太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

悪魔に対しての認識の無さ “その一” 悪魔を認識しえない霊的成長度

 すでに「神に対する認識の無さ」で述べたことではありますが、ほとんどの人、平均的地球人は、神も認識しえない、同時に悪魔も認識しえない。 そんなものはあるのかないのか分らない、その実在に関して真剣に考えないか、考えたことが無い人が大多数。

 そして自分たちの人生に神や悪魔が関わっているなどとは思っていないものでもあるし、この世界、現津(あきつ)、観察され得る事象、現実に、神と悪魔の影響がある、ということを真剣に考えている人はごく少数、さらに神や悪魔を自分たちの利益のために都合よく利用している宗教関係者やそれに関わる権力者などもいる。

(“日月神示”表記の“役員づら”) 

 

 これらの理由として、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階である。 

 それゆえ自分の利益と損得しか考えない人間が多い。 

 また、神や悪魔を示す何か見ても、神や悪魔の実在を示すどんな事象に遭遇しても、自分にとって都合の良い解釈をしたりしてその意味を追求しない、あるいはそういったことですら自分の利益や損得、あるいは形骸の権威のために利用しているものまでいる。

 

 アタシの著書やブログを読んでいる人たちは、上記の人間の霊的成長度に対し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ということを思われる、しかしながらたった今の地球人の大半はこういった人間でしかない。

 

 それで、神の思惑としては、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、そのために“神の采配”、“神の咎め”があるものである。

 

 そして人間自身が、自分が思うまっとうな事柄に対し、頑張った人間に対し、“神の恩恵”があるのは“正当な報酬”として当然のこと。

 

 これに相対し、悪魔の思惑、人間を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させようとしない、人間を生物学的に虚弱にしている、恨みの連鎖の霊的干渉を増して悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)をふやし、天変地異や犯罪や病気をどんどん増やしている、などを、著書やブログで述べていますが、「悪魔の思惑」などという言葉を使うと、一笑に付す人が圧倒的多数でもある。

 

 その「一笑に付す」理由として、先に述べたようにたった今の地球人は自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをしているものであり、自分の利益と損得しか思わない、それしか考えていない、ありていに言えば自分のことしか分らない人間が多い、この世界が神の思惑通りになっていく、生命(生きる使命=存在理由)としての人間は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていくものである、などと思わない、こういったことを考えることが出来ない。

その神の思惑として、何回も引用しますがローム太霊はローム太霊講話集、第二話で

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

と説明しておられ、これに対しローム太霊は

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられます。

 しかしながら“自分のできる範囲でこの神の心を出せば”などということを実際に行っている人はごく少数である。 またローム太霊講話集の第二話を読んでもこの言葉の意味を理解している人はほとんどいない。

 

 また“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたい”に対し、アタシの著書やブログの文章を読んだ人でも、恨みの連鎖の霊的干渉の意味も理解しえないし、自分にとってそんなことは関係ないのだ、と思う人に幾人も遭遇しました。

 

  こんな思い方をする、悪魔の思惑を理解しようとしない、恨みの連鎖の霊的干渉を知識として知っても自分の在り方を考えないのは、その人達の心(靈)が悪魔に近いのであり、それは、悪魔は自分の思惑の達成のために他者の命や尊厳など無視する、結果それは究極の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と言いうるからである。

 またそれは、自分たちの心(靈)が神に近いか悪魔に近いかを判別しえない、自分の心(靈)を自分で観察して“上”の心(靈)か“下”の心(靈)かを判別できる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がない。

 だからこそその人達は、自分たちの心(靈)の中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認する、自分に対しての“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ちえない、その厳しさゆえの自分の在り方を思わない、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)、ということになりますが、こういった人たちの心(靈)はすでに悪魔の傀儡に近いと言い得ますし、悪魔の傀儡だからこそ悪魔の“思惑の顕現”=現象化を認識しえない傾向があるといえます。

(※ 傀儡とは、かいらい、くぐつ、操り人形、の意)

 

 それで、これからこのカテゴリーでは、たった今の世界、この事象に対しどんなふうに悪魔が働きかけ、その思惑を現象化させているのか、またそれと感応している悪魔の傀儡に成り下がっている大多数の人間の心(靈)の動きについて、具体的に述べていく事とします。