太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

悪魔に対しての認識の無さ “その十四” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間、自我の脆弱な心(靈)は、生き死ににかかわらず自省(胸の磁性“十”)の“行”をしなければならない”

 自我が脆弱であると、自分のことしかわからない、自分を守ることしか考えない、自分の損得しか頭にない、当然のことながら、他者のことを思いやるとか、自分と他者というバランスなど考えない。 また、正しい、間違っている、あるいは“善(神格化の方向性と智性の受信)”“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を規範として自分の心(靈)の動きを見出そうとしないし、律することもできない。

 そして“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)がその人の霊的成長や生き方の指針として課した試練や課題、それから逃げる、あるいはごまかす、などの心(靈)の動きをする。

 

 ここまで、こういったことを指摘してきました。

 

 それで、ローム太霊講話集の第十話で太霊は以下のように述べておられます。

人間はどのみち肉体を捨てなければならない…中略…幽体が完成すると自由行動が許され、先ず寂しい荒野の中に独りぽつねんと立たされるのである…中略…自分が肉体を持って生きてきた生涯の幻影(まぼろし)が走馬灯のように次々と現われて、あれは悪かったこれは善かったというふうに、自分の善悪の業(ごう)がしみじみと悟らされる…中略…そのうちに段々善い方のことは頭に浮かばなくなり悪い方のことばかりが思い出されてきて、終(つい)には悔恨の涙に咽ぶ…中略…中でも一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと


 この“一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと”。

 なぜ“人を欺(あざむ)いたこと”をするのか。 それは、その人の自我が脆弱であり、自分の立場を守りたい、人に自分の悪いところを指摘されたくない、だから嘘をついてごまかしたりもする、また、形骸の地位にしがみつく、あるいは自分の利益を守りたい、もっと利益を得たい、などという損得中心、自己中心の考えしか持っていない……など、具体例を挙げればきりがないのですが、すべてこれは我が身可愛さ、保身、という心(靈)が台頭した心(靈)の動き、それ所以のことである。

 

 そして同じく第十話で、
同じ欺瞞(ぎまん)でも他人に見破られた場合はよいが、それが成功して名声を博したり巨富を積んだりして一生を終ったということになると、それが自分の心の癌(がん)となって、それを取り除くためには人間の貧困者や業病者に対してあらゆる援助をする役目を仰せ付かる

と述べられています。

 

 これは何のために“貧困者や業病者に対してあらゆる援助をする役目を仰せ付かる”のか、それは“自分の心の癌(がん)”を“取り除くため”であると述べられています。

 この“役目を仰せ付かる”、このために自分が頑張る、その時の心境は先の“一番幽体にこたえるのは人を欺(あざむ)いたこと”、これを悔やむ、自省(胸の磁性“十”)する、ということであり、それをしないと、自分の非を認めやってきたことが悪だと認識しないと“心の癌(がん)となって、それを取り除く”ことが出来えないのであり、自省(胸の磁性“十”)の出来ていないままの心(靈)であるならば、それは悪霊になり、悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)に加担することとなる。

 

 そして前後しますが“他人に見破られた場合はよい”というのは、自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を他人に批判される、これを機に自省(胸の磁性“十”)するチャンスがあたえられるからでもあるし、生きている間にこれを行っておくと、自省(胸の磁性“十”)出来ていない心(靈)よりも、死んでから先に進むことができるからである。

 

 著書でも“続”でも自省(胸の磁性“十”)の“行”について幾度も述べておりますが、自我が強化されるためには、脆弱な自我が、まず、いびつな心(靈)の動きである自我の肥大をする、それはここまで述べてきた通り、自分のことしかわからない、自分を示したい(示威行為)、自分の損得しか思わない、よって金や物に執着する、形骸の名誉を得ようとする。

これらのことをして、その結果、人生で失敗をするものである。

右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする)

 

 それで、この段階から“上”の心(靈)の成長は、先に述べた通り自分の非を認める、自分がやってきたことが“悪(心の動きの本能化と低振動化)”であることをしっかり認識する、その際の心(靈)の動きが、自分を省みることであり、自我より“上”の心(靈)である“慈悲(いつくしむ、かなしむ、心(靈)が(非)いたむ)”“慈愛(いつくしみ、いつくしむ)”が発現していくものであり、またそれは自分に対する“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”となって、自分の低い心(靈)を諫め、律することができるようになるが、これが自我の強化につながり、強化された自我は、自己にも他者にも“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を認めず、“絶対の善”を顕現しようとする心(靈)の動きとなっていくものである。

 これが強化された自我の一側面であることを述べておきますし、先に述べた通り、本来は生きている間にこれを行うべきであることを付け加えておきます。