「現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)に於ける“上”と“下”」 このテーマを始めるに当たって
アタシの著書やブログを読んでおられる方は、地球上の人間の霊的成長度の高低ということをある程度理解しておられると思います。
いうまでもなく霊的成長度の高低とは、どれくらい神に近いか、どれくらい動物に近いか、あるいは悪魔に近いか、ということであるのですが、一般の方、また著書の読者の方に於いても、これらについてしっかり理解している、また、しっかり考えている人はとても少ない感があります。
それはこのブログに於いて、ここ迄に、
「霊的成長ということに対しての認識の無さ」
「神に対しての認識の無さ」
「悪魔に対しての認識の無さ」
「進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために」
を述べてきました。
しかしながら、これらがたった今の自分たちに当てはまることなのだという認識を持って読んでいる方がどれくらいいらっしゃるのか…それは、自分たちの日々の生活や人生、また毎日の現実に於いて、自分たちの霊的成長度の高低を当てはめて考えることが出来ていない。
それ以前に先に述べたことと重複しますが、霊的成長度の高低という見方が出来ていないし、その見識(物事を深く見通す、本質をとらえる、判断力を持つ、物事に対する確かな考え)も無い。
その見識の無さ、考えたこともないということ、それだからほとんどの人間はただただ普通の生活のためにしか生きていないものである。
またアタシの著書やブログを読んだ方であっても、自分の心(靈)や行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)や自分が観ている現実にこれを当てはめて考えることが出来ない人も多くいらっしゃる。
前後しますが、この「普通」というのが、一般常識、既成概念、という極めて狭い物の見方に囚われているものである。
さらに、自分を観るに当たっても、自分以外を観るに当たっても、現津(あきつ)、観察され得る事象を観るに当たっても、霊的成長度の高低の概念を当てはめていない場合が多く観られる感があるものである。
そこで、霊的成長度が平均的地球人の場合は、先に指摘した一般常識や既成概念に囚われたものの見方しかできないものであるが、これに相対し、ある程度平均的地球人より心(靈)が育った場合は、ものの観方も違う、考え方も違う、現津(あきつ)、観察され得る事象、現実、の捉え方(不確かな事、わかりにくい事などを自分の視野や知識の中におさめる)も違うものである。
この違い、これは平均的地球人には具体的な事柄で説明していかなければ、理解の糸口さえ見出すことが出来ない人間が大多数である。
また今後=アセンション後の事象、そこに於ける現実というのは、たった今の平均的地球人の一般常識や既成概念では理解しえない事柄がたくさんあり、当然のことながらたった今の一般常識や既成概念は当てはまらない事象である。
こういった事情があるから多くの人を次の段階にいざなうためには、一つ一つの事柄を霊的成長度の高低に於ける“観察と認識”に於いてわかりやすく説いていかねばならない。
この観点に於いて、次回からは表題通り
「現実(現津(あきつ)、観察され得る事象)における“上”と“下”」
これにおける具体的な事柄を述べていくこととします。