現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “ここまでのまとめ”
先回の文末で
- “力”を得た自分はこれからどう在るべきか、“力”をどうやって行使するか、どういう使い方が正しいのか、また、これまで自分がやってきた“力”の行使は、先にも述べた通り、人間としてまっとうであったか、ということも考えるようになっていく。
- また、“力”を行使した自分、というものを自分が自分を振り返り、その際に“観察と認識”をしていくと、人間とはいったい何だろう…ということも考えるようになっていく。
- 「考えるようになっていく」事態が、日足(ひたり)の極性、精神性の強化であり、考えること事態が目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳の行使であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を強化し得るものである。 これが、左往右往の実相と言い得ることでもある。
- これまでの、“力”を求めて行使するという心(靈)の動きとは違う息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、息吹が違うゆえにそれに感応する霊的存在も違ってくるものである。 それは、その人間に対し、もっともっと“力”の使い方を考えさせ、“力”の行使に於いての、自分の在り方、振舞い方、ということを考えさせていくものであるし、人間の存在とは何か、という疑問を思わせ、自分自身が神の子であるということを少しずつ意識させていくものである。
ということを述べました。
上記箇条書きの最後の「自分自身が神の子であるということを少しずつ意識させていく」というのが、その人間を育てようとする神の目論見である。
この「神の目論見」通りに人間は育っていく、育っていかねばならないのである。
それゆえに人間は、どんな人間であっても、自分が望む何かを実現したいと思うものであり、そのために努力して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けて、“思惑の顕現”、望む何かを達成しよう、ということをする。
その“思惑の顕現”の過程に於いて、霊的成長度の低い者、まだまだ動物に近い人間は、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということをしっかり考えていない場合が多いのは、低いがゆえに当然である。
そこでここまで述べてきたように、先に述べたその“思惑の顕現”の過程に於いて、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをしていくものであり、そこに於ける自分の心(靈)の動きとその努力を、自分自身が“観察と認識”して、そしてその過程を観て自分は自分を振り返る、ということをして、自分の在り方を鑑みる過程に入っていくものである。
その「自分の在り方を鑑みる過程に入っていく」というのは、その人間が自分の“思惑の顕現”のため、精一杯エネルギーを贖い(あがない)、またその過程に於いて右往左往と左往右往を幾度となく繰り返し、そのたびに自省(胸の磁性“十”)をするものである。
こうして自分は、自分が今までどうで在ったのか、これからの自分はどう在るべきか、これらを思い、それを右往左往と左往右往のたびごとに強く思うものである。
この「思う」こと事態が、目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の刺激となり、また行使となり、心(靈)は育っていくものである。
そして「目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の刺激となり、また行使となり、心(靈)は育っていく」ということがあまり無い場合、いわゆる霊的成長度が低い場合に於いては、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)はその人間の心(靈)を育てようとしている通信を送っているのだが、その通信の振動とは感応することがあまり無くほとんど素通りするものである。
また“創造”の“主(ヌシ)”も、人間にこう在って欲しい、という通信を送っている。
それはローム太霊講話集の第二話
“何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”
第六話
“神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよい…中略…これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということに…以下略…”
この文言に、“創造”の“主(ヌシ)”が「人間にこう在って欲しい」というその思惑が読み取れるものである。
しかしながら先にも述べた通り“創造”の“主(ヌシ)”は人間に通信を送っているが、「目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳の刺激となり、また行使となり、心(靈)は育っていく」ということがあまり無い場合は、その通信の振動とは感応しえないで、素通りしていくものであり、それゆえに霊的成長度の低い者は“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということを自分にあてはめて考えたり、“善悪”を自分の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)の規範としないものであるのだが、これに相対し、心(靈)が育てば育つほど自分は“善(神格化の方向性と智性の受信)”とは、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”とは、ということを考えていくものである。
これ自体がまた、心(靈)が育った、神に近づいた、ということと同義である。
そこで表題の
“進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程”
とは、心(靈)が育ち、“創造”の“主(ヌシ)”の通信、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信、これらの振動が自分の心(靈)に止まり、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)する、ということになり得るのである。
そして、ある程度心(靈)が育っていくと、自分自身が思う自分の存在の意義は、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)は生きていくのに必要である、それゆえに“力”を付けてきたのだが、自分はその“力”をどう扱うべきか、どう行使するべきなのか、ということを考えていくものである。
その段階にまで至ると“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)としては、「“力”を付けてきた」というその段階より、もっと違う段階に入らせようとする。
それは“行”をさせてその人間の心(靈)をもっともっと育てようとする。
そのきっかけとなる事象に遭遇させていき、その人間は“力”を付けるという段階から、“行”をしていくようになっていくものである。
そうなっていくと、ますます“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということを考えていき、その考えは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応していくようになっていくものである。
こうやって人間は、どんな人間であっても、人間は神の子であるがゆえに、先に述べた「神の目論見」に適った人間となっていくものである、ということを述べておきます。