き込まれている(“神の咎め”)、ことに昨年の神職の殺人事件などは“役員づら”、
(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)
この程度の低さとその心(靈)の醜さ事態を一般の人に対して見せつけたものであり、その意義は、一般の人々、平均的地球人の霊的成長度における程度の低い認識しか持ちえない程度の低い心(靈)に対して、たった今の世界は偽物だらけであることに気付け、と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示したものである。 

 これらに相対し、ここまで真摯に自分の在り方を鑑みまっとうに生きてきた人間は、同じく“日月神示”表記の
善一筋”(“善(神格化の方向性と智性の受信)”一筋) 
誠一つ”(これまでが不誠実であったからこれに相対した言い回し)
これを実現しうる資質を獲得してこれから(今後=アセンション後に向けて)顕現する。 

 そして少しでも太陽凝視を行っている方は、昨年解釈を行った“日月神示”荒の巻の表記、
日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)
日継は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行い天意を自分の思想とすること。
絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)
“絶対光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意。
そして
智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)
この“智普く(チアマネく)”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)、これが“普く”(普遍的)となり、それは
基の天の言玉(キのテンのイワタマ)
“言玉(イワタマ)”は、 “玉”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、“言”はこの事象に対する発振、発信、であり、先の“智普く(チアマネく)”と“玉(タマ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)これが、
“基の天(キのテン)”“上”(天)の思惑を顕現する“基(キ)”、それが又生命(生きる使命=存在理由)の法則性、“理(ミチ)”である。 これら自体が高度な“神の恩恵”であることを実感する時が迫っていると思われます。 

 本年もますますブログの文章作成と読者会の活動において、アタシ自身力不足ではありますが、ローム太霊がローム太霊講話集で述べられた天仙の思惑
衆生済度とか真理の探究
衆生とは生きとし生けるもの人間を含むすべての生命、済度は迷う衆生を悟りの境地に導くこと、そして“ほんとう”を求める、これら自体が多くの人間の霊的成長に関与することであり、霊的成長を果たした心(靈)がこの事象に顕現しようとすることそのもの)
これの一端を担っていきたい、と思っております。
 
 児玉登

新カテゴリー「“観察と認識”における“上”と“下”」を立ち上げるにあたって

 著書とブログにおいて“観察と認識”という表記をよく使います。 また“上”と“下”という表記も同様によく使います。 

 “観察と認識”とは、自分が(自分の心(靈)が肉体を通して)相対している一切の事象、これには自分以外、また自分の心(靈)の中、をも含め、常にそれらを、観て、感じ(感じる磁性)、思う、そして心(靈)が動く、その心(靈)の動きは行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に繋がるものであり、行動して新たな事象を“観察と認識”し、これに並行してその行動の理由と根拠たる自分の心(靈)の動きも、自身が“観察と認識”しており、さらに新たな思索にもつながるものである。 

 こういった行為自体は、一切の生命(生きる使命=存在理由)に共通であり、その一切の生命の霊的成長度の高低において“上”と“下”がある。

 “上”は“上”であればあるほど、霊的成長度が高ければ高いほど神に近いと言いうるが、“下”は単に霊的成長度が低い(動物に近い)か、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔に近い、と、定義づけていますが、これは真実と言いうることである。

  それで、平均的地球人の霊的成長度における“観察と認識”、それは一般常識、既成概念、価値観、幸福感、などに反映しています。 

 しかしながらこれらが低すぎる。 

 それは著書で述べている通り、智性(神性)無き心は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認し、自分の低い心(靈)を諌めることなく、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の欲望中心における損得しか考えていない。

 その結果としてこの星、地球を、恨みの連鎖の霊的干渉の盛んな場(フィールド)にしているものである。

 それは、人間と星の進化の低い段階としてこういう過程はあっても、こういったことは存続をしていかないものである。

 仮にそのままの状態が続くならば、地球上の一切の生命が死に絶え、死んだ生命である心(靈)は悪霊にしかなり得ないし、悪霊もいずれ自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくが、それでは次の進化過程(今後=アセンション後)に入る地球に存在することが許されない。

 先に述べたように(たった今の地球の現状)、程度の低い進化過程においては、自我の確立=固定化という心(靈)の進化の過程があるからこそ自分の損得のためにしか“力”を行使しないし、その損得のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得する。 

 だが、これ事態を“上”は容認していないものである。 

 それはこういったことを“上”の存在、“創造”の“主(ヌシ)”から地球を管理している神、これらが“観察と認識”をしている(天の御目(あめのおめ)の意味合いの一つ)からでもある。 

 よって霊的成長度の高低による区分け(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者)、アセンションという事象が起きうるし、これ事態が神の計画、というよりも、自分たちがやってきたことの結果を蒙る(こうむる)、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”であり、さらにこれも進化のための法則性(ローム太霊講話集における表記の“法(のり)”の一側面)である。

 

 前後しますが、自分がエネルギーを贖って(あがなって)獲得し、持っている“力”は、自分のために使うのも大事。

 だが“力”は他者への奉仕も考えて使うべきである(“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉))。こういった発想自体がたった今の地球人には足らなさすぎるものであるし、この自分の損得しか考えない霊的成長度の低い人間(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”)人間だけでは、先に述べたとおり一切の生命が死に絶えるが、これは神の意図とは違うものである。 

 この神の意図についてはローム太霊講話集、第二話の

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

が理解しやすいし、これに対しローム太霊は

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられますが、霊的成長度の低い人間には、目先の欲望の達成のための損得しか考えていないので“人間の心の中にもあり”…ある筈の“この神の気持ち”など無視しているものであるし、これこそが自分が少しだけ持っている智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を自分の心(靈)の動きに活かしていないものである。

 

 それでアタシ自身の“観察と認識”、この事象一切を観て思うこと、長年の太陽凝視で平均的地球人よりも多少智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が高まったので、序文で述べている通り

 

ものの観方の変化と思想や思考の変容があり、さらに心(靈)が育った=霊的成長をある程度果たしたことによる“上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したことであり、結果としてその認識(悟り、幸取=さとり)を述べること事態は、ローム太霊講話集の第十八話で太霊が“天仙”に関して述べられておられる以下の文言、

衆生済度とか真理の探究

(注、衆生は生きとし生けるもの、人間を含むすべての生命、済度は迷う衆生を悟りの境地に導くこと)

これに相当するものであるという自負を持っておりますし、これ自体がアタシの生きている間の使命であると思っております” 

この““上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したこと

これを述べていく。 

 これがこのカテゴリーの“上”と“下”の意味合いであり、これからしばらくこういった事柄を趣旨として、アタシの認識(悟り、幸取=さとり)を述べていきたいと思っております。

自凝(おのころ)の強化を終えるにあたって 

 自分が鍼灸師という生業(なりわい)を選択し、国家資格を取得するための学校に通い、その学生の頃に経絡(ツボの流れ)が生体内電流の現象であることを知った。 

 そして18歳の誕生日、突然、霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)が発動し霊的存在やオーラが見えるようになった。

 その後、太陽凝視を教えてくれたKさんが、様々な霊縁を組んだ“上”の思惑を経てアタシを訪ね、イダ、ピンガラ、クンダリーニの白光、アナハタチャクラ、ヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、また全身から発せられるオーラ、これらを観測した。 

 これらの事柄は著書で述べたとおりです。 

 それで著書で紹介した画像はモノクロであり、今回、記憶をたよりに作り直しましたので以下に貼っておきます。 なお、黄色は金色のオーラであり、それ以外はこういった原色に近い形で見えたことを付け加えておきます。

元画像に記憶を足して作り直した画像

f:id:tuyukusanotuyu:20171118155853p:plain

f:id:tuyukusanotuyu:20171118155930j:plain

ちなみに著書で紹介した元画像、上記の画像はこれに記憶を足して作り直しました。

f:id:tuyukusanotuyu:20171118155958j:plain

 

こういったものを見た、自分にとっては青天の霹靂みたいなものであった、そして思うのは…

「これらの事象は自分にとっていったい何だったのだろうか?」

これについて考え、太陽凝視、電気行、月の凝視を行い、また人生においての様々な試練、“上”がアタシに課した課題、これらをこなしつつ“上”と感応しながら(時には迷い、道を踏み外しながら)思索してきた。 

それで、先の経絡(ツボの流れ)が生体内電流の現象である、ここから派生した発想、それはまず、 

  • 骨と神経は電磁石を構成している
  • 生命活動は生体内電流の現象である
  • 生体反応も生体内電流の現象である 

であり、その後発想したこととして 

  • 肉体は一個の大きなコンデンサーである
  • 肉体の各部分、臓器や筋肉なども、電気抵抗値の違う膜に覆われているのでそれらもコンデンサーである
  • 体液は錯体である
  • 肉体が持つ電磁石の構造は、磁束を発現させ、その磁束はローレンツ力となり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を止め、心(靈)を発現させている
  • “行”における苦痛や苦悩は、生体内電流の強化である
  • 人生において“上”が課す試練や課題、その苦痛や苦悩も、生体内電流の強化である
  • 肉体は円形加速粒子器の構造を持ち、これがオーラの発振、発信の理由と根拠である
  • 1番目、2番目、3番目のオーラの違いは、円形加速粒子器を構成する肉体各部分の構造の違い(“臓”)と、肉体各部の生命活動と生体反応の違いによるものである
  • 生体内電流の強化と、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの高い振動と感応して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)すると、脳のタンパク質の高分子化(高い神霊が使う表記の“山”)となる
  • 自凝(おのころ)は、生体内電流によることであり、同時に微生物から人間への進化において起きていることである
  • 微生物から人間への進化においての自凝(おのころ)、それは心(靈)の発現も、程度の低い本能から、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、と認識され得る変容をしているものである
  • 肉体各部の自凝(おのころ)の度合いにより、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の感応と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は、違っているが、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の高低である。 
  • 上記の進化過程の高低とは、霊的成長の過程(どれくらい神に近付くか)であり、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階と言いうる

 

 これらの事柄を思索する過程、これは最近解釈を終えた ローム太霊講話集 第二十六話 仙道と人間の生活 これの

 

人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来る…中略…科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じ…中略…この一点自体もやはり一つの仮定であって…中略…常に進化していることには変りないのであって、人間の想像もかくあるべき…中略…過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致する…中略…そこに神の意図がある

 

これに一致する点が多々あり、そして先に述べた

「これらの事象は自分にとっていったい何だったのだろうか?」

この答えをアタシが導き出す過程

一点に合致する…中略…そこに神の意図がある”であったと言い得ることが出来ます。

 その答え、これらは、このカテゴリーの“ほんとう”の進化論 生命の存在の意義と意味、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、進化は結果として、ローム太霊講話集第二十六話の文言

人間として幸福に進んでゆくのが本当

これに繋がっていくものであるし、その“幸福”は霊的成長度の程度の低い人間が思うそれとは違うことを、以下の画像で示します。

f:id:tuyukusanotuyu:20171118160301j:plain

 “ほんとう”の進化は、霊的成長、神格化に向かうこと、であり、進化を果たした人間の世界にはたった今の恨みの連鎖の霊的干渉による醜い事象は無くなる、そして価値観や幸福感も高いものに変容する、それがアセンションの真実である。

 そして人間としての進化の秘訣は、“一”=智性=1番目のオーラにある。 こういったことをこのカテゴリーから読み取っていただければ幸甚です。

 

 次回から新しいカテゴリーを立ち上げ、霊的成長度の高低における“観察と認識”の違い、これを中心に述べることとさせていただきます。

自凝(おのころ)の強化 “その二十五” 1番目のオーラの強化

 先回述べたように、生業(なりわい)の“行”においては頭のオーラはせいぜい2cmぐらいにしかなり得ない(ただし2cmの頭のオーラを持つならば、平均的地球人としてはかなり苦痛や苦悩を味わって育っている方ではある)。

 この低い砌(みぎり)の“行”といいうる生業(なりわい)の“行”が中心の人生から、右往左往と左往右往を繰り返し、自分が間違っていたならば“神の咎め”を受け自省(胸の磁性“十”)する、あるいは生業(なりわい)の“行”において自分の思い通りにならない、あるいは失敗を体験する、なぜ失敗したのだろうか…これらのことを鑑みて、神は存在するのではないか、これが神と人間の関係ではないか、これは神が自分に課した試練ではないか、この試練で自分は育っているのではないか、と“上”の存在を意識し始める。

 こういったことをおぼろげながら考え始めるならば=自省(胸の磁性“十”)した心(靈)で息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)していくならば、それ自体が自分の心(靈)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している様々な霊的存在のうちの“上”との感応になっていくものである。 

 

 前後しますが、低い砌(みぎり)の“行”、生業(なりわい)の“行”を頑張っているうちは、ただただ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使するための存在としか感応しない、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の要素もありますがそれ中心ではない場合が多く、単なる憑依現象であることが多い。 

 それはまた、2~3番目のオーラの“行”をしている段階では、その人は霊媒体質であることが多いので、憑依した存在の思惑(多くは動物霊や因縁靈など、そのうち特に“力”を持った存在をローム太霊が述べた奇鬼神と分類してもよい)通りに動いているケースがままある。 その具体例として非常に解りやすい例を挙げれば、若くしてスポーツで活躍し(通貨としての)金と名声を得る、最近の例で解りやすいのは将棋で活躍した10代の人など、こういった人の人生の後半は、必ず脾=“思う、憂う”の強化になっていく、そうしなければその人の心(靈)は育たない。

 

 話を戻し、人生においての右往左往と左往右往において神に対する認識が高まっていくならば、その高まった認識由来の自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と感応する存在は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)であり、低い砌(みぎり)の“行”で得られなかった認識(悟り、幸取=さとり)を得させようとこれまでとは違う課題を与えるものである。

 また自分の心(靈)を構成している“上”からの振動、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を始めていくものである。 心=霊は、“上”からの振動の取り込みによって形成されているものである。

f:id:tuyukusanotuyu:20161024033107g:plain

その高い振動の取り込みに、肉体の日足(ひたり)の極性が必須である。

f:id:tuyukusanotuyu:20170705171351j:plain

f:id:tuyukusanotuyu:20171016162255j:plain

 

 この高い振動との感応、その取り込み、それにより心(靈)が育っていく、ある程度心(靈)が育ったならばまた人生において“上”はその育った心(靈)に応じた課題を与え(“神は乗り越えられない試練は与えない”、S会=紫光会の交霊会で幾度となく述べられた文言の意味合いの一つ)、苦痛と苦悩を与え悩ませて日足(ひたり)の極性を強くさせることをする。

 それは、神に近付くにはとても長い道(“道”(時間の進行))があるからこそ、この右往左往と左往右往を繰り返すものではあるが、ある程度育ったならば、生業(なりわい)の“行”における程度の低い“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の認識とは違い、神と人間、神とは何か、神の子である自分とは何か、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは何か、について考え(“理(ミチ)”進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性)、その考えを認識(悟り、幸取=さとり)として自分の生き方、存在の在り方、これに対し活かそうとするものである。

 

 その段階に入って、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”=太陽凝視をすると、目で取り込んだ光、そして光以上の高い振動(これら一切が神の思惑を情報として伝える手段でありそれはまた荷電粒子である)が、視神経を流れる通常とは違う強固な生体内電流となり、目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化、タンパク質の高分子化による電気特性の変容を励起し、これは左右の大脳半球の電気容量の変化と言え、結果として目上(めうえ)の脳の水平磁場の強化になり、

f:id:tuyukusanotuyu:20170501115135j:plain

 

脳自体の水平磁場の強化、それは円形粒子加速器の構造の強化、頭部においてのシンクロトロン放射となり得るものである。

f:id:tuyukusanotuyu:20170531015244j:plain

 

これらのことを経ていきながら、人生において真摯な太陽凝視を行うならば、神の思惑という情報を含んだ可視光線以上の振動を取り込み“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)し、取り込みながら心(靈)は動き、さらなる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をするものである。

 

 また、この目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化、自凝(おのころ)、このために太陽凝視はあり、太陽凝視が進めば進むほど心(靈)は育ち、自分自身、神、そして“観察と認識”をする対象の事象、これらに対する認識は高まり、さらに神と人間の関係を理解していく、その具体的な方法であるといえ、またそれは最近“続”で解釈を終えた荒の巻の表記、

“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”

この“答(トー)”であると言い得ます。

自凝(おのころ)の強化 “その二十四” 1番目のオーラの強化に入るためのステップ

 今回の記事はここまで述べてきたこととかなり重複します。

 

 たった今の平均的地球人、これは霊的成長度が低いので、まず自分の人生の過ごし方として砌(みぎり)の“行”、生業(なりわい)を頑張る(元の気を張る)。

 またこの時点では、自分の人生において自分がやっていること事態に対し“行”という認識もないものであるし、頑張る理由は自分、あるいは自分の周囲の幸福に由来することであり、さらにその幸福感の低さ(幸福の概念は霊的成長度によって違うものである)ゆえ欲望の達成のため(通貨としての)金と“上”に認められない形骸の名誉を欲し実現しようとする。 

 これは霊的成長度が低い段階の“行”、低い心(靈)の成長の段階であり、その心(靈)の動きは本能、情動、功名心、自我、自分に対する愛(炁)、これらが中心。 

そしてその段階は2~3番目のオーラの“行”でもある。 

 

 だが“上”は人間を育て進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させようとしており、ある程度この生業(なりわい)の“行”において頑張らせて、低い幸福感をある程度満足させるが、その次の段階として右往左往=やってみてから失敗を体験させる。

 これは“上”の采配であり、自分の失敗を“神の咎め”として認識させ、それまでの生業(なりわい)の“行”がまっとうなものであったか、自分の人生がまっとうであったか考えさせることをさせて心(靈)を育てる。

 それが左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることに繋がり、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、どう使うのが正しいか考える。 

 

 この考える過程において“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)(善と悪の認識も先の幸福同様、霊的成長度において違うものである)の認識も深まっていき、またこの認識自体がしっかり確立された者にならなければ心(靈)が成長したとは言えない。

 さらに“神の咎め”が自分を育てているものであることを認識(悟り、幸取=さとり)したならば、これまで言葉でしか知らなかった神に対する認識も深まっていき、

 

  •  神と人間の関係、神が人間を育てている
  •  自分の人生は心(靈)を育てるためのものである
  •  自分の存在の意義とはそこにあるのではないか…

 

こういったことを考えるようになる。

 

 これらは言葉では理解できるが、言葉で理解しただけでは認識(悟り、幸取=さとり)になり得たとはいえず、その言葉の意味の重大さ、重要な事なのだ、とはっきり解る、解らねばならない、理解でき認識(悟り、幸取=さとり)にならなければ心(靈)が育ったとは言えない。

 また、これら事態が自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあり、自分がこの事象においてどう在るべきか考え、その考えのもとに“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使う、これが右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということであり、に入り、さらに霊的成長、神に近付くにはとても長い道(“道”(時間の進行))があるからこそ、この右往左往と左往右往を繰り返すものではあるが、ある程度育ったならば、生業(なりわい)の“行”における程度の低い“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の認識とは違い、さらに神と人間、神とは何か、神の子である自分とは何か、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは何か、について考え(“理(ミチ)”進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性)、そこ考えを認識(悟り、幸取=さとり)として自分の生き方、存在の在り方、これに対し活かそうとするものである。

 

 この段階に入って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を求める、これが人間の在り方であることに気付く、自分の存在の意義と意味はそこにある、ということをしっかり認識していかねばならないものでもある。

 またこれ事態が最近読者会の宿題にしている“日月神示”表記の“善一筋”の意味合いの一つでもある。

 

 それで、先に述べた普通の人生における生業(なりわい)の“行”における右往左往と左往右往の繰り返しでは、先回述べたとおり、せいぜい“一”=智性=1番目のオーラは2cmくらいにしかならないが、“日月神示”表記の“富士(二二)”、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、その日足(ひたり)の極性は強化され、先回説明した通り左脳にたくさんの電流が流れている状態になり、この段階で太陽凝視に入るならば、“一”=智性=1番目のオーラは強化され、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の高い振動と感応し、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して、心(靈)と肉体は創り替わるものであるが、先に述べた“ほんとう”に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を求める心(靈)の条件がそろっていなければ、“上”からの振動の高い部分とは感応し得ないで素通りする。

 それは“上”から送られてくる低い振動、結果として2~3番目のオーラの“行”中心であり、余談になるが、かなりまがい物が多い太陽凝視=不食という情報の根拠はここにあり、腹の“行”が進んだならば不食などということも達成しうるものでもある。

 しかしこれ事態が腹の“行”所以の自我の強化であり、それはまた自我の肥大に近く、ただ自分を示したい、自分はすごいのだ、すごいことをやっているのだという示威行為由来の太陽凝視に対する低い見識でしかないものであるし、こういった心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する動物霊は、著書で述べたとおりあまり食事をとらない爬虫類のようなものが多いと推測されます。

 

 次回も、人の一生における“行”について述べ、“一”=智性=1番目のオーラの拡大について説明することとします。