太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

神に対しての認識の無さ “その一” 神など無いと思う人

 先回も述べた通り、多くの人間は神と悪魔に対しての認識などほとんど無いに等しい。 それで今回から平均的地球人、ほとんどの地球人、これらの人々の神と悪魔に対する認識の低さ、これを指摘していきます。 

 まず、神などいない、霊など無い、死後の世界など無い、と思っているまったく霊的成長度の程度の低い心(靈)の持ち主、これは自分がどういった存在なのか、何のために生きているのか、自分が生きているということはどういうことなのか、などに対して、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)、本能由来の欲望、これが主体の考えと思想、そして低い功名心と自尊心、その価値観と既成概念でしか“観察と認識”していないと言い得ます。

 またこれはローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

に相当するものと言えます。 

 さらにその“仕方なしに生きて勝手なことをする”というのが、先に述べた“本能由来の欲望、これが主体の考えと思想、そして低い功名心と自尊心、その価値観と既成概念”であるといえ、こういった人間は自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方に対し、自分がどう在るべきか深く考えない、あるいは考えたことすらない、それは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)には相当しない、ただ自分の欲望の達成のために“力”を付けそれを行使することしか考えないものである。

 こういった人たちでも、その人の霊的成長度において“神の采配”があり、人間が自分の一生において神を意識する、神とは何かを考える、その機会は、自分がひどい目に遭った、頑張っても頑張っても結果が出ない、など、こういったこと事態が自分を育てている“神の采配”であるが、これこそ体験してから考えることであって、その体験が無ければ神と自分の関係など考えたことが無いのが一般の人たち=平均的地球人の霊的成長度における神に対する“観察と認識”であるといえます。

 

 また、唯物論者、無神論者、という方々がおられます。 これについてまずWikipediaの解説を紹介します。

 

唯物論(ゆいぶつろん、英: Materialism、独: Materialismus)とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。

無神論(むしんろん、英語: atheism、ラテン語: atheismus)は、世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である。

 

 唯物論の“観念や精神、心などの根底には物質がある”、この論理はアタシ的には到底理解しがたいし、心(靈)の発現については「“ほんとう”の進化論」で説いた通りであり、肉体の死には生体内電流の消失が観られることについて、唯物論では説明がつかないと思います。 

 また心(靈)の成り立ちについては“上”からの荷電粒子、これは神の一部である。 それは

  •  “創造”の“主(ヌシ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)
  •  普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射と認識されている現象)
  •  “上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意

であることを述べてきており、個々の心(靈)の霊的成長度の高低において自分の心(靈)に止め活動する心(靈)は、相違がある。

 そして振動の性質として、人間が電磁波を利用して情報のやり取りをするように、“上”から注がれる荷電粒子にも神の思惑や神の智慧や知識などがあり、これは通信でもある、これによって個々の心(靈)は成り立ち、それにより意識活動があり、その活動と言える“観察と認識”は、一切の生命の性質と言え、その性質は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の程度によって違うものであることも述べてきました。

 次に無神論の“世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え”の“神の存在、意思の介在などが存在しない”ならば、「“ほんとう”の進化論」で説いたことが当てはまらないし、どんな下等な生物にも、あるいは生物以外にも人間に相当する心(靈)があってしかるべき、ということになり得る。 よって生物を形状で分類したダーウィンの進化論すら説明できないということになり得ます。 

 そして“世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない”ならば、人間がなぜ“善悪”を思うのか、なぜ良心があるか、それは神に近いか悪魔に近いか、という概念や考えを持つのか、ということと同義であると思いますが、これについて説明できない、ということになります。 

 それで唯物論者であろうが無神論者であろうが、必ず神を求める時がやってくる、それはローム太霊講話集、第七話で、以下のように述べられています。 

幽体が完全に目覚めた時に先ず何を見ようとするかというと…中略…目に映るのは塵埃のない鮮明な景色ばかり…中略…所がそのうちに、段々自分の心の中にさまざまなものが見え出してきて…中略…その時にどうも変だな、自分は死んだのではないかと気が付く位になっていれば、余程確りした霊であるが、これが次に来る非常な寂しさの第一歩となるのである。それは人間がよく言う野原の中に裸(はだか)で立たされたと同じで、どこを向いても心に映るのは荒れ野ばかり、それが生まれたての赤子のような幽体にしみじみと感じられる。初めのうちは誰に縋(すが)るという気持も起こらないが、次第に寂しさが増すにつれて必ずこれまで信仰していたイエスとか釈迦とか観音とか不動とかを心の中で念ずるようになり、それが高(こう)じてくると最後には、どんなに立派な人間として生きてきた者でも、声の限りに叫び出す

 

 この事例は“これまで信仰していた”と前振りがありますが、唯物論者であろうが無神論者であろうが多少宗教などの知識があるから、“最後には、どんなに立派な人間として生きてきた者でも、声の限りに叫び出す”ということを体験させられる、これは生きていた間の自我の肥大ゆえの自分の考え、唯物論無神論は自分の示威行為であったことを自省(胸の磁性“十”)してから思うことである、少々意地悪な言い回しですがこのことをも指摘しておきます。

 

 次回は一般の信仰について、その程度の低さを指摘することとします。