太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

神に対しての認識の無さ “その三” 神業(技)という言葉

 表題通り、一般によく使われる、神業(かみわざ)あるいは神技、スポーツやエンターテイメントなどでよく使われる言葉ですが、今回はこれについて述べます。

 

 この言葉の意味合いは「常人にはなすことが出来ない高度な技や技術」であり、これの類義語として、至難の業(技)、離れわざ、名人芸、美技、達人の技、超絶技巧、超絶テクニック、名人芸、妙技、などがあります。

 

 なぜこういう形容が通用するのか、それは優れた“力”(“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む))の行使(顕現)に対しての評価であることが上記の言葉を観れば理解はでき得ます。 

 そして先に述べたようにスポーツやエンターテイメントにとどまることなく優れた“力”を発揮したならばそういった形容や評価をするものです。

 

 しかしこれはあくまでも“力”の顕現についての評価である。

そしてそれはローム太霊がローム太霊講話集で説いた“天狗道”における“”、これに対しての評価でしかないことに気付いている人はとても少ない。 

 

 それで“”(“力”の顕現)に関しては、ローム太霊が説かれているように

 

術者はその術を以て人間のために尽せばよい…中略…それが又天狗の本心とも言えるのであるから、ただ術を楽しんでいるだけでは天狗道の端くれというべき

ローム太霊講話集 第二十二話 天狗道と術)

 

この“天狗道の端くれ”は“ただ術を楽しんでいるだけ”であり、その具体例としては、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を金儲けや名声のために行使する、しかしこれが平均的地球人の価値観によることであり、それは“力”を得たならその行使の目的はこれが中心、先に例を挙げたスポーツやエンターテイメントなどで“力”を獲得してそれを行使するのは、これに相当するものであると言い得ます。

 

 それならば“力”の獲得と行使、それを人としてまっとうに行う

=“術者はその術を以て人間のために尽せばよい

(これは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)である)

この事を太霊は前置きされておられるし、そこにおいて人間は何をなすべきなのか、について以下のように述べておられます。

 

その道と術とを身に付けるように努力することが、人の上に立って神の命を自ら悟る境地への足がかりとなる

(第二十二話 天狗道と術)

 

 この“神の命”これを“自ら悟る境地”、これに至るには、自分がどういった“力”の行使をするべきか、についてしっかり考えるべきであり、その考える過程には右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、これを幾度となく体験して自分の在り方を鑑みるという霊的成長度に達しなければならないのですが、これは“ほんとう”の進化論で述べたことであり今回のテーマから少々逸脱しているので、本題に戻り、この右往左往の過程においてスポーツやエンターテイメントなどで活躍した人が人生の転機を迎える、極端なケースとしては没落した人生を送る例もある、これに関して太霊は以下のように述べておられます。

 

いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである

(第二十三話 術と呪文と真言

 

 この“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”、これはスポーツやエンターテイメントなどによく見受けられる霊的干渉と言えます。

 その結果として富と名声を得て自分の低い欲望(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の欲望)を達成したとしても“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い”、これは富と名声のための“力”の行使、ということを自分自身が強く思う

=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)した結果の、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、いわゆる霊的干渉であり、さらにそれは

 

正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである

(第三話 四方の祈り 東)

 

これに相当するのが、先の「没落した人生」に当たります。

 

 それで、表題の神業(技)というのは先にも述べた通り、ただ単に“力”の顕現に対する評価でしかなく、その実態は自分がエネルギーを贖って(あがなって)得た“力”、その行使と顕現には違いないが、そこに“その術を以て人間のために尽せばよい”という理念が無ければ、低い霊的干渉により“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ…以下略…”となることが多い、こういった事例に対し、神の業(技)、という形容を当てるのは不適切であり、この形容や言葉を行使する人間は、“力”の行使が神であるかのような錯覚をしているに過ぎないのであるし、神がなんなのか、についてしっかり考えたことが無い、あるいは考えることが出来うる霊的成長度に達していないといえます。

 

 それでは神の思惑とは、といえば、神が“どういうつもり”(思惑)なのかを示唆している以下の文言、

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う

(第二話 四方の祈り 東)

 

であり、それは


神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる

(第六話 四方の祈り 北)

 

この“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”これを“力”の行使、“力”の顕現、“”の使い方の指標とすべきであり、そうしていくならば先の“人の上に立って神の命を自ら悟る境地への足がかり”を得て“自分の使命を完成”ということになり得るのであり、それが

 

神が与えた人間本来の特権である神の命を実行するものとなってこそ真の人間
(第十九話 仙道 再び尸解仙と地仙)

 

この“人間本来の特権である神の命”これを“実行するもの”となって“真の人間”(まことのにんげん)を目指せ。

(“真固止の人間”(“上”の思惑(荷電粒子)を真に固く止める人(日止、霊止)))

これが、神が人間に求めることである、と言いうるものであることを述べておきます。