太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

悪魔に対しての認識の無さ “その十五” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間が課題としなければならない自我の強化”

 自我が脆弱な人間は、保身、我が身可愛さが台頭するから、その場限りの嘘をついたり、ごまかしたりする。

 これに相対し、自我の強化の方向性は、自分に対しても他者に対しても嘘をついたりごまかしたりしないし、誠実、真摯、ということを規範として自分を戒め、振る舞うものである。

 

 また、自我が脆弱な人間は、自分が努力をして“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得ることを避け、頑張ることを避け、簡単に自分の利益になると思しきことを求める。 

 それゆえ簡単に目先の利益になることを求め、その利益のために人を欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、うまくごまかして他者から奪ったりもする。

 あるいは漁夫の利を求める。 そして、自分の利益になりそうな何かを利用して、それを自分の手柄のように吹聴したりもする。 

よって形骸の地位に固執し、それを利用して、形骸を形骸とわからない人間から金を集めたり、権威をふるう、えらそうにしたりもする。

(形骸の地位とは、今の天皇制、政治、経済界、既成宗教など、権威を示す、これが中心になってしまっているそれらが分りやすい)

 こういった漁夫の利、何かを利用して自分の手柄にしたその対象を自分と関連付けて、自分が獲得したのではないそれを大げさに強調するという示威行為が目立つ傾向がある。 

 その傾向の理由と根拠は、自我が脆弱、保身、我が身可愛さが台頭するからであり、これに相対する自我の強化された心(靈)は、自分の低い心を諫め、自分の心(靈)の動きにも行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)にも、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を規範とした観方をする。 また、“ほんとう”の“力”、位(くらい)、とは、人が評価するものではなく、神が評価するそれであることを解るものである。

 

 ローム太霊はローム太霊講話集第五十七話で

真心(まごころ)がなくただ巧言を持って人を籠絡している者

 

と、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を考えない、自分の努力を惜しむ、漁夫の利を得る、形骸の権威を利用しそれに固執する、などの自我が脆弱な人間のことを指摘しておられます。

 

 そのうえで

神は、善悪を問わずただ物を得よと教えているのではないから、人間としては自分が考える善において得ればよい…中略…それは一般の道徳で言う善悪ではなく、各の個人が良心によって定める善悪に従って努力すれば…以下略…

 

と述べておられ、この“個人が良心によって定める善悪”、これに“善悪に従って努力”をせよと述べておられる。 また先の“真心(まごころ)”ということを常に考えるべきである。

 それで、自我が脆弱な人間はこれをしない、したがらない、なので先の、保身、我が身可愛さが台頭、その場限りの嘘をついたり、ごまかしたり、利益のために人を欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、たいして持っていない“力”を大げさに強調する示威行為、などということが台頭している。

 ならば、自分自身が自分の自我の脆弱さを容認しているということになり、また“その十三”のタイトル通り、 自我の脆弱な心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない ということになる。

 

 これを、様々な霊的干渉から考えれば、自我の脆弱な人間は“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)するものである。

 

 これに相対し、“各の個人が良心によって定める善悪に従って努力”、この息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になる。

 

 そこで、自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出す、これらの心(靈)の在り方はいま述べた通りであり、これを常に考える(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))ことが、自我の脆弱な人間にとって必須であり、具体的には、自分の非を認め、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)を理解し、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に当てはめて考えるということをしなければならない。

 そしてこれは生きている間だけではなく、死後も考えねばならないことである。 それを教えるために宗教では地獄の概念が説かれていることにも気づくべきである。

 

 たった今は、自我の脆弱な人間が大多数であるという現状ですが、自我の強化、これによる“絶対の善”の顕現、これは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)にとって必須であることを強調しておきます。

悪魔に対しての認識の無さ “その十四” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間、自我の脆弱な心(靈)は、生き死ににかかわらず自省(胸の磁性“十”)の“行”をしなければならない”

 自我が脆弱であると、自分のことしかわからない、自分を守ることしか考えない、自分の損得しか頭にない、当然のことながら、他者のことを思いやるとか、自分と他者というバランスなど考えない。 また、正しい、間違っている、あるいは“善(神格化の方向性と智性の受信)”“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を規範として自分の心(靈)の動きを見出そうとしないし、律することもできない。

 そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がその人の霊的成長や生き方の指針として課した試練や課題、それから逃げる、あるいはごまかす、などの心(靈)の動きをする。

 

 ここまで、こういったことを指摘してきました。

 

 それで、ローム太霊講話集の第十話で太霊は以下のように述べておられます。

人間はどのみち肉体を捨てなければならない…中略…幽体が完成すると自由行動が許され、先ず寂しい荒野の中に独りぽつねんと立たされるのである…中略…自分が肉体を持って生きてきた生涯の幻影(まぼろし)が走馬灯のように次々と現われて、あれは悪かったこれは善かったというふうに、自分の善悪の業(ごう)がしみじみと悟らされる…中略…そのうちに段々善い方のことは頭に浮かばなくなり悪い方のことばかりが思い出されてきて、終(つい)には悔恨の涙に咽ぶ…中略…中でも一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと


 この“一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと”。

 なぜ“人を欺(あざむ)いたこと”をするのか。 それは、その人の自我が脆弱であり、自分の立場を守りたい、人に自分の悪いところを指摘されたくない、だから嘘をついてごまかしたりもする、また、形骸の地位にしがみつく、あるいは自分の利益を守りたい、もっと利益を得たい、などという損得中心、自己中心の考えしか持っていない……など、具体例を挙げればきりがないのですが、すべてこれは我が身可愛さ、保身、という心(靈)が台頭した心(靈)の動き、それ所以のことである。

 

 そして同じく第十話で、
同じ欺瞞(ぎまん)でも他人に見破られた場合はよいが、それが成功して名声を博したり巨富を積んだりして一生を終ったということになると、それが自分の心の癌(がん)となって、それを取り除くためには人間の貧困者や業病者に対してあらゆる援助をする役目を仰せ付かる

と述べられています。

 

 これは何のために“貧困者や業病者に対してあらゆる援助をする役目を仰せ付かる”のか、それは“自分の心の癌(がん)”を“取り除くため”であると述べられています。

 この“役目を仰せ付かる”、このために自分が頑張る、その時の心境は先の“一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと”、これを悔やむ、自省(胸の磁性“十”)する、ということであり、それをしないと、自分の非を認めやってきたことが悪だと認識しないと“心の癌(がん)となって、それを取り除く”ことが出来えないのであり、自省(胸の磁性“十”)の出来ていないままの心(靈)であるならば、それは悪霊になり、悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)に加担することとなる。

 

 そして前後しますが“他人に見破られた場合はよい”というのは、自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を他人に批判される、これを機に自省(胸の磁性“十”)するチャンスがあたえられるからでもあるし、生きている間にこれを行っておくと、自省(胸の磁性“十”)出来ていない心(靈)よりも、死んでから先に進むことができるからである。

 

 著書でも“続”でも自省(胸の磁性“十”)の“行”について幾度も述べておりますが、自我が強化されるためには、脆弱な自我が、まず、いびつな心(靈)の動きである自我の肥大をする、それはここまで述べてきた通り、自分のことしかわからない、自分を示したい(示威行為)、自分の損得しか思わない、よって金や物に執着する、形骸の名誉を得ようとする。

これらのことをして、その結果、人生で失敗をするものである。

右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)

 

 それで、この段階から“上”の心(靈)の成長は、先に述べた通り自分の非を認める、自分がやってきたことが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であることをしっかり認識する、その際の心(靈)の動きが、自分を省みることであり、自我より“上”の心(靈)である“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”が発現していくものであり、またそれは自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”となって、自分の低い心(靈)を諫め、律することができるようになるが、これが自我の強化につながり、強化された自我は、自己にも他者にも“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を認めず、“絶対の善”を顕現しようとする心(靈)の動きとなっていくものである。

 これが強化された自我の一側面であることを述べておきますし、先に述べた通り、本来は生きている間にこれを行うべきであることを付け加えておきます。

悪魔に対しての認識の無さ “その十三” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間、自我の脆弱な心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない”

 先回、自我が脆弱な人間は“保身”“我が身可愛さ”という心(靈)の動きが台頭することを指摘しました。

 これは換言すれば、自分に厳しくなれない、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)が解っていても、自分にとって都合の良い方を選んでしまう…ということも述べました。

 また、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課した試練や課題、それから逃げる、あるいはごまかす、などの心(靈)の動きをすることも指摘しました。

 

 こういった人間は、“上”が課した試練や課題に対して向き合わない、というよりも、向き合うことができない、またそれは、向き合う心(靈)の資質が足りなさすぎるものであるが、その理由は、自我が強化されていないからである。

 仮に自我が強化されているならば、目前の事象に対し、どんなに嫌な苦しい目にあっていようとも、立ち向かおうとするものであり、立ち向かって初めて“上”が課した試練や課題の意味と意義を解っていくものである。

 そしてそのこと自体が、なぜ自分がこんな目にあっているのか、これを考えること自体が自分と神の関係を理解し、目前の事象に“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出すことにもなり、結果それは“ほんとう”を求める、真実=真固止を理解するということになりえる。

 これらが、自分の心(靈)が育ったのだ、といえるのだが、自我が脆弱な心(靈)では、先に述べた通り、真摯に向き合うことができないということになり、逃げる、ごまかす、ということをする。

 その心(靈)の動きは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応し、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信は届かなくなる(振動の法則性としての感応が無くなるということ)。

 そして苦痛や苦悩を忘れるために目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望を満たしたり、低い功名心や自尊心を満たそうとする(形骸の地位、あるいは形骸の“美”を追い求めるなど)ものである。

 

 この“上”からの通信が届かない、この通信は目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳で感応するものである。

その目上(めうえ)の脳を行使しているならば、自分がどう在るべきか、目前の事象に対し自分がどう振る舞うべきか、考えるものであり、これ事態が自我の強化につながることであるし、結果それは自分がどうしたら育つのか、ということを理解する、これにもつながるものである。

 そこで初めて、進化が、心(靈)が育つ、それは霊的成長であり、神に近づくことなのだということを実感しうるものである。

 

 これに相対し自我が脆弱ならば、先に述べた通り目下(めした)の心(靈)の動きが台頭する、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)という結果しかない。

 また目前の事象の、“上”が課した課題や試練に対して、自分の成長を見出せないものである。

 

 こんな心(靈)では、自分の存在意義、自分が進化したならば神に近くなっていく、などという考えもなく、あるいはそれを知識として知っていたとしても、自分に当てはめて考えることができない。

 またそれは、自分に厳しくなれないものであるといえ、結果それは、生きている間に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない程度の低い霊的成長度の心(靈)でしかない、といえます。

 さらにこういった、自我が脆弱、あるいは自我の肥大を起こしたまま死んでしまった人間は、真実=真固止を求めず、

さらに自省(胸の磁性“十”)が出来ていないから、悪霊となりうる資質、これが中心の心(靈)であると言い得ます。 

これに関連し、次回は、自我が脆弱なまま死んだらどうなるか、それをローム太霊講話集から引用して私見を述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その十二” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は、自我が脆弱で、我が身可愛さ、保身、という心(靈)が台頭する”

 たった今のほとんどの地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階であることを述べております。

 

 この自我の確立=固定化とは、まだまだ自我が脆弱であるから、自我の強化が必要、また、自我の強化が進化にとって必須要綱であるが故に、自我が脆弱な人はいびつな心(靈)である自我の肥大をしていきながら自我を強化するものである。

 その自我の肥大をしているいびつな心(靈)、この段階の心(靈)の動きしか持ちえない人は、自分の心(靈)の低い心(靈)の動きを見出せないし、低い、高いが判別できない。 

 あるいは、人間ならば誰でも少しだけ持っている智性(神性)により自分の心(靈)の動きが低いと判別出来ても、無視しているものである。

 また、自我が脆弱であると自分のことしかわからない、よって自分を守ることしか考えない、自分の損得しか頭にない、当然のことながら、他者のことを思いやるとか、自分と他者というバランスなど考えない。

 また、正しい、間違っている、あるいは“善(神格化の方向性と智性の受信)”“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を規範として自分の心(靈)の動きを見出そうとしないし、律することもできない。 

 仮に、自我が強化されていれば、自分の心(靈)の動きを自分で諫め律することが出来得るものである。

 また、自我が強化されているならば、自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“を行使する、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)、正しい、と、間違っている、これを規範とし自分を律するものであり、さらに、自分がどうなれば進化(霊的成長、神格化に向かうこと)するのかを見出そうとするものでもある。

 仮に自我が強化されているならば、苦痛や苦悩に負けない心(靈)の動きを持つ、あるいは持とうとするものでもある。

 

 これに反し、自我が脆弱で自我の肥大をしている人は“善悪”正しい間違っている、などの事柄を、人や自分が遭遇する事象や“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)などに、咎められたり、指摘されたりすると、条件反射のように反目をしてしまうことが多いし、自分に問題があるとは思いたくない、自分の非を認めたくない、また、逃げる、ごまかす、ということをする。

 これは言い換えれば、自分さえよければいい、自分の都合しか考えていない、あるいは自分中心であるがゆえに、他者に迷惑をかけているとか、他者に対して、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をしていても、自分は間違っていないとか、間違っていることを判っていたとしても、その場しのぎの嘘やごまかしをしたりする。

 また、自我が脆弱であると、常に、自分は攻撃されているのではないか、非難されているのではないか、だれかが自分を陥れようとしているのではないか、悪口を言われているのではないか、などという被害者意識を伴った強迫観念のような心(靈)の動きが台頭する傾向がある。 この心(靈)の動きは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)による“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)でもあるが、この心(靈)の動きは“下”と感応し、ますますその傾向は強くなっていくものである。

 

 本題に戻り、先に述べた

「“善悪”正しい間違っている、などの事柄を…中略…咎められたり」、

これ事態が自我が脆弱な人にとっての、神、あるいは“上”の采配であるし、これに真摯に向き合わねば、その人の心(靈)は育たず、自我も強化されないものである。

 上記のこと、これは幾度となく述べていますが、自我の強化のために神、あるいは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、自分の心(靈)の在り方をその本人に見出させようとする。 

 それが目的で、人生において課題や試練を与える。 

 これがまたローム太霊の言葉、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、の、一つの意味合いでもあり、程度の低い砌の“行”は、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動き由来の欲望の達成であったりする。

 

 この、神や“上”が課した試練に対し、保身、我が身可愛さ、という心(靈)の動きが台頭して、逃げる、避ける、その場しのぎでごまかす、真摯に向き合わない、ということをしているならば、神あるいは“上”がその人を育てようとして課した試練を受け止めていないということであり、もしそうならば、その人の人生はたいして価値のないものとなる。

 

 ちなみに、人生において“ほんとう”に価値のある事、などと説いてもほとんどの地球人には理解できないことなのですが、それは、生きている間に自分の心(靈)がどれくらい育つか、である。 

 それだからこそ、自分の心(靈)の“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ぐらいは見いだせねばならないし、自分が考え得る正しいことを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)としていかねばならないものである。

 こうやって生きること事態が、“上”に認められ、自分の心(靈)の“ほんとう”の満足につながるものである。

 これに相対し、自我が脆弱で自我の肥大したほとんどの人間は、物や金、目先の快楽(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望)、形骸の地位、示威行為、これに満足を求めようとする。

 あるいは先に述べた神あるいは“上”が課した試練から逃げる、忘れようとする際に目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の欲望由来の行為、本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)に走ったりする。 

 また、神や“上”が課した試練に伴う苦痛や苦悩を忘れようとするために、エンターテイメントを楽しむ、あるいは甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見させる形骸の宗教、インチキスピリチュアルなどに傾倒したりする。

また、自分がやってきたことの“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)として世に示された際に、ごまかしたりする形骸の名誉に固執する人間などは、最近よく報道されています。

 

 ローム太霊は、自我の強化のために参考となる自分の心(靈)の在り方として、第九話で以下のように述べておられます。

人間は確固とした信念を持っていて、それが如何に悪口雑言されようとも、少しも 傷(きづつ)けられないという立派な精神に…中略…誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行…中略…どんなに恨まれても決して恨まない心を造ることが大切…中略…仮令拷問(ごうもん)にかけられ…中略…堪え得るだけの精神の修養はロームが常に教えている筈…中略…絶えず向上を計りまた向上する人間は、心がそこへ行こうとも、本心は真の神を祈っている

 

 この文言中の“本心は真の神を祈っている”、これは、自分の心(靈)が育つために神や“上”が課題や試練を与えている、それが

悪口雑言されようとも”“誰に何と言われようと、大木の如くまた柳の如く、それを正面(まとも)に受けることも軽く逸らすことも出来る人間になるのが修行

また

恨まれても決して恨まない心を造る

これは自我があるがゆえに仕返ししたいと思うことであるが、それではダメであることを述べておられるのであり、そこで

絶えず向上を計りまた向上する人間

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すならば、

真の神を祈っている

自分が“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止))になる、そのための課題や試練、これが神や“上”采配であることを解り、

悪口雑言されようとも

誰に何と言われようと

恨まれても決して恨まない

仮令拷問(ごうもん)にかけられ

目前の事象が、こういったことであろうが、

堪え得るだけの精神の修養”、これらを真摯に受け止め向き合い、自分の在り方を自分に問うことをする、そしてさらなる進化を目指す、の意であることを述べておきます。

 

悪魔に対しての認識の無さ “その十一” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間はアセンション後に移行しうる最低限の心(靈)の資質すら無い”

  アタシ的には、読者の方や治療をする人に会い、霊的な事柄を中心に人間の生き方や在り方などを話す機会に恵まれたときに以下の事柄に留意しております。

  • この人はどれくらい、生きること、死ぬこと、心が霊であること、霊は生死という状態の変化はあるが永遠不滅であること、に対する認識を持っているか
  • 人間だけが“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を認識しうること
  • 人間だけが幸福の概念をもっていること
  • 人間だけが神と悪魔を認識し始めていること
  • しかしながら神と悪魔の認識は個人差がある、それは霊的成長度の高低により雲泥の差がある

 

 上記の事柄を考慮して話をしないと、その人の持つ人生観(自分を含めた人間の生き方や生きることの意味に関する考え)により、こちらの説明が通じない、理解してもらえないことが多いためです。

 

 著書やブログで、アセンションという事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の計画であり、今の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が“創造”してしまった醜い事象を継続させない、そのため霊的成長度の高低における区分けが、アセンションであることを述べています。

 また、次の事象の“創造”に参加しうる人間はとても少ないであろうことも述べています。

 

 それは、平均的地球人の霊的成長度がアタシから観て、あるいは宇宙連合(ユニオン)から観て、低すぎるからであり、

(宇宙連合(ユニオン)に地球人が参加しえないのは、参加する資質を持っていないからである)

大多数の人間がただ漫然(特別の目的もなく事をなすさま、ぼんやり)と生きているだけであり、自分の生き方に対し、神に認められる、まっとうに生きる、自分に恥じないように生きる、そのために自分の思想や行動に“善悪”を当てはめていく、などの考えはなく、目先の快楽を追い求め、そのために金を儲け、金の奴隷となり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”として、欺くとか、騙すとか、嘘をつくとか、奪うとかの要素のある生業(なりわい)をするが、自我の肥大をしているから、自分は欺いていない、騙していない、嘘をついていない、奪っていない、と思い込みたがる傾向がある。

 

 こういった心(靈)の動き、それは、自分の人生をしっかり考えたことがない、自分が遭遇する目前の事象に対して常に自分がどう在るべきなのか、その在り方を考えない。

 また、生きることの意味を考えたことがない。

 生きることの意味を考えたことがないから神や霊に対する認識も低い(言葉でしか知り得ない)、神を考えない、あるいは神に対する認識がてんで間違っている。

(これらに関しては、 神に対しての認識の無さ “その一~八” で述べましたのでそちらを参照のこと)

 

 そして、先に述べたことと重複しますが、“善悪”を自分の思想や行動に当てはめて考えない、あるいは無視して自分にとって都合の良いことだけを考える。

 

 まとめれば、自分の生き方に対する是非、これを考えず、目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の欲望の達成、これ由来の理想とか希望とかを持つ。 

 言ってしまえば程度の低い心(靈)の理想や希望はそんなものでしかない。

 そしてそのために自分のエネルギーを使い、努力する。 

 その結果得られた“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使するが、やはり目下(めした)の欲望の達成のためでしかなく、それ故に目先の損得しか思わない傾向がある。

 これが大半の地球人の現状である。

 

 それで、今後=アセンション後に移行する最低限の資質といいうる、自分が自分の在り方を観て(般若心経の“観自在”)常に自分がどう在るべきか考える。

 それは“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を自分に当てはめ、また獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使、自分の損得のために使うのではなく、全体を考えて“力”を行使することにつながっていく。

 その心(靈)の動きは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になり、さらに普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)の“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを取り込んでいくその始まりとなりうる。

 これに相対し、先に指摘した目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きのままでは、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の、人間として獲得しなければならない高い振動は、素通りしてしまう。 

 その素通りしてしまっている状態がまた、動物と同じような振動しか止めていない心(靈)である。

 これが“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”、ローム太霊講話集の第二十一話“動物的なあたまの持ち主”、アタシの表記としての目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)である。

 

 しかしながら人間は動物とは違い、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳をもち、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの、動物とは違う振動を取り込み、自分に止めていくその素地(大脳新皮質)を持つがゆえに、自分の在り方を鑑みることが出来得る。 

 そういった心(靈)が次の事象の“創造”に参加しうる最低限の資質である。

 その資質であることを著書やブログで述べており、結果としてそれは智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得と行使をし始めるということになっていくものであり、こういったことが“ほんとう”の意味での進化(霊的成長、神格化に向かうこと)である。

 

 それで“幼稚化した人間”が多いこの事象では、いまだ、アセンションに対して全く稚拙な見方をしたり、誰もが救われるなどの甘い(亜、魔、出ずる、泉)考えを持つ人も多いようですが、たった今の事象は先に述べたように“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応しながら“創造”してしまった恨みの連鎖の霊的干渉が盛んな場(フィールド)であり、このままでは人間の体も心(靈)もダメになり、文明も崩壊してしまう。

 だがこれは、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)である。 “創造”の“主(ヌシ)”はすべてを崩壊させることをさせないし、望んでいるのは人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であるから、霊的成長度の高低における区分けを行うものである。

 

 それだからこそ、神の介入として、宗教の開祖や、進化した宇宙人、高い霊的存在、これ等を介して、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)と今後=アセンション後のことを教えてはいるのだが、これも金儲けに利用されて間違った情報の方が圧倒的に多く流布されているという現状があるし、これを行っているのは“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり“役員づら”であり神や悪魔に対しての認識がてんで低い、そして自分のまっとうな在り方など考えもしないから、上記の神の介入を自分たちの商売に利用したりしている程度の低い人間である。

 

 本題に戻り、たった今の醜い事象は人間がやってきたことの結果、それはまた自己責任でもある。 その醜い事象、それを“観察と認識”していく、これからもっと多くの現象が起きて誰もがこの世界が腐っていることを知る。

 これらが人間のやってきたことの結果であること、それを知るのが学習であり、学習したならこれからは自分がどう在るべきか、それを考えることが出来得るようになる。

 そしてこれまでとは違う理想や希望を持つ。 全体の幸福を考えて(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して)、自分の持っている“力”の使い方を考え、それはまた自分の在り方を観ることと同義であるが、そうやって次の事象を“創造”する。

 それが今後=アセンション後の事象である。

 

 たった今、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化で一度に何十人も死ぬ事件がどんどん増え続けていますが、こういったことはもっと増えていくでしょうし、それを観たなら単なる偶然などと考えるのではなく、

(これに関しては、 “その五” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を偶然と誤認する” を参照のこと)

ちゃんとした霊的な理由と根拠があることを考えていただきたいし、考えた結果それが自分の認識(悟り、幸取=さとり)になったなら、これからは自分が(生きている死んでいるにかかわらず)どう在るべきか(自分の在り方を観る、“観自在”)考えていただきたいものです。

 

 また考えたならばそれは、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)になりうることを先に述べましたが、“上”の通信を受けて、自分の在り方を考え、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)することが、次の事象の“創造”に参加しうる最低限の資質であることを重ねて述べておきます。

 

 

悪魔に対しての認識の無さ “その十” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間の“美”の概念、“美白”の弊害 ”

 表題の「美白」、いうまでもなくこれは先回取り上げた“美容バカ”の価値観です。

 

 戦後、大手化粧品会社や製薬会社、サプリメント関連の企業などが、頭の悪い人間に刷り込んだこととして、日光に当たってはいけない、美容の敵である、などを強調した。 

 これは自分たちの利益のために(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動き)こういった情報を針小棒大に流布したのであるが、“幼稚化した人間”は自分たちの外側(外国と幽界)の事象の美を追い求めるがゆえにこのことが分からない。 よってその真偽を確かめようともしないものである。

 私的には、戦後七十年以上がたち多くの人たちに太陽に当たらない弊害が現象化していると思えます。 

その現象化としてまず肉体に起きていること.それは、

 

  • 骨粗しょう症の増加(骨の量(骨量)が減って骨が弱くなり、骨折しやすくなる病気)(最近特に感じるのは、四十代ごろ以降からの女性の骨折が多くなっている)
  • くる病の増加(くる病(佝僂病、痀瘻病)とは、ビタミンD欠乏や代謝異常により生じる骨の石灰化障害である。 典型的な病態は、乳幼児の骨格異常で、小児期の病態を「くる病」、骨端線閉鎖が完了した後の病態を「骨軟化症」と呼び区別する)(Wikipediaから引用)
  • 免疫力の低下(骨がダメになると免疫に関する骨髄もダメになる。 免疫細胞は骨髄中の造血幹細胞からつくられる)
  • 免疫力の低下によるアレルギー疾患(アレルギー性鼻炎、気管支ぜん息、じんましん・アトピー性皮膚炎、アレルギー性結膜炎、食物アレルギー、アナフィラキシー 即時型、自己免疫性容血性貧血、血小板減少症、顆粒球減少症、新生児容血性黄疸、血清病、過敏性肺炎、ループス腎炎(慢性糸球体腎炎)、全身性エリテマトーデスなど)の増加

 

 分かりやすい例をいくつか列挙しました。 こういったことは医学でも言われ始めていることです。

 

 しかしながらこれは肉体への影響であって、肉体しか観ていない学者の観点でしかない。

 

 アタシが述べたいのは、“ほんとう”の進化論 で述べたように、進化は霊的成長、神格化に向かうことである。肉体というのは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を止めて、心(靈)を進化させていくためのものである。 それがまた、“現界”で生きている人間が、肉体と心(靈)を有している理由でもある。

 

 また、なぜ古神道で“日止、霊止”、太陽を止める、霊を止める、という表記を使っているのか。 

 それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止める、その意味合いのある表記である。

 

 それで“美容バカ”の薄っぺらい認識による既成概念により、戦後七十年以上がたち、何世代にわたって太陽を避けた結果、たった今、心(靈)が育っていない、目下の心(靈)の動き中心の人間が増えている。

 この目下(めした)の心(靈)中心になる理由として、先の“上”からの振動、これはすべての生命に注がれ送り贈られているものですが、このうちの動物が止められる振動は人間も止めることが出来る、しかし人間が人間の心(靈)を育てるための振動、これが素通りするものである、その一因として骨がダメになっているからでもある。

 ちなみにアタシのパソコンの単語用例登録には、美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)と登録してあります。 

 人間が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めていく“行”は目上(めうえ)の脳で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、生体内電流で骨の結晶化をする(これが“行”の意義である)、そこに秘訣があることを未刊行の著書<6><7>で述べております。

 

 また、幼稚化した人間は、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))で発現する心(靈)を行使しないから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しえない。

 よって目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の行使しかないので、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には、それ相応の霊的干渉しかないものである。

 それは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でしかないということであり、これがまた恨みの連鎖の霊的干渉の増大の大きな要因となっている。

 

 具体的に述べれば、その低い霊的干渉は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きしかない状態に近いので、他者のことを思わない、感知しない、自分には関係ない、あるいは情動中心の心(靈)なので短絡的で自分の低い感情を抑制しえない。

 

(ことに近年増加傾向にある稚拙で短絡的、あるいは無責任な犯罪は、こういった霊的干渉の影響が大きい) 

 

 そしてそれは、本能、情動、功名心、自我、という心(靈)の動き中心なので、本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)とか、楽しいことしかしない(低い情動)、とか、(通貨としての)金に執着する、とか、ディスプレイ(動物の発情行動)のための形骸の美を追い求める(低い功名心と自尊心)、とかになり得る。

 

 また、今現在どんどん増えつつある、うつ病自閉症アスペルガー症候群、広汎性発達障害ADHD(注意欠陥・多動性障害)、学習障害(LD)(知的発達に遅れがないものの、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算・推論する」能力に困難が生じる発達障害)などは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、子供の浮遊霊や動物霊の影響が大きい。

 

(子供の浮遊霊は、大人になる過程を体験していかねばならないので、性的なことに興味を持ったり、タバコを吸ってみたいと思ったり酒を飲みたいと思ったりする。 それはまた心(靈)が子供でしかないので、自分を律することが出来えない。 また、飢餓貧困で死んだ子供の霊は(通貨としての)金やファッションやブランドや美食などにあこがれ体験したがる、あるいは病気で死んだ場合は薬やサプリメントにあこがれ執着する)

 

(動物霊は、当然のことながら智性(神性)なき心(靈)なので、他者のことは考えない、自分さえよければよい、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が強い、発情期が来ると本能的に交尾したがる。 また人間を羨ましいと思い、さらに恨んでねたんでいる場合が多いので、(通貨としての)金に執着したり、きれいな金とか汚い金とかの区別もない=“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)が理解できない。 また食用にされた家畜の動物霊は、人間を陥れる霊団(ローム太霊が述べた概念)の一員となり、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のために、常に息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しているものでもある)

 

 上記の事柄、これ等が“幼稚化した心(靈)”の現状であり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化である。

重複するがそれは、人間の幼稚化であり、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳を行使させないで、智性(神性)無き心(靈)として人間そのものを動物化させている。 

 ますます人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望まない存在の思惑どおりになっていると言いえます。

悪魔に対しての認識の無さ “その九” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間の持つ価値観と既成概念”

 表題にある「幼稚化した人間」は、何度も引用している“動物的なあたまの持ち主”(ローム太霊講話集第二十一話)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもあり、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが中心の人でもあり、その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階であるからこそ、自我の肥大した心(靈)の動きをしているものである。

 そして、たった今の地球人の大半がこの段階の霊的成長度でしかない。

 また「この段階の霊的成長度」における既成概念

(客観的に社会的に認められている考え方のこと、あるいは、広く社会で認められ、通用している概念)

は、程度の低い幸福感に由来するものが多い。

 ちなみに幸福の意味は、著書でも述べましたし、以下の画像の意味合いがあります。

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 画像の意味を理解された方は、生きている間にたくさんの体験をしてその体験から自分の認識(悟り、幸取=さとり)を高め、その認識由来の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それは目上(めうえ)の脳の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の息吹、それが“畐”、であり、“ほんとう”の幸福とはそういった意味合いがあることを解っていただけると思います。

 

 話を戻し、程度の低い幸福感は、自我の肥大由来の低い功名心に由来することが多く、それは、本能に由来する欲望が満たされればよい(食欲、性欲など)、あるいは物欲、あるいは形骸の“美”の概念の賛美など、これに関しては著書の<4><5>を中心に述べてきました。

 

 これら、自分たちの低い功名心を煽り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出させないのが、悪魔の思惑、人の霊的成長を望まない存在の思惑であり、多くの人間がこの“悪魔のささやき”(“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の影響を受けているが、本人たちには、その自覚がほとんど無いものであり、自覚がない理由はその心(靈)が智性(神性)無き心(靈)であるから、物事に“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)や“ほんとう”の“美”と“醜”、そして“真偽”を見出すことをしない。

 

 あるいは多少の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)があっても、先に述べた“悪魔のささやき”により、目上(めうえ)の脳を行使させない思惑を受信しているからであり、目先の快楽、低い欲望の達成、あるいは毎日が楽しければよい、それだから“神の采配”としての試練を避け、苦痛や苦悩はまっぴら御免と思う。

 それは、本能に由来する欲求を満たしたい。

 例を挙げれば、そのために、自己制限が必要な病気であっても食いたいものを食い酒が飲みたければ飲むという程度の低い人間は多く、自己制限したくないからインチキサプリメントに頼ったりする、あるいは、性欲を満たしたいがため自分の在り方を考えず不倫が横行したり性犯罪が多発したりもするものである。

 

 また、日本やアメリカなど経済大国に見られる傾向として、沢山の金を儲けて物欲を満たす、生きていくのに必要でないものをたくさん集め、優越感に浸りたい。 それは美術品であったり高価な車であったり…例を挙げるまでもないですが、そんなものを集めても進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結び付くことはないし、こういった人間が経済を動かしているから開発途上国の飢餓貧困が増加して子供の浮遊霊が増え、その霊的干渉が益々幼稚化した人間を増やすという実情がある。

 またブランド、ファッション、宝石、それは“ほんとう”の“美”ではない、こういったものを“美”と認識して喜んで低い功名心を満足させているのは、心(靈)が醜いのであり、“ほんとう”の“美”は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で示すものであることを述べましたが、たった今は、物欲バカ、美容バカ、ファッションバカ、ブランド品バカ、装飾品バカ…悪口になりましたが、こういった人間が多すぎる。

 ちなみに、こういった事柄は、飢餓貧困で死んだ子供の浮遊霊の憑依、幼稚化した心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)との感応共振の影響が強いことを著書で述べております。

 

 また先々回に述べたことと重複するが、人の霊的成長の指針となる筈の宗教を腐らせ金儲けの道具とし、形骸の権威を示すために利用して人殺しまでしている。

 また「宗教とはそんなものなのだ」と、これを容認している人間は多く、こういった人間は神や仏、あるいは天皇を言葉でしか知らないものである。 これに関してもっとひどい場合、自分が稼いだ汚い金を腐った宗教に貢いで、「自分は徳を積んだ」と公言する既成宗教ご利益バカもいる。 そのご利益バカは、インチキ霊能者やインチキ占いやインチキスピリチュアルなどにも、自分に都合の良いご利益を求めて、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見て雰囲気に酔うバカとなるし、これらが先回の“役員づら”の手法に乗せられている人間である。

 

 こういった人間に、進化は霊的成長、神格化に向かうことである、自分たちと神の関係は“創造”の“主(ヌシ)”と被造物であり、“創造”の“主(ヌシ)”は一切の生命の神格化を目論んでいる、現津(あきつ)、観察され得る事象とは、“創造”の“主(ヌシ)”を含む一切の生命が息吹く振動の受信により、現実として個の心(靈)の中に投影されたものを“観察と認識”しているのが現実である、などの話が到底理解できるはずもなく、まず、自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、これに“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということをあてはめて、“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)、そのために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをさせるものである。 これは“神の采配”であり、“上”が課した試練を体験させる、右往左往は砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、程度の低い人間は自分が観察しうる事象に(現実に)、低い幸福感由来の欲望の達成を望み、そのために努力して金の奴隷になるが、そんなことをいつまでも“上”は許可しないし、それは“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付ける過程と言いうるが、“力”の行使という要素を認識させるために=日足(ひたり)の極性を得た心(靈)とする。

 これが生きている間に行うべく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における最初のステップである。

 

 それで、アタシがこういった文章を作り続けているのは、一人でも多くの方が今後=アセンション後の事象に移行しうる心(靈)の資質を獲得していただきたい…のですが、たった今は先に述べた〇〇バカが多すぎである。

 また“ほんとう”を見いだせない〇〇バカを増やすのが悪魔の思惑である。

 よって、まず自分たちが〇〇バカであることを認め、それから自分がどう在るべきか考えていただきたい。

 そして今回、ここまで述べた事柄、こういったことから理解をしていかなければ、今後=アセンション後に移行しうる心(靈)の資質は得られない、ということを、あえて述べておきます。

 

悪魔に対しての認識の無さ “その八” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は“役員づら”の手法に乗せられている”

 表題にある“役員づら”は、“日月神示”に登場する表記です。 

 その意味として、まず“役員”の意は、

「会社の業務執行および監督を行う幹部職員、 経営者や上位管理職」

であり、これはアセンション、霊的成長度における区分け、これを執行し監督するリーダー的な使命を持つ霊的成長度の高い心(靈)、その資質の意があると思え、その資質を持った=“上”が認めた霊的成長度の人間を、“日月神示”では“役員”と呼称しているのだ、と解釈しております。

 

 それでは“役員づら”とはなにか。

面(つら)の意味合いは、

…のような顔をしている、…のようなようすである、…を騙る(かたる)(うまいことを言って人をだます、騙して金品を奪い取る)、

この意があり、先に述べた“役員”を騙って多くの人間をアセンションに導かない、しかも金品まで奪い取る、という意味合いとなるので、アタシのパソコンの単語用例登録には、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))と登録してあります。

 

 著書で述べたように、これからすべての地球人が体験するアセンションと認識され得る事象は、神の計画であり、その実情は、霊的成長度の高低における区分けである。

 その区分けのために、多くの人間が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味と、霊的成長度ということを知らなければならない。

 また自分たちが霊的に高いか低いか分らなければならない。

 その高い低いは具体的にどういったことなのか理解しなければならない。

 これに付随することとして霊的成長度の低い人間の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、あるいは少し“上”に成長した人間の行動、これが理解できなければならない。

 

 しかしながら、個々の心(靈)の成長を説いた宗教は、先回も述べた通り腐りきっている。 

 さらに既成宗教では、“慈悲”と“慈愛”、汝の隣人を愛せよ、弥勒の世、最後の審判、など、アセンションの指標となる教訓を“上”が示しているが、これもしっかり説かれていない。

 

 また近年、霊媒による物理現象、ローム太霊の文言や、岡本天明の自動書記による“日月神示”、さらに霊的成長度が地球人より高い宇宙人や宇宙的存在のメッセージも、“上”の計画として地球人に下された。 

 これはアセンションの時期

(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)

が近いからであるからと言えるのだが、それら文言に対し自分たちの都合の良い解釈をして、だれにでも分りそうな言葉を一部を強調してご利益めいたことを説いて出版物を売る、セミナーなどを開くなど、単なる商売に成り下がっているものが多数見受けられる。 

 その功罪としては、こういった事柄を一般にはエンターテイメントとして扱われている傾向があり、その極めて重要な内容は、程度の低い人間の商売により捻じ曲げられて流布されているという現状がある。

 

 こういった“役員づら”の手法、これの真偽を見いだせる人間があまりにも少ない。

 それは、自分は何のために生きているか、自分とは何か、自分の人生とは何か、神とは何か、などを真摯に考えることが出来るほど目上(めうえ)の脳を行使していない。

また、そういった事柄を真摯に考えるという段階に至るほど“上”が試練を与えていない(右往左往から左往右往ということが出来ていない)。

それはまだ動物から少し進化した程度の幼稚な心(靈)であるケースが多い、あるいは多少考える素地を持っていても、“役員づら”の手法により甘い言葉の方を信じたがる。

 

 これらは単に霊的成長度が低い、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)の動きしか持っていないから、ありがたそうな言葉に酔うだけ、また、ご利益しか求めない心(靈)があるから、苦痛や苦悩を避けて“役員づら”の程度の低い解釈や甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉に乗せられ、アセンションの意味と意義を真摯に考えない。

 それだからこそ、“役員づら”、“役員”を騙り商売をしたり自分の低い功名心を満たしたりする人間は、結果としてアセンションに移行する資質を持つ人間をダメにする、よってそれは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であると言いうる。

 

 それで、次の段階、今と違う霊的成長度の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、これがアセンション後の現実、ではあるが、これに参加されたい、と、これを読んでおられるご自身が思われるならば、自分自身の霊的成長度が“日月神示”の“ケダモノ”、“われよし”であるだろうか。

 あるいはローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに該当するか。

 自分の心(靈)をよく“観察と認識”しておかねばならない。

 

 それで、今後=アセンション後の現実の指標たることとしてひとつ例を挙げれば、ローム太霊講話集第二話の

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち…中略…神の気持ちは人間の心の中にもありながら…中略…自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

これを自分の在り方とする。

 

 以上、“日月神示”とローム太霊の言葉からきわめて解りやすい事例だけピックアップしましたが、常に自分の心(靈)の動きを自分自身が“観察と認識”して、これは“上”だろうか、“下”だろうか、自己観察をする、その自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)は目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の行使につながる。

 そして平均的地球人が動物とは違い、少しだけ持ち始めた智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使したならば、“役員づら”の手法は偽物であり、“上”の意図とは違うものであることが判る筈である。

 その上で自分は“ケダモノ”“われよし”“動物的なあたま”よりも“上”の心(靈)の発現と行使、自分のまっとうさ、これを求め、現実=この事象に顕現する、そうするならば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が進むものであり、さらに智性(神性)は増していくものであることを、今回のテーマから派生することとして、あえて述べておきます。

 

悪魔に対しての認識の無さ “その七” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は宗教を腐らせ悪霊を増やしている”

宗教は、その宗教の開祖(仏陀、キリスト、マホメットなど)に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が影響(“上”の霊的干渉)してできた。

 

(ただし、日本の神道に関しては開祖という存在は見当たらず、惟神(神でおわしますまま、神の御心(みこころ)のまま(であること)という概念があります。 これに関してアタシ的な言葉の使い方としては、神の思惑に沿った存在の在り方を(生死を問わず永遠に)鑑みること。 よってこの惟神、これも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信であることは明白です)

 

その影響とは、通信を受けたり、苦難の多い人生を体験させて認識(悟り、幸取=さとり)を得させたり、あるいは直接の憑依で“上”の思惑を語ることをさせた。

 

そしてその開祖は、人間の在り方や霊的成長について伝え、それを知った人民は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す。

また、幼稚な心(靈)のまま死んでしまった、さまよっている霊(心)の霊的成長のための祓い

(これは悪霊を除くと解釈されがちですが、その悪霊を自省(胸の磁性“十”)させる、自省(胸の磁性“十”)した心(靈)は悪霊ではなくなる、これが神道に伝わる“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、の意味合いです)

や、供養

(これも間違った概念が伝わっている感がありますが、これは向うの事象に移行した心(靈)の霊的成長を願い、その霊的成長の援護としてお経や真言や呪文や祝詞などがある)

を教えた。

 

なぜ祓いや供養を“上”は教えたのか、それは恨みの連鎖の霊的干渉の軽減、あるいはその消失、のためという意味合いもあるのですが、たった今こういったことはただの儀式にすぎず、あるいは金儲けの道具にしかなっていない。

そして実際には、今の祓いや供養は悪霊に対して何の効力もないに等しい。

それは、これに携わる宗教関係者などが霊的成長の為の“行”を行なっていない、霊的成長度の高い人間が祓いや供養を行うならば、その影響

(霊的成長度の高いものの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、その息吹が与える影響は、高い霊的成長度のそれは霊が荷電粒子の回転であるがゆえに電圧、電流という要素があるがゆえ、影響を与えうるものである)

は、悪霊を自省(胸の磁性“十”)させ得る、そういった影響を与えうるものであるが、悪霊とほとんど同等の霊的成長度(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈))である今の宗教関係者(神職、僧侶、神父、形骸に成り果てた天皇制に携わる人間)の多くは、祓いや供養を何のために行うのか考えたことすらない者が多く、その重要性も知り得ない。  

そしてそれらは当然のことながら自身の霊的成長の為の“行”も行わず、あるいは霊的成長の概念すらない人間も多い。

そして今の宗教関係者は、恨みの連鎖の霊的干渉についてすら考えたことが無い者が多い。 

 

よってこういった人間は、宗教関係者でありながら“ほんとう”の宗教の意味と意義を知り得ず、自分たちの金儲けと権威のための道具としてしか扱っていない。

(それは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心の心(靈)であるからであると言いうる)

 

こういうふうにしか扱えないこと事態が、今の宗教関係者は心(靈)が育っておらず、それは幼稚化した心(靈)であり、これが今の当り前になっている。

この現状は“上”の思惑に沿っていない、当然のことながら“上”が望んだ現状ではない。 それは、人の霊的成長のための宗教ではない、恨みの連鎖の軽減のための宗教でもない。

 

さらに、こういった幼稚な心(靈)の程度の低い宗教関係者は、死んだら悪霊になってしまうものであるし、それに関わる信者も、結果として形骸になった宗教を通じて心(靈)は育たないので、幼稚な心(靈)のまま悪霊になる。

よって今の宗教関係者は、自分たちも含め、どんどん悪霊を増やしており、この罪を背負って次の世界に移行する、次の世界でその罪を贖う(あがなう)ということを、あえて付け加えておきます。

悪魔に対しての認識の無さ “その六” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を増大させている”

 人間は個々の霊的成長度の高低において、考え方や思想、物事の見方、捉え方(事象の“観察と認識”)に相違がある。

 その相違があるがゆえに、それが反映した行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)も違うものである。

 

 幼稚化した人間は先回述べた通り、目前の事象に理由と根拠を見出そうとしないが、これ事態が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の足らない心(靈)の動きであり、それは著書で述べた通り目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが中心であり、具体的には、本能、情動、低い功名心、自我の肥大、という心(靈)の動きが観られるものであるが、これに当該する本人はこの心(靈)の動きに問題点を見出そうともしないものである。

 その智性の足らない人間は、どういった生き方や行動をするか、それは、本能由来の欲望(八戒(低い欲望に対する八つの戒め))が満たされればよい、低い功名心由来の満足ができればよい(ファッション、ブランド、宝石などの装飾品、これらはディスプレイ(動物の発情行動)であり、形骸の“美”の概念に由来することである)、また、薄っぺらいエンターテイメントなどに酔いしれ、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))を行使する時間を作りえない…など、それはすでに、神に対する認識の無さ、で引用したローム太霊講話集 第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当するといえ、たった今自分の目の前にある事象に対してその意味や意義を考えることをしない、自分が生きていることに対して深く考えることもしない、という目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であるがゆえに、自分と自分より“上”である神や仏の関係、これを考えないで、目先の快楽を求め、形骸の名誉を求め、形骸の“美”を求め、エンターテイメントなどの薄っぺらい喜びを求める。 

 また本能由来の欲望、形骸の名誉や形骸の“美”を求める低い功名心、これらの達成のために(通貨としての)金に執着し、金を得るために、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をすることを厭わない(いとわない)で一生を終えるものであり、それが太霊の述べた“動物的なあたまの持主”の文言の裏にあることでもある。 

 それはまた、たった今“続”で解釈を行っている“日月神示”の表記の“ケダモノ”“けもの”などの表記もこの意味合いを持つものであるし、こういった心(靈)の動きを助長させているのが“石屋の仕組み”であり、そこには心(靈)の動きとしての自我の肥大というものが認められるものである。

 

 これら心(靈)が幼稚化した人間は、こういった心(靈)の動きに対して自分の在り方を見出そうともせず、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に対しての“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)をあてはめて考えることもし得ないものである。 

 その“善悪”を無視して欲望の達成のために(通貨としての)金に執着する心(靈)の動きが、貧富の差を生み、経済の格差を生み、増大させている。

 

 例えば、先の八戒由来の心(靈)の動きの一つである美食は、家畜の浮遊霊を増やしている。

 美食の結果として自分たちの体の調子が悪くなったら、その食の欲望を自らに諌めることなくサプリメントなどに頼る。 結果として、自分が自分に厳しく生きることに価値があるということに気付かず、生きていることに対する認識(悟り、幸取=さとり)を得ないで死んでいき、低い欲望を持った儘の浮遊霊となり、同じような人生を送っている人間に憑依してその人間に対する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信を妨害し遮断しているものでもある。

(これに関しては著書の<1> よい発信のために のS会=紫光会での主護霊会でアタシの“主護霊”の立場から述べた“動きが取れない”という言い回しが理解しやすい)

 

 また、形骸の名誉、形骸の“美”を求める心(靈)は、経済の格差を増大させ、経済の格差そのものがテロや戦争を引き起こす重大な原因となっており、これに関してもすでに引用したローム太霊講話集の第十話が解りやすい。 

何といっても一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏うことになって、戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが、その支配霊の援助の下に相手国の首脳や国民を永遠に恨むのに対し、戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続けるのである

 

 この“一番困るのは戦争”という表記、これは、ローム太霊が恨みの連鎖の霊的干渉の最たるものとして伝えたのであり、短い時間でたくさんの悪霊を増やす結果を望んでいるのがどういった存在なのか、それについて多くの人に考えてほしい、という太霊の思惑を感じるものです。

 

 しかしながら、幼稚化した心(靈)はこういったことに気付かない、説明しても理解しえない、自分には関係ない、などと思う傾向がある。

 

 たった今の地球人が、人として考えなければならないことは、目前に迫っているアセンションに伴う醜い事象、これは自分たちの心(靈)の在り方を問うものであり、自分の心(靈)の在り方は、たとえ死んだとしても永遠にそれを自分に問わなけばならないものである。

 それゆえ、“神の咎め”として、幼稚化した人間がやってきたことの結果として、アセンションに伴う醜い事象を体験して苦しまねば、多くの人間が自省(胸の磁性“十”)し得ない、これについて考えていただきたいし、今、生きている間に自分の在り方を鑑みる、生き方を問う、自省(胸の磁性“十”)するならば、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結び付くことなのだ、ということを述べておきます。

 

 次回も恨みの連鎖の霊的干渉について述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その五” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を偶然と誤認する”

 先回の文末で述べたように、たった今、人間の幼稚化が台頭している。 その幼稚な心(靈)は、目前の事象に理由と根拠を求めない、あるいは“ほんとう”を求めないし見出すこともしないものである。 

 私事ながら、著書を出版して170人以上の方々から電話、メールで連絡をいただいた、あるいは直接ご来院いただきお会いしたりしましたが、そのほとんどの方々が恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、これについての理解が足らないか、あるいは読み飛ばしている=アタシの思想、考えと感応共振できるほど心(靈)が育っていない。 

 それでたった今、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は増え、益々はっきりとした現象となっています。 

 少し解り易い具体例を挙げれば、誰でもよいから殺したいという事件、アメリカの銃乱射事件などが理解しやすいが、この現象の裏側にある霊的干渉、どんな存在の憑依なのか、自分たちの“下”の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する存在とは…これに気付く人は情けないほど少ない。

 こういったことに気付かない心(靈)自体が、幼稚な心(靈)であると言え、上記事件など恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の事例にはちゃんとした理由と根拠があることをアタシは述べて来ていますが、これを理解しえないでアタシの文章をエンターテイメントだと思ってしまう、あるいはアタシが出版した目的、意図、これが金儲けとか著書を出版して誉めそやされたいとかという解釈をされてしまう、こういった実に情けない人が多いものである。

 

 本題に戻り、幼稚な心(靈)は先に述べた通り、物事、目前の事象などに、理由と根拠を求めないし、その実情を理解しうる素地もない、結果それは“ほんとう”を求めない、求める資質の無い心(靈)と換言出来得る。

 そして表題にある通り、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は、悪霊の憑依現象、悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、これを類推出来ない心(靈)は、上記事件を偶然の出来事であると片づけてしまうことが多い。

 しかしながら、不幸な死の事例、それは通り魔殺人であろうが、病気で死のうが、交通事故であろうが災害であろうが戦争だろうが…etc. あるいは先に例に挙げたように、誰でもよいから殺したい事件の被害者だろうが、銃乱射で命を落とす人だろうが、そこには必ずそこで死ぬべき理由があり、その人達はどんな因縁を背負っているのか、ということに考えが及ばないからこそ、それは偶然だ、と、思い込む傾向が強い。

 

 この“偶然”については、以前、読者会で取りあげたことがあります。 

 これに参加された読者の方々に対しアタシは総括を述べましたが、その要旨を以下にコピペさせてもらいます。

 

  書き込んでいただいた方全員が、平均的地球人にとって当たり前の概念であろう“偶然”という認識を持つこと自体が、自分にとって都合の良い思い方、勝手な考え、であると指摘していらっしゃいます。
 人間は、生きている間にさまざまな事象に遭遇する、様々な人間と出会う、これらすべてに自分に対しての教訓がある、何かを学ぶべきことがあるものですね。
 あるいは犯罪に巻き込まれてひどい目に遭う、極端な事例として殺されて地獄に行き、恨みの連鎖の霊的干渉の増大に手を貸す悪の霊団に加担して、それが終わってから、自省(胸の磁性“十”)の“行”をするケースもあるが、これは因縁を背負っている、という事例で、偶然ではありませんね。
 殺されるケースにおいても、因縁を贖う(あがなう)、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、その因縁の原因になっている霊的存在、先祖や、先祖と恨みつらみで連なっている霊的存在、これらの自省(胸の磁性“十”)にために子孫が殺される場合がある。
 いかなる事象においても、それを観た、体験した心(靈)は、必ず何かを学ぶ、学ぶことを避けたならば“神の咎め”としてひどい目に合わせることを“上”はさせるものでもある。
こういった認識を持つと、神と人間の関係ということに対しての理解が進んで行くものですね。
 “偶然”などという言葉は、低い段階における認識を表したものである、神と人間の関係を考えたことがない程度の低い心(靈)における認識である。 自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すなら、こんな低い認識を持ってはいけないし、進化をある程度果たした世界では、“偶然”という言葉も、その認識もない。
 また同様に、すべてが必然である、という認識に至ったならば、必要とか必然という言葉や認識もなくなることが考えられる、すべては当たり前であり、すべては必然であり、ずべてが自分たちの成長にとって必要である、という認識に至る、とも、思われますね。

 

引用終わり。

今回の記事を読んでいただいた方々には、自分が遭遇している、あるいは遭遇した一切の事象には理由と根拠があり、また、霊的干渉と無縁の事象など無いということを理解していただきたいものです。

 

次回も、恨みの連鎖の霊的干渉について述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その四” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “人間の幼稚化”

 あえて説明するまでもなく、恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こしているのは、人間や動物、その他自然霊など、を含め、その霊的存在の分類を問わず悪霊である(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈))。

 

 それで、悪霊がなぜ悪霊なのか、それは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持たない智性(神性)無き心(靈)であるからである。 

 悪霊の心(靈)、それは、動物や自然霊の悪霊などは、もともと自省(胸の磁性“十”)がないから自省しない、智性(神性)をあまり持っていない、そういった状態の進化過程であると言いうる。  

 人間の悪霊においては、人間は多少、自省(胸の磁性“十”)や智性(神性)という心(靈)の動きを持っていても、それを行使した考えや行動をしないものであるし、人間が生きているときに、自省(胸の磁性“十”)をしていない、智性(神性)を行使していない、そういった一生を送っているならばそれは、何かのきっかけ(具体的には恨みの連鎖の霊的干渉の現象化)で、簡単に悪霊になり得るものであるし、ほとんどの地球人が悪霊になり得る素地を持っているものである。

 

 この悪霊の心(靈)の動きは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の動きの、自我から“下”、本能、情動、功名心、自我、という心(靈)の動きしか持ちえないものである。

 

 またこういった心(靈)の動きしかないその心(靈)自体を、霊的成長度が低いのである、と著書やブログで定義づけておりますが、これに相対し、霊的成長度が高いならば、自分の考え(心(靈)の動き)や行動をしっかり“観察と認識”して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か判断することが出来、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性に向かおうとするものである。

 

 この“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性に向かおうとすること事態が、生命(生きる使命=存在理由)の存在の意味と意義である。

(これに関してはたった今“続”で解釈を行っている“日月神示地震の巻 が理解しやすい)

 

 その、生命の存在の意味と意義、これに関して古神道に伝わっている「“本津宮”(もとつみや)へ帰れ」について述べます。

 「“本津宮”(もとつみや)へ帰れ」これは祓いの言葉であり、“本津宮”(もとつみや)の“本”の意味合いは、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして小さい横棒━(よこぼう、水平磁場)は、その意味合いを強調する、これで構成された字が“本”であり、“津”は中心の意味合い、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で構成され、“呂”は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている、の意味合いがあります。

 これを簡単に説明するならば、生命(生きる使命=存在理由)の存在の意味と意義を自分自身がよく自覚し、自分自身をよく“観察と認識”して、自分自身の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を諌め、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性に立ち戻れ、自省(胸の磁性“十”)せよ、であり、悪霊が自省(胸の磁性“十”)したならばそれは悪霊ではなくなる、ということになり得ます。 

 

 ところが、悪霊自身が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から通信を受けたり、あるいは厳しい“行”をこなしている霊的成長度の高い存在に祓いの言葉を述べてもらいその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の感応によって自省(胸の磁性“十”)しようとしたとしても、悪の霊団の構成員となっていたならば、自分以外の悪霊の息吹を受けて感応するから、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が働きにくいものである。 

 またこれは“日月神示地震の巻の表記の“同気”“同類”“同気同一線上”、それは同程度の霊的成長度、そして、同じような心(靈)の動き、に相当するものであるから、悪の霊団においては、その“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)の動きは強固なものになり得るし、自省(胸の磁性“十”)や智性(神性)という心(靈)の動きから遠ざかるものである。 

 それでここまで述べたことは、悪霊と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団のことでしたが、たった今生きている人間にも該当することです。 

 それは、たった今の地球人の平均的霊的成長度の段階は自我の確立=固定化の段階であり、それだからこそ自分のことしか思わない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である。

 それゆえ、大概の地球人は、自分の幸福しか考えない薄っぺらい幸福感をもつ、そして毎日が楽しければよい、本能的欲求が満たされることを望む、そしてその達成のため、その裏にある(通貨としての)金に対する執着。

 よってほとんどの地球人は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかを容認している、真実=真固止、“ほんとう”を求めない、また、なぜ自分は生きているのか、何のために生きているのか、など、自分の存在の意味と意義など考えたことが無い、そんな心(靈)の動きに“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を鑑みることはなく、鑑みないから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信は素通りするし、本能中心の欲望の達成や低い功名心や自尊心を満足させることばかり考えているから自分の在り方を考えないし、これ事態が、程度の低い心(靈)の動きの悪霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するになるものである。 

 

 それで、著書やブログで述べている通り、日本を含む経済大国の人間は上記の心(靈)の動きしか持ちえず、自分の在り方を鑑みる素地が薄いと言いうる。

 この“自分の在り方を鑑みる素地が薄い”ならばそれは、先の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団と“同気”“同類”“同気同一線上”であり、たった今もどんどん増えつつある家畜の浮遊霊や飢餓貧困で死んでいる子供の浮遊霊などと感応しており、自省(胸の磁性“十”)と智性(神性)という心(靈)の行使が無くなり、どんどん幼稚になっていく。

 この、人間の幼稚化、これも悪魔の“思惑の顕現”=現象化の一つであり、どんどん悪魔の傀儡を増やす結果になっているということを指摘しておきます。

 

次回も、恨みの連鎖の霊的干渉について述べることとします。

 

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 “続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話で解釈を行っている“日月神示”これの地震の巻(二曰んの○キ)に“神律”という表記を昨年みつけました。

 “神律”のは“創造”の“主(ヌシ)”であり、は解字として、彳部(てきぶ)(ひとすじの道の意)と聿(ひとつの意、のり、おきての意)で構成され、の字そのものは、物事を行う基準となる掟、の意味合いですので、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”における法則、決まり、と解しております。 

 この“神律”を含んだ文言の意味するところ、われわれ“地上人”を含めた一切の生命(“創造”の“主(ヌシ)”と“創造”の“主(ヌシ)”以下の心(靈)すべて)は、f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転)により“大完成”に近づき、これ事態が一切の生命にとっての“歓喜”である。 この“大完成”に向かうため一切万象が在り、そこにおいてわれわれ“地上人”は、近々、霊的成長度の高低における区分けを体験しうるものである。 よってたった今、“地上人”は、何を思い何を為すべきか(自分の在り方、そして“善(神格化の方向性と智性の受信)”の思惑と、その顕現)、これをアタシの文章から読み取っていただき、一人でも多くの方々が次の事象の“創造”に参加されますことを、今年も切望しております。 

 児玉登

悪魔に対しての認識の無さ “その三” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して“創造”する事象

 今回は、著書やブログでさんざん述べてきている「恨みの連鎖の霊的干渉」これを引き起こす心(靈)の動きについて述べます。

 

 まず、先回述べた通り、多くの地球人は悪魔の傀儡になってしまっている。 

そしてその心(靈)の動きは、自分の損得や保身、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)由来の本能中心の欲望の達成しか考えないし、その考えが(通貨としての)金が欲しい、形骸の名誉が欲しい、形骸の名誉を守りたい、ということになり得る。

 またこれがたった今の地球上での一般常識や既成概念、また価値観の元となっており、それゆえ、保身や欲望の達成のための努力を自分にとって価値のあることと思いたがる傾向が強い。

 それだからこそ、自分が頑張って(元の気を張って)獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分、あるいは自分たちのためにしか使わない。

 それは、他者から何かを奪うために“力”を行使する、それゆえ、欺くとか騙すとか嘘をつく、ということをするものである。

 

 これが人間としてまっとうではないことは先回述べた通りであるが、先に述べた通りこれが普通、これが常識、既成概念、自分たちにとって当たり前の価値観であるのが、たった今の地球人の現状である。

 この当り前であると思ってしまうことが、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分のためにしか使わない、他者から奪うために“力”を行使する。 

 その“力”の行使による個人、あるいは小規模な犯罪(詐欺や窃盗など)は当然これに当たるが、“力”を持った集団が行っていることとして、今、どんどん馬脚を現しつつある政治、あるいは既成の宗教団体、これらと同類である経済界のトップ、そしてこれは日本の場合であるが形骸の儀式しか行っていない天皇制。

(本来の天皇は霊的成長度で選ばれるべきであるし、そうでなければ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、天意の受信をして、本来は多くの人の霊的成長のための詔(みことのり)を述べることが出来ない)

 また、こういった形骸の権威で構成されたのが国家であるし、相手から奪う心(靈)は自国の損得しか考えないようになり、その心(靈)の動きゆえ、大量殺人である戦争を行っており、また兵器産業で経済を潤すというバカげたことがまかり通っている。 その結果としての恨みの連鎖の霊的干渉、これを以前、読者会でテーマにしたことがありますので以下に紹介させていただきます。

 

  •  アメリカで多発する銃乱射には、どういった霊的干渉があるのか 

 これは、アメリカが戦争でたくさんの人間を殺してきたからであるといえます。 

 正確な数字はわかりませんが、戦後、アメリカが関与した数多くの戦争、朝鮮戦争パナマ侵略、ベトナム戦争ドミニカ共和国侵攻、カンボジア侵攻、ラオス侵攻、グレナダ侵攻、レバノン空爆リビア空爆ニカラグア侵攻、パナマ侵攻、イラク湾岸戦争ソマリア侵攻、ハイチ侵攻、スーダン空爆アフガニスタン空爆、侵攻、コソボ侵攻、リベリア侵攻、イラク侵攻、ハイチ侵攻、これらでアメリカが殺戮した人数の合計は1000万人以上で、その内の九割が民間人だそうです。

 当然のことながら殺された人間は殺した人間を恨む、これはローム太霊講話集の第十話が解りやすいです。

何といっても一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏うことになって、戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが、その支配霊の援助の下に相手国の首脳や国民を永遠に恨むのに対し、戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続けるのである。

 それで、銃乱射の実行犯が、自我の肥大をしていて、自我の確立=固定化の進化過程であるから憑依現象が起きやすい、という要因があり、当然のことながら自分に起きている憑依による殺意を自分で諌める心(靈)の発現が弱いからであるといえます。

 余談ですがもうひとつ、ローム太霊が述べた“その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う”こととして、戦争から帰還した人の自殺が増えていることもアメリカでは報道されており、これはアメリカだけではなく日本の自衛隊でも同じことが起きています。

 どんどん悪の霊団に加担する霊を増やしているということになります。

 

 もうひとつ、形骸の権威と経済しか考えない国家、経済大国は、飢餓貧困を起こしている(子供の浮遊霊の増加)。 経済大国の人間は自分たちだけ薄っぺらい幸福感に酔いしれ、金持ちの道楽みたいなブランド、宝石、ファッション、エンターテイメント、美食(家畜の浮遊霊の増加につながる)、美食の弊害を回避するための薬やサプリメント、そしてもっと(通貨としての)金の奴隷になっていくための投機、例を挙げるときりがないですが、こういったものに酔いしれている人間が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)してたった今の事象の“創造”をしている。

 

 それゆえたった今の地球は恨みの連鎖の霊的干渉で満ち満ちており、悪霊だらけの星になっている。

 その結果、本来、何百年も生きられるはずの地球人の寿命は短くなり、霊的干渉由来の病気は増え、悪霊の憑依由来の犯罪も増え、戦争の被害を受けた国は加害者である国を恨むから天災や事故も増える。 また家畜の浮遊霊の憑依現象主体のだれでもいいから殺したい、という犯罪もたった今どんどん増えつつある。

 

 この恨みの連鎖の霊的干渉、これが派生する理由と根拠としては、個人個人の心(靈)の動きにあり、先の自分の損得しか考えない、それゆえの“力”の行使、そして欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、その被害にあった者、その者の心(靈)から恨まれる。 

 あるいは殺されたら殺したいと思うものである(これは人間だけではなく家畜やペットなどの動物も含む)。

 それは、欺かれ騙されて、嘘をつかれ、そのうえ奪われて、あるいは殺されて、その相手に感謝するなどという心(靈)の動きの人間や動物はいないというしごく当たり前のことであるが、多くの地球人は悪魔の傀儡なので、自分のことしか考えない、他者の都合など考えない、あるいは考えても“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応してそれを無視する、そして自分のまっとうさ、など思わず、(通貨としての)金の奴隷、形骸の権威に酔う、ものである。

 こういった人間の行動、それは現実=現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現、心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性から外れており“善(神格化の方向性と智性の受信)”でもないので、いずれ“神の采配”として“神の咎め”を受ける、これ事態が欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをした結果、“正当な報酬”と言いうるし、これがまた、霊的成長度の高低における区分け、アセンションに伴う醜い事象である。

 

 次回も、「恨みの連鎖の霊的干渉」について述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その二” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になる心(靈)の動き

先回も引用した通り、ローム太霊はローム太霊講話集で

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

そして

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられます。 

そしてこの“神の気持”これを“自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい”これが人間として、在るべき心(靈)の動きであるとも、述べておられます。

 

 しかしながら、たった今のほとんどの地球人の霊的成長度の段階では、自分の損得や保身、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)由来の欲望の達成しか考えていない。 

 その考えは、(通貨としての)金が欲しい、形骸の名誉が欲しい、形骸の名誉を守りたい、本能由来の欲望を満たしたい(著書で述べた八戒(低い欲望に対する八つの戒め))ものである。

 また、保身や欲望の達成のための努力を自分にとって価値のあることと思いたがる低い功名心しか持ちえないものでもある。

 

 こういったことが自分たちの薄っぺらい価値観や幸福感になっており、それを達成したい、満たしたいからこそ、自分の心(靈)の中の良心を無視して、これはまっとうな事ではないと解っていながらも、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認するものである。 

それは他者を、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをして、自分が思うまっとうではないことをして自分の損得を考え、目先の利益を得ようとする、このこと事態が“自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい”とは真逆であると言いうるが、こういったことを真剣に考える霊的成長度の人間も非常に少ないのがたった今の世界の実情である。

 

 また、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをしていくならば、“神の咎め”があるが、その咎めを受けてすら自分の在り方を思わない人間が多い。

それは、自分はこれでよいのだ、これは自分にとって必要な事なのだから…などと自分の良心に言い訳をして自分の心(靈)の中の“神の心”を無視する。

 こういった心(靈)の動きは自我の肥大によることであり、その心(靈)の動きゆえに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となるものでもある。

 

 こういったこと事態が、神から遠ざかることとなる、あるいは、そんなことはやめておけ、という“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受けても、それを無視して、自分はこれでよいのだ、これを行って欲望を達成するべきなのだ、という“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応してそれを優先する心(靈)の動きとなる。

 

 人間の心(靈)の動きは、神に近いか、悪魔に近いか、この二つしかないものである。

 言い方を変えれば“上”か“下”か、そのどちらかでしかないものであり、たった今の自分が、そのどちらに近い心(靈)の動きをしているのか、これを自分で判断し方向性を決めるのが智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、どんなに霊的成長度が低い人間でも“一”=智性=1番目のオーラは観測され、それが、動物と違う点であることを著書でのべました。 だからこそ人間は動物と違い、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を理解することが出来得るものである。

この、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)所以の心(靈)の動きを無視して、上記、自分に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認して“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。

それは、自分の心(靈)の中の“神の心”、程度の低い地球人の場合は、良心、と換言すれば解り易いが、これを無視しているものであり、その心(靈)の動きは、すでに悪魔の傀儡となっているものである。

 

 その悪魔の傀儡が行っている、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、これををした結果、たった今の世界、この現津(あきつ)、観察され得る事象が、どうなっているのか、次回はこれを具体的に述べることとします。