現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下” 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のプロセスを見出そうとする過程 “その四”
今回も
“「自分の“力”とは何か、何のために使うのか、ということを考えるようになっていく」という発想をさせる背後の霊的干渉は、当の本人の心(靈)を“上”に向かわせるものであり、またその段階よりももっと“力”を付けさせ、これまでとは違うことをさせようとする背後の霊的干渉であることが考えられる”
これについて述べていきます。
“その一”から“その三”で述べてきたのは、自分自身がある目的のために頑張った、だがそれは、単に“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けて活躍した事例である。
その際の霊的干渉に関しても具体例を挙げてきました。
そこで自分は努力して“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付け、活躍し、欲望の達成、自尊心と功名心を満たす、ということをした。
その際の頑張り、言い換えればエネルギーの贖い(あがない)、というものがあったには違いないが、“力”を付けて活躍したこと事態が、“善(神格化の方向性と智性の受信)”なのか、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”なのか。 これについて先回は、泥棒の“行”という解り易い一例を挙げました。
自分が頑張る、頑張って(元の気を張って)頑張って努力して“力”を付け、そして自分の思惑の顕現をする、目的の達成のために“力”を行使する。
しかしながらそれは一生において順調に続く事例は少ないのであり、“力”が使えなくなったり、“力”を使っても結果が出ない…などの時期が必ずやってくるものである。
この“時期”に到達すると、その本人は自省(胸の磁性“十”)の段階に入る。 自分は正しかったのか、まっとうであったか、これを考えるようになっていくものである。
これ自体、ローム太霊が伝えた右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をするということでもあり、これの右往左往に関しては、“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)という事例もある。
こうやってその本人は、“力”を得た自分はこれからどう在るべきか、“力”をどうやって行使するか、どういう使い方が正しいのか、また、これまで自分がやってきた“力”の行使は、先にも述べた通り、人間としてまっとうであったか、ということも考えるようになっていく。
また、“力”を行使した自分、というものを自分が自分を振り返り、その際に“観察と認識”をしていくと、人間とはいったい何だろう…ということも考えるようになっていく。
この「考えるようになっていく」事態が、日足(ひたり)の極性、精神性の強化であり、考えること事態が目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳の行使であり、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を強化し得るものである。 これが、左往右往の実相と言い得ることでもある。
そしてその心(靈)の動きは、これまでの、“力”を求めて行使するという心(靈)の動きとは違う息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、息吹が違うゆえにそれに感応する霊的存在も違ってくるものである。
それは、その人間に対し、もっともっと“力”の使い方を考えさせ、“力”の行使に於いての、自分の在り方、振舞い方、ということを考えさせていくものであるし、人間の存在とは何か、という疑問を思わせ、自分自身が神の子であるということを少しずつ意識させていくものである。
そうして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)という存在は、その人間を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に方向づけさせようと常にしているから、ケースバイケースではありますが、もっともっと“行”をさせる、また、もっともっと人間の在り方ということを考えさせ得る事象に遭遇させる、ということをさせ、信仰に入らせたり、“力”をもっと得るための“行”を知る事象に遭遇させたり…ということをするものである。
これらすべて、“ほんとう”の進化論
の後半で述べた、1番目、2番目、3番目のオーラの強化と拡大となっていくものであり、またこのことは本人の心(靈)が育っていくことと同義であると言いうる。
この話は次回に続きます。