進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その一” 心(靈)の“上”“下”を知る
これまでも述べてきたことですが、人間と人間以外の生物の違い、これを観察して進化論が構築された。 そしてその進化論自体は、平均的地球人の“観察と認識”によるものなので、物質、いわゆる肉体を観ての分類でしかない。
このブログの「“ほんとう”の進化論」
をお読みになられた方は、進化は神に近づく過程であり、死んで肉体を捨てていくという生物のことわりがあるが故に、進化の本質は心(靈)が育つことである。
このことをある程度理解していらっしゃると思います。
そして心(靈)が育つ過程は、微生物から始まっており、その途中を大幅に省いて、人間においては智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現したことを述べました。
また、著書の<3>で心(靈)の構造は、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、という分類が出来得ることを述べました。
この、心(靈)の動きの分類自体を行うことが出来得るのは、人間だけである。
それは動物にはない心(靈)、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)があるからである。
よって人間以下の動物に、このことは理解できない。
それ以前に人間以下の動物は、(事象を分類するための)言葉がない、神の概念がない、自分がどう生きるべきか、なんてことを考えることが出来ない、幸福の概念もない、善悪の認識と判別ができない、これらは智性(神性)由来のことであるがゆえに、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の低い動物は神に近くないといえる。
これを換言すれば、霊的成長度、どれくらい神に近いのかの度合い、これによることは“上”の心(靈)から“下”の心(靈)をみると分類は出来得るということであり、これも智性(神性)を持った人間が、智性(神性)を発揮して行う“観察と認識”によることといいえます。
ならば智性(神性)を持った人間は、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解したならば、自分はどう生きるべきか考える、こういったことが出来うるものである。
そしてこのこと自体が人間に課せられた命題であるのですが、これを考えることが出来る出来ないはその人の霊的成長度にもよる、ということも言え、それはまだ大半の地球人が智性(神性)を行使した思索が出来ない、何度も引用したローム太霊講話集の第二十一話の、
“親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主”
これに相当する人間が大多数である。
次回からは、上記の平均的地球人のことはおいといて、自分はどうしたら神に近づいていくことが出来るか、これを述べていくこととさせてもらいます。