太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

神に対しての認識の無さ “その三” 神業(技)という言葉

 表題通り、一般によく使われる、神業(かみわざ)あるいは神技、スポーツやエンターテイメントなどでよく使われる言葉ですが、今回はこれについて述べます。

 

 この言葉の意味合いは「常人にはなすことが出来ない高度な技や技術」であり、これの類義語として、至難の業(技)、離れわざ、名人芸、美技、達人の技、超絶技巧、超絶テクニック、名人芸、妙技、などがあります。

 

 なぜこういう形容が通用するのか、それは優れた“力”(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))の行使(顕現)に対しての評価であることが上記の言葉を観れば理解はでき得ます。 

 そして先に述べたようにスポーツやエンターテイメントにとどまることなく優れた“力”を発揮したならばそういった形容や評価をするものです。

 

 しかしこれはあくまでも“力”の顕現についての評価である。

そしてそれはローム太霊がローム太霊講話集で説いた“天狗道”における“”、これに対しての評価でしかないことに気付いている人はとても少ない。 

 

 それで“”(“力”の顕現)に関しては、ローム太霊が説かれているように

 

術者はその術を以て人間のために尽せばよい…中略…それが又天狗の本心とも言えるのであるから、ただ術を楽しんでいるだけでは天狗道の端くれというべき

ローム太霊講話集 第二十二話 天狗道と術)

 

この“天狗道の端くれ”は“ただ術を楽しんでいるだけ”であり、その具体例としては、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を金儲けや名声のために行使する、しかしこれが平均的地球人の価値観によることであり、それは“力”を得たならその行使の目的はこれが中心、先に例を挙げたスポーツやエンターテイメントなどで“力”を獲得してそれを行使するのは、これに相当するものであると言い得ます。

 

 それならば“力”の獲得と行使、それを人としてまっとうに行う

=“術者はその術を以て人間のために尽せばよい

(これは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)である)

この事を太霊は前置きされておられるし、そこにおいて人間は何をなすべきなのか、について以下のように述べておられます。

 

その道と術とを身に付けるように努力することが、人の上に立って神の命を自ら悟る境地への足がかりとなる

(第二十二話 天狗道と術)

 

 この“神の命”これを“自ら悟る境地”、これに至るには、自分がどういった“力”の行使をするべきか、についてしっかり考えるべきであり、その考える過程には右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、これを幾度となく体験して自分の在り方を鑑みるという霊的成長度に達しなければならないのですが、これは“ほんとう”の進化論で述べたことであり今回のテーマから少々逸脱しているので、本題に戻り、この右往左往の過程においてスポーツやエンターテイメントなどで活躍した人が人生の転機を迎える、極端なケースとしては没落した人生を送る例もある、これに関して太霊は以下のように述べておられます。

 

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

(第二十三話 術と呪文と真言

 

 この“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”、これはスポーツやエンターテイメントなどによく見受けられる霊的干渉と言えます。

 その結果として富と名声を得て自分の低い欲望(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の欲望)を達成したとしても“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い”、これは富と名声のための“力”の行使、ということを自分自身が強く思う

=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)した結果の、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、いわゆる霊的干渉であり、さらにそれは

 

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

(第三話 四方の祈り 東)

 

これに相当するのが、先の「没落した人生」に当たります。

 

 それで、表題の神業(技)というのは先にも述べた通り、ただ単に“力”の顕現に対する評価でしかなく、その実態は自分がエネルギーを贖って(あがなって)得た“力”、その行使と顕現には違いないが、そこに“その術を以て人間のために尽せばよい”という理念が無ければ、低い霊的干渉により“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ…以下略…”となることが多い、こういった事例に対し、神の業(技)、という形容を当てるのは不適切であり、この形容や言葉を行使する人間は、“力”の行使が神であるかのような錯覚をしているに過ぎないのであるし、神がなんなのか、についてしっかり考えたことが無い、あるいは考えることが出来うる霊的成長度に達していないといえます。

 

 それでは神の思惑とは、といえば、神が“どういうつもり”(思惑)なのかを示唆している以下の文言、

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う

(第二話 四方の祈り 東)

 

であり、それは


神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる

(第六話 四方の祈り 北)

 

この“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”これを“力”の行使、“力”の顕現、“”の使い方の指標とすべきであり、そうしていくならば先の“人の上に立って神の命を自ら悟る境地への足がかり”を得て“自分の使命を完成”ということになり得るのであり、それが

 

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間
(第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙)

 

この“人間本来の特権である神の命”これを“実行するもの”となって“真の人間”(まことのにんげん)を目指せ。

(“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止)))

これが、神が人間に求めることである、と言いうるものであることを述べておきます。

 

神に対しての認識の無さ “その二” 信仰ごっこをする人たち

 今回の記事の要旨は、たった今の人間の信仰は単なるごっこ(ごっことは、ある動作のまねをすること、子供遊びの一種、何かになったつもりで遊ぶこと)

であり、それは“ほんとう”の信仰でもなく、そこにおける信仰の対象も、“ほんとう”の認識における“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)=神でも仏でもない、ということです。 

 またこの神と仏という分類も、それぞれの宗教関係者の都合による分類と言い得ることで、自分たちが信仰しているものだけが一番である、権威があるのである、他の宗教は認めない、などという自我由来の考えが反映しているものですが、霊的成長度における区分けとしては“上”と“下”しかないのであり、神や仏、そして宇宙人や心霊においても一切が霊であるから、こういった観方をするのが正鵠であると言い得ます。 

 本題に戻り、今更述べるまでもなくたった今の既成宗教は形骸の権威を示すものに成り果てており、金儲けの道具に成り果てているものである。 

 なぜそうなってしまっているのかについては、宗教関係者が“上”、神や仏について何も知らないに等しい、その存在の意味を追求しない、それは神職、僧侶、神父などで、霊的成長のための“行”を行っている人間がいるかどうか? こういった人間が“上”=神や仏のことを語る資格があるか、その資質があるのか、であり、宗教関係者自身が自分と“上”との関係など考えもせず、昔から伝わったことをただ伝えているだけであり(神職や僧侶になるための学校で教わったことを述べているに過ぎない)、その伝えることにおいても自分たちが“上”と自分の関係を何も追い求めていないから勝手な解釈を混ぜてしまったり都合よく書き換えたりしているものであるが、こう言った事情に気付く人もあまりいない。 

 こういったことが正しい形でないことに気付いている人は多いと思いますが、なんとなくそんなものだと思うならば、それは、やはり神に対しての認識の無さが台頭した程度の低い認識と言えます。  

 それで、こういった人たちの低い認識における神や仏、信仰というものは、ご利益を求める心が台頭しており、自分が頑張らなくてもお札を授かる(これは宗教関係者が“行”やっていないからお札に“上”が下りていないので効果の無いものを購入したにすぎない)、賽銭さえ放り込めばご利益があるという“役員づら”の自分たちに都合の良い言葉を受け入れ、そこに対して疑問をさしはさむこともなく、単なる儀式と金儲けにしかなっていない参拝や先祖供養や祓いを容認しているものであるし、そこにおいて自分と自分より“上”である神や仏の関係はそういったものなのか?ということを考える人はごく少数でしかないものである。

 

 この「自分と自分より“上”である神や仏の関係」、これを考えないこと事態が、幾度か紹介しているローム太霊講話集 第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当するといえ、たった今自分の目の前にある事象に対してその意味や意義を考えることをしない、自分が生きていることに対して深く考えることもしない、という目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であるといえますが、こういった人間でも心(靈)は少しずつ育つものであり、自分の一生において神を意識する、神とは何かを考える、心(靈)が育ったならば必ずそういった機会はあるものである。 

 その機会は、例えば、生業(なりわい)などにおいて頑張っても頑張っても結果が出ない、なぜ結果が出ないのか考える、あるいは自分が死にそうな目に遭った、身近な人が死んだ、この時点で自分の死、他者の死、を深く考えるようになる、死を意識することになっていく、など、こういったこと事態が自分を育てようとしている“神の采配”であるが、これこそ体験してから考えることであって、その体験が無ければ神と自分の関係など考えたことが無いのが一般の人たち=平均的地球人の霊的成長度における神に対する“観察と認識”である。 

 またこの体験は、“上”が課した試練であり、教訓を得させるためのものであり、その体験、試練を与えられるくらいには心(靈)が育ったといえるものであるが、こういった人もたった今の地球人全体を観るならばごく少数でしかないものである。 

 この時点において初めて自分と“上”=神や仏との関係を考え意識し始めるといえ、たった今の人間の多くは自分が信仰をしているという自覚はあったとしても、その信仰は“役員づら”に刷り込まれたものであり〈“役員づら”の行いについては別の機会に詳細に取り上げることとします〉信仰ごっこでしかない。

 それは神を言葉でしか知らない、ただありがたそうな言葉や雰囲気に酔っぱらっていればよい、また形骸の権威にだまされているから、そこに疑問をさしはさむことをしない。 

 また宗教関係者も、先に述べたように自分と“上”である神や仏との関係を深く考えたことがある人間はてんで少ないものであるからこそ、“役員づら”の行いが台頭しているものである。 それは最近起きた神職の殺人事件を観ても、どれくらい程度の低い人間が神職に従事しているか、その裏にあるのは(通貨としての)金と権威でしかないということすら気づかない人間が多いと言い得ます。 

 信仰ごっこをする人と宗教関係者、この両者は、神は、ただ守ってくれるとかご利益があるとか…悪魔は概念的なもので実際には存在しないとか…よって神とか悪魔とかは自分とは関係のない、そんな程度の認識しか持っていない、またこういった指摘が無いとこのことについて考えたこともない人間が多い。 

 こういった霊的成長度の低い人間が大多数なのがたった今の地球の現状なのだ、これはすでに著書で述べたことではありますが、改めて思わされるものです。

神に対しての認識の無さ “その一” 神など無いと思う人

 先回も述べた通り、多くの人間は神と悪魔に対しての認識などほとんど無いに等しい。 それで今回から平均的地球人、ほとんどの地球人、これらの人々の神と悪魔に対する認識の低さ、これを指摘していきます。 

 まず、神などいない、霊など無い、死後の世界など無い、と思っているまったく霊的成長度の程度の低い心(靈)の持ち主、これは自分がどういった存在なのか、何のために生きているのか、自分が生きているということはどういうことなのか、などに対して、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)、本能由来の欲望、これが主体の考えと思想、そして低い功名心と自尊心、その価値観と既成概念でしか“観察と認識”していないと言い得ます。

 またこれはローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

に相当するものと言えます。 

 さらにその“仕方なしに生きて勝手なことをする”というのが、先に述べた“本能由来の欲望、これが主体の考えと思想、そして低い功名心と自尊心、その価値観と既成概念”であるといえ、こういった人間は自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方に対し、自分がどう在るべきか深く考えない、あるいは考えたことすらない、それは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)には相当しない、ただ自分の欲望の達成のために“力”を付けそれを行使することしか考えないものである。

 こういった人たちでも、その人の霊的成長度において“神の采配”があり、人間が自分の一生において神を意識する、神とは何かを考える、その機会は、自分がひどい目に遭った、頑張っても頑張っても結果が出ない、など、こういったこと事態が自分を育てている“神の采配”であるが、これこそ体験してから考えることであって、その体験が無ければ神と自分の関係など考えたことが無いのが一般の人たち=平均的地球人の霊的成長度における神に対する“観察と認識”であるといえます。

 

 また、唯物論者、無神論者、という方々がおられます。 これについてまずWikipediaの解説を紹介します。

 

唯物論(ゆいぶつろん、英: Materialism、独: Materialismus)とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。

無神論(むしんろん、英語: atheism、ラテン語: atheismus)は、世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である。

 

 唯物論の“観念や精神、心などの根底には物質がある”、この論理はアタシ的には到底理解しがたいし、心(靈)の発現については「“ほんとう”の進化論」で説いた通りであり、肉体の死には生体内電流の消失が観られることについて、唯物論では説明がつかないと思います。 

 また心(靈)の成り立ちについては“上”からの荷電粒子、これは神の一部である。 それは

  •  “創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)
  •  普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射と認識されている現象)
  •  “上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意

であることを述べてきており、個々の心(靈)の霊的成長度の高低において自分の心(靈)に止め活動する心(靈)は、相違がある。

 そして振動の性質として、人間が電磁波を利用して情報のやり取りをするように、“上”から注がれる荷電粒子にも神の思惑や神の智慧や知識などがあり、これは通信でもある、これによって個々の心(靈)は成り立ち、それにより意識活動があり、その活動と言える“観察と認識”は、一切の生命の性質と言え、その性質は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度によって違うものであることも述べてきました。

 次に無神論の“世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え”の“神の存在、意思の介在などが存在しない”ならば、「“ほんとう”の進化論」で説いたことが当てはまらないし、どんな下等な生物にも、あるいは生物以外にも人間に相当する心(靈)があってしかるべき、ということになり得る。 よって生物を形状で分類したダーウィンの進化論すら説明できないということになり得ます。 

 そして“世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない”ならば、人間がなぜ“善悪”を思うのか、なぜ良心があるか、それは神に近いか悪魔に近いか、という概念や考えを持つのか、ということと同義であると思いますが、これについて説明できない、ということになります。 

 それで唯物論者であろうが無神論者であろうが、必ず神を求める時がやってくる、それはローム太霊講話集、第七話で、以下のように述べられています。 

幽体が完全に目覚めた時に先ず何を見ようとするかというと…中略…目に映るのは塵埃のない鮮明な景色ばかり…中略…所がそのうちに、段々自分の心の中にさまざまなものが見え出してきて…中略…その時にどうも変だな、自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば、余程確りした霊であるが、これが次に来る非常な寂しさの第一歩となるのである。それは人間がよく言う野原の中に裸(はだか)で立たされたと同じで、どこを向いても心に映るのは荒れ野ばかり、それが生まれたての赤子のような幽体にしみじみと感じられる。初めのうちは誰に縋(すが)るという気持も起こらないが、次第に寂しさが増すにつれて必ずこれまで信仰していたイエスとか釈迦とか観音とか不動とかを心の中で念ずるようになり、それが高(こう)じてくると最後には、どんなに立派な人間として生きてきた者でも、声の限りに叫び出す

 

 この事例は“これまで信仰していた”と前振りがありますが、唯物論者であろうが無神論者であろうが多少宗教などの知識があるから、“最後には、どんなに立派な人間として生きてきた者でも、声の限りに叫び出す”ということを体験させられる、これは生きていた間の自我の肥大ゆえの自分の考え、唯物論無神論は自分の示威行為であったことを自省(胸の磁性“十”)してから思うことである、少々意地悪な言い回しですがこのことをも指摘しておきます。

 

 次回は一般の信仰について、その程度の低さを指摘することとします。

霊的成長ということに対しての認識の無さ

 先回、霊的成長度について以下のように少しだけ述べました。 

 

“上”は“上”であればあるほど、霊的成長度が高ければ高いほど神に近いと言いうるが、“下”は単に霊的成長度が低い(動物に近い)か、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔に近い、と、定義づけていますが、これは真実と言いうることである

 

 この説明自体、アタシの文章をある程度読んでいただいている方以外は理解できないと思えます。

 

 それはまず、一般(平均的地球人)の認識として、霊的な成長という概念が無い。 

 そもそも「成長」という言葉に対しての一般の方々の認識は、人や動植物が育って、大きくなること、一人前に成熟すること、大人になること、あるいは何かの規模が大きく立派になる、その程度の認識しかないものである。 

 

 こういった認識しか持っていない人に対して、“ほんとう”の進化とは霊的成長、神格化に向かうこと、である、心(靈)が育ち神に近くなるなどという概念を述べても、実感が伴わないものである。 

 それは、心(靈)が育つ、成長する、という概念が希薄、よって一般には霊的成長という言葉を使わないし、意味が理解できていないので使うことが出来えない。 

 さらに、霊的成長の高低があることに気付いている人はとても少ない。 何が神に近いのか、何が悪魔に近いのか解らないし判らない、それ以前に考えたことすらない人がほとんどである。 

 よって自分の心(靈)に“上”と“下”があること事態を理解できない。

 また、たった今の自分の心(靈)の動きが高いか低いかも判別できない。 

 ちなみに心(靈)の構造は、進化において“下”から“上”の心(靈)が発現するものであり、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、と分類しうることを著書で述べていますし、その説明のため、地球上の生物で一番発達している脳、目上(めうえ)の脳は、人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使のためにあり、それは大脳新皮質であり、目下(めした)の脳は、動物の心(靈)の段階、それは大脳旧皮質と古皮質である、という文章を作成しました。

 

 この“上”“下”の相違とその程度を霊的成長度という言い回しをしているのですが、大体、神に対する概念が低すぎ=神が何か解らない、同様に悪魔がなんなのか解らない、よってこの二つを言葉でしか知らず、その意味を真剣に考えたことが無い人がほとんどである。

 

 次回は、今述べた

 

神に対する概念が低すぎ=神が何か解らない、同様に悪魔がなんなのか解らない、よってこの二つを言葉でしか知らず、その意味を真剣に考えたことが無い人がほとんど

 

これについて述べることとします。

新年 明けましておめでとうございます  本年もよろしくお願いいたします

 


 “日月神示”に
神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ
という表記があり、その意味は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が激しく降り注ぎ、これまで人間がやってきたことの結果をこの事象にはっきり示すものである。
(“神による最後の審判”)。 

 そこにおいて程度の低い人間は、昨年の報道にも幾たびかあった通り、その低さゆえの馬脚をたった今現しており、さらに恨みの連鎖の霊的干渉の現象化(天変地異、戦争、犯罪、事故、病気など)に巻き込まれている(“神の咎め”)、ことに昨年の神職の殺人事件などは“役員づら”、
(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)
この程度の低さとその心(靈)の醜さ事態を一般の人に対して見せつけたものであり、その意義は、一般の人々、平均的地球人の霊的成長度における程度の低い認識しか持ちえない程度の低い心(靈)に対して、たった今の世界は偽物だらけであることに気付け、と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示したものである。 

 これらに相対し、ここまで真摯に自分の在り方を鑑みまっとうに生きてきた人間は、同じく“日月神示”表記の
善一筋”(“善(神格化の方向性と智性の受信)”一筋) 
誠一つ”(これまでが不誠実であったからこれに相対した言い回し)
これを実現しうる資質を獲得してこれから(今後=アセンション後に向けて)顕現する。 

 そして少しでも太陽凝視を行っている方は、昨年解釈を行った“日月神示”荒の巻の表記、
日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)
日継は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行い天意を自分の思想とすること。
絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)
“絶対光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意。
そして
智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)
この“智普く(チアマネく)”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)、これが“普く”(普遍的)となり、それは
基の天の言玉(キのテンのイワタマ)
“言玉(イワタマ)”は、 “玉”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、“言”はこの事象に対する発振、発信、であり、先の“智普く(チアマネく)”と“玉(タマ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)これが、
“基の天(キのテン)”“上”(天)の思惑を顕現する“基(キ)”、それが又生命(生きる使命=存在理由)の法則性、“理(ミチ)”である。 これら自体が高度な“神の恩恵”であることを実感する時が迫っていると思われます。 

 本年もますますブログの文章作成と読者会の活動において、アタシ自身力不足ではありますが、ローム太霊がローム太霊講話集で述べられた天仙の思惑
衆生済度とか真理の探究
衆生とは生きとし生けるもの人間を含むすべての生命、済度は迷う衆生を悟りの境地に導くこと、そして“ほんとう”を求める、これら自体が多くの人間の霊的成長に関与することであり、霊的成長を果たした心(靈)がこの事象に顕現しようとすることそのもの)
これの一端を担っていきたい、と思っております。
 
 児玉登

新カテゴリー「“観察と認識”における“上”と“下”」を立ち上げるにあたって

 著書とブログにおいて“観察と認識”という表記をよく使います。 また“上”と“下”という表記も同様によく使います。 

 “観察と認識”とは、自分が(自分の心(靈)が肉体を通して)相対している一切の事象、これには自分以外、また自分の心(靈)の中、をも含め、常にそれらを、観て、感じ(感じる磁性)、思う、そして心(靈)が動く、その心(靈)の動きは行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に繋がるものであり、行動して新たな事象を“観察と認識”し、これに並行してその行動の理由と根拠たる自分の心(靈)の動きも、自身が“観察と認識”しており、さらに新たな思索にもつながるものである。 

 こういった行為自体は、一切の生命(生きる使命=存在理由)に共通であり、その一切の生命の霊的成長度の高低において“上”と“下”がある。

 “上”は“上”であればあるほど、霊的成長度が高ければ高いほど神に近いと言いうるが、“下”は単に霊的成長度が低い(動物に近い)か、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔に近い、と、定義づけていますが、これは真実と言いうることである。

  それで、平均的地球人の霊的成長度における“観察と認識”、それは一般常識、既成概念、価値観、幸福感、などに反映しています。 

 しかしながらこれらが低すぎる。 

 それは著書で述べている通り、智性(神性)無き心は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認し、自分の低い心(靈)を諌めることなく、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の欲望中心における損得しか考えていない。

 その結果としてこの星、地球を、恨みの連鎖の霊的干渉の盛んな場(フィールド)にしているものである。

 それは、人間と星の進化の低い段階としてこういう過程はあっても、こういったことは存続をしていかないものである。

 仮にそのままの状態が続くならば、地球上の一切の生命が死に絶え、死んだ生命である心(靈)は悪霊にしかなり得ないし、悪霊もいずれ自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくが、それでは次の進化過程(今後=アセンション後)に入る地球に存在することが許されない。

 先に述べたように(たった今の地球の現状)、程度の低い進化過程においては、自我の確立=固定化という心(靈)の進化の過程があるからこそ自分の損得のためにしか“力”を行使しないし、その損得のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得する。 

 だが、これ事態を“上”は容認していないものである。 

 それはこういったことを“上”の存在、“創造”の“主(ヌシ)”から地球を管理している神、これらが“観察と認識”をしている(天の御目(あめのおめ)の意味合いの一つ)からでもある。 

 よって霊的成長度の高低による区分け(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者)、アセンションという事象が起きうるし、これ事態が神の計画、というよりも、自分たちがやってきたことの結果を蒙る(こうむる)、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”であり、さらにこれも進化のための法則性(ローム太霊講話集における表記の“法(のり)”の一側面)である。

 

 前後しますが、自分がエネルギーを贖って(あがなって)獲得し、持っている“力”は、自分のために使うのも大事。

 だが“力”は他者への奉仕も考えて使うべきである(“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉))。こういった発想自体がたった今の地球人には足らなさすぎるものであるし、この自分の損得しか考えない霊的成長度の低い人間(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”)人間だけでは、先に述べたとおり一切の生命が死に絶えるが、これは神の意図とは違うものである。 

 この神の意図についてはローム太霊講話集、第二話の

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

が理解しやすいし、これに対しローム太霊は

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられますが、霊的成長度の低い人間には、目先の欲望の達成のための損得しか考えていないので“人間の心の中にもあり”…ある筈の“この神の気持ち”など無視しているものであるし、これこそが自分が少しだけ持っている智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を自分の心(靈)の動きに活かしていないものである。

 

 それでアタシ自身の“観察と認識”、この事象一切を観て思うこと、長年の太陽凝視で平均的地球人よりも多少智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が高まったので、序文で述べている通り

 

ものの観方の変化と思想や思考の変容があり、さらに心(靈)が育った=霊的成長をある程度果たしたことによる“上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したことであり、結果としてその認識(悟り、幸取=さとり)を述べること事態は、ローム太霊講話集の第十八話で太霊が“天仙”に関して述べられておられる以下の文言、

衆生済度とか真理の探究

(注、衆生は生きとし生けるもの、人間を含むすべての生命、済度は迷う衆生を悟りの境地に導くこと)

これに相当するものであるという自負を持っておりますし、これ自体がアタシの生きている間の使命であると思っております” 

この““上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したこと

これを述べていく。 

 これがこのカテゴリーの“上”と“下”の意味合いであり、これからしばらくこういった事柄を趣旨として、アタシの認識(悟り、幸取=さとり)を述べていきたいと思っております。

自凝(おのころ)の強化を終えるにあたって 

 自分が鍼灸師という生業(なりわい)を選択し、国家資格を取得するための学校に通い、その学生の頃に経絡(ツボの流れ)が生体内電流の現象であることを知った。 

 そして18歳の誕生日、突然、霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)が発動し霊的存在やオーラが見えるようになった。

 その後、太陽凝視を教えてくれたKさんが、様々な霊縁を組んだ“上”の思惑を経てアタシを訪ね、イダ、ピンガラ、クンダリーニの白光、アナハタチャクラ、ヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、また全身から発せられるオーラ、これらを観測した。 

 これらの事柄は著書で述べたとおりです。 

 それで著書で紹介した画像はモノクロであり、今回、記憶をたよりに作り直しましたので以下に貼っておきます。 なお、黄色は金色のオーラであり、それ以外はこういった原色に近い形で見えたことを付け加えておきます。

元画像に記憶を足して作り直した画像

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ちなみに著書で紹介した元画像、上記の画像はこれに記憶を足して作り直しました。

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こういったものを見た、自分にとっては青天の霹靂みたいなものであった、そして思うのは…

「これらの事象は自分にとっていったい何だったのだろうか?」

これについて考え、太陽凝視、電気行、月の凝視を行い、また人生においての様々な試練、“上”がアタシに課した課題、これらをこなしつつ“上”と感応しながら(時には迷い、道を踏み外しながら)思索してきた。 

それで、先の経絡(ツボの流れ)が生体内電流の現象である、ここから派生した発想、それはまず、 

  • 骨と神経は電磁石を構成している
  • 生命活動は生体内電流の現象である
  • 生体反応も生体内電流の現象である 

であり、その後発想したこととして 

  • 肉体は一個の大きなコンデンサーである
  • 肉体の各部分、臓器や筋肉なども、電気抵抗値の違う膜に覆われているのでそれらもコンデンサーである
  • 体液は錯体である
  • 肉体が持つ電磁石の構造は、磁束を発現させ、その磁束はローレンツ力となり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を止め、心(靈)を発現させている
  • “行”における苦痛や苦悩は、生体内電流の強化である
  • 人生において“上”が課す試練や課題、その苦痛や苦悩も、生体内電流の強化である
  • 肉体は円形加速粒子器の構造を持ち、これがオーラの発振、発信の理由と根拠である
  • 1番目、2番目、3番目のオーラの違いは、円形加速粒子器を構成する肉体各部分の構造の違い(“臓”)と、肉体各部の生命活動と生体反応の違いによるものである
  • 生体内電流の強化と、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの高い振動と感応して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)すると、脳のタンパク質の高分子化(高い神霊が使う表記の“山”)となる
  • 自凝(おのころ)は、生体内電流によることであり、同時に微生物から人間への進化において起きていることである
  • 微生物から人間への進化においての自凝(おのころ)、それは心(靈)の発現も、程度の低い本能から、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、と認識され得る変容をしているものである
  • 肉体各部の自凝(おのころ)の度合いにより、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の感応と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は、違っているが、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の高低である。 
  • 上記の進化過程の高低とは、霊的成長の過程(どれくらい神に近付くか)であり、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階と言いうる

 

 これらの事柄を思索する過程、これは最近解釈を終えた ローム太霊講話集 第二十六話 仙道と人間の生活 これの

 

人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来る…中略…科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じ…中略…この一点自体もやはり一つの仮定であって…中略…常に進化していることには変りないのであって、人間の想像もかくあるべき…中略…過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致する…中略…そこに神の意図がある

 

これに一致する点が多々あり、そして先に述べた

「これらの事象は自分にとっていったい何だったのだろうか?」

この答えをアタシが導き出す過程

一点に合致する…中略…そこに神の意図がある”であったと言い得ることが出来ます。

 その答え、これらは、このカテゴリーの“ほんとう”の進化論 生命の存在の意義と意味、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、進化は結果として、ローム太霊講話集第二十六話の文言

人間として幸福に進んでゆくのが本当

これに繋がっていくものであるし、その“幸福”は霊的成長度の程度の低い人間が思うそれとは違うことを、以下の画像で示します。

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 “ほんとう”の進化は、霊的成長、神格化に向かうこと、であり、進化を果たした人間の世界にはたった今の恨みの連鎖の霊的干渉による醜い事象は無くなる、そして価値観や幸福感も高いものに変容する、それがアセンションの真実である。

 そして人間としての進化の秘訣は、“一”=智性=1番目のオーラにある。 こういったことをこのカテゴリーから読み取っていただければ幸甚です。

 

 次回から新しいカテゴリーを立ち上げ、霊的成長度の高低における“観察と認識”の違い、これを中心に述べることとさせていただきます。