自凝(おのころ)の強化 “その二十” “行”の意義について簡単に
ここまで、きわめて下等な生物から人間までの進化を述べてきた理由は、肉体の発達、それに伴う心(靈)の進化、そこには生体内電流の強化と変容、磁束の発現と“上”からの振動を取り込むためのローレンツ力の強化と変容がある。
これらを理解しておかないと、“行”の意義ということに進めない。
それで“行”そのものに対することとして、これ事態は人間における認識であり、当然のことながら人間以下の動物に分ることではありません。
それで今“人間における認識”ということを述べましたが、なぜ人間が“行”に対する認識を持つか、それは人間、人(日止、霊止)が地球上において他の生物より最も進化した、地球上で一番“上”の生物であり、一番進化したからこそ
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目上(めうえ)の脳の発達があったからこそ、神と自分、幸福の概念、善悪の認識と判別、など、発達した心(靈)所以の認識が出来上がったものであるし、重複しますがこれは目上(めうえ)の脳で発現する心(靈)、智性(神性)由来のことである。
この認識の中の“神と自分”、自分に対し神が“上”である、神に近付きたいと思う。
そして“幸福の概念”があるからこそ、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を欲し、行使して“力”を示したい、その“力”の行使において“善悪の認識と判別”をしていくものであるし、これ事態が神に近付くこと、“善(神格化の方向性と智性の受信)”のためのことである。
簡単にまとめましたが、こういった事柄があるからこそ、人は“行”を求め実践するものである。
ただし、霊的成長度の低い心(靈)を持つ人間の“行”の概念はとても低いものであったりもします(例えば、当たり前の感謝、それ自体を“行”と称するなど、こんな認識では厳しい“行”には入れないものと推察します)。
そして大多数の地球人の霊的成長度は低い、自分たちにとって都合の良いものばかりを選択する傾向がある、
よって一般の“行”の概念は、
“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))
らの行いにより、まったく程度の低いものになっている感があります。
本題に戻り、何のための“行”なのか、それは“行”によって進化=霊的成長、神格化に向かうこと、これを実践し、“行”によって心(靈)が育ち、高い“行”をするならば(“一”=智性=1番目のオーラの“行”をするならば)“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を理解し、認識(悟り、幸取=さとり)として、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす。
換言すれば、神の思惑を理解して認識としてこの事象の“創造”を果たしていく。
これ自体“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”した生命(生きる使命=存在理由)の役割、高い使命である。
この事を踏まえて次回から“上”と“下”の“行”について述べていくこととします。