太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その五” “一切万象”、すべての事象に道理を見出す

先回、「“真偽”に関しても、それを人に見出そうとさせるための試練と課題であり、これをこなしていかなければ人生において心(靈)は育たない」そして

 

  • 目前の事象に対し、それの“真偽”を考え判別する
  • “ほんとう”の価値、とはなにか、これを考えはじめる
  • これら事態が目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳の行使となり、その心(靈)の動きは息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、その息吹は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応となって“上”の通信を受け得る、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)し得る資質を獲得する
  • この“上”の通信を受け得る資質を獲得、これ事態が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)のステップである
  • 自らが“観察と認識”している事象、それは、自分の内面とか内側(心の中と感じている事)、そして自分の外側(外国と幽界)の事象に、真実を求めようとする

 

ということを述べました。

 

 そこで自分としては、自分の心(靈)の動き(内面とか内側(心の中と感じている事))と、それが外側(外国と幽界)に表れる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に、自分が思う真実=真固止を当てはめることをする、言いかえれば自分に課す。

 

こういったことをし始めること自体が過去の自分とは違う、それは過去の自分の心(靈)に相対し、心(靈)の動きが変容していくことを、自分自身で確認して認識しうるものである。

 また、真実=真固止を自分に当てはめることは、現津(あきつ)、観察され得る事象、言いかえれば現実において、自分がどう在るべきか自分で自分を観察することとなる。 これが般若心経の“観自在”の“ほんとう”の意味であることを著書で述べました。

 

 前後しますが、先に述べた「心(靈)の変容」、これは一体どういうことなのかを自分で考え始める。

それは、なぜ自分は真実=真固止を求め、それを自分に当てはめることをするようになるのか、その理由を考える。

そこで思い当たるのは、心(靈)が育つとは何か。

心(靈)が育っていくと自分はどうなっていくのか。

さらに自分と他者の相対的な比較として、自分は真実=真固止を当てはめた心(靈)の動きと行動を自分に課しているが、そうではない人間がたくさんいることをしっかり再認識する。 また先の「心(靈)の変容」を見出したなら、過去の自分は対して心(靈)が育っていなかったのではないか、と思い当たるものでもある。

 

上記のことを考えると、自分が“観察と認識”している事象、人間やこの世界は、規則正しく構成されているのではないか。この「規則正しい」に反しているなにかは、苦痛や苦悩を味わう結果となったり、崩壊したりする、それが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”ではないか。

 

これらを鑑みて“神の咎め”(自省させて進化(霊的成長)の方向性を示す)と“神の采配”というようなことを考え始める。

さらに“神の咎め”と“神の采配”があること自体が、この世界の道理ではないか、というようなことを考え始める。

 

また先の「心(靈)が育つ」とは、自分が真実=真固止を追い求め、それを自分に課すこと自体が神に近付くことになるのではないか、とも思い始める。

 

これら事態が、神の実在を認識しうるきっかけとなり得ることであり、神あっての自分、神の子である自分、神と自分の関係を真摯に考え始めるものである。

 

(当然のことながら、ただ漫然と生き、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)を行使している段階、ローム太霊講話集第二十一話の“親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主”、この段階の霊的成長度ではこれらのことを考えることが出来えない、考えうる資質がない、それは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応という要素も足りなさすぎである)

 

そのきっかけが、自分と自分以外、この自分以外というのは一切の生命、一切の生命とは“創造”の“主(ヌシ)”から悪魔、微生物から多種多様な生命、そして人間、などと言う分類に関わりなく、ということであり、また人間が生命だと思っていない(生命であると認識することが出来ていない)物質や、学者が発見してきた物理現象や物理の法則性などを含め、これら一切が現津(あきつ)、観察され得る事象、いわゆる現実におけることで、これらに道理(“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性))を見出しうる段階に至るものである。

 

この段階にまで至って、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とはどういうことか、これを求める心(靈)の動きをするのである、と言い得ます。