太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

悪魔に対しての認識の無さ “その十” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間の“美”の概念、“美白”の弊害 ”

 表題の「美白」、いうまでもなくこれは先回取り上げた“美容バカ”の価値観です。

 

 戦後、大手化粧品会社や製薬会社、サプリメント関連の企業などが、頭の悪い人間に刷り込んだこととして、日光に当たってはいけない、美容の敵である、などを強調した。 

 これは自分たちの利益のために(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心の動き)こういった情報を針小棒大に流布したのであるが、“幼稚化した人間”は自分たちの外側(外国と幽界)の事象の美を追い求めるがゆえにこのことが分からない。 よってその真偽を確かめようともしないものである。

 私的には、戦後七十年以上がたち多くの人たちに太陽に当たらない弊害が現象化していると思えます。 

その現象化としてまず肉体に起きていること.それは、

 

  • 骨粗しょう症の増加(骨の量(骨量)が減って骨が弱くなり、骨折しやすくなる病気)(最近特に感じるのは、四十代ごろ以降からの女性の骨折が多くなっている)
  • くる病の増加(くる病(佝僂病、痀瘻病)とは、ビタミンD欠乏や代謝異常により生じる骨の石灰化障害である。 典型的な病態は、乳幼児の骨格異常で、小児期の病態を「くる病」、骨端線閉鎖が完了した後の病態を「骨軟化症」と呼び区別する)(Wikipediaから引用)
  • 免疫力の低下(骨がダメになると免疫に関する骨髄もダメになる。 免疫細胞は骨髄中の造血幹細胞からつくられる)
  • 免疫力の低下によるアレルギー疾患(アレルギー性鼻炎、気管支ぜん息、じんましん・アトピー性皮膚炎、アレルギー性結膜炎、食物アレルギー、アナフィラキシー 即時型、自己免疫性容血性貧血、血小板減少症、顆粒球減少症、新生児容血性黄疸、血清病、過敏性肺炎、ループス腎炎(慢性糸球体腎炎)、全身性エリテマトーデスなど)の増加

 

 分かりやすい例をいくつか列挙しました。 こういったことは医学でも言われ始めていることです。

 

 しかしながらこれは肉体への影響であって、肉体しか観ていない学者の観点でしかない。

 

 アタシが述べたいのは、“ほんとう”の進化論 で述べたように、進化は霊的成長、神格化に向かうことである。肉体というのは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を止めて、心(靈)を進化させていくためのものである。 それがまた、“現界”で生きている人間が、肉体と心(靈)を有している理由でもある。

 

 また、なぜ古神道で“日止、霊止”、太陽を止める、霊を止める、という表記を使っているのか。 

 それは“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、あるいは“天津御空(あまつみそら)”、“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を含んだ荷電粒子、これを止める、その意味合いのある表記である。

 

 それで“美容バカ”の薄っぺらい認識による既成概念により、戦後七十年以上がたち、何世代にわたって太陽を避けた結果、たった今、心(靈)が育っていない、目下の心(靈)の動き中心の人間が増えている。

 この目下(めした)の心(靈)中心になる理由として、先の“上”からの振動、これはすべての生命に注がれ送り贈られているものですが、このうちの動物が止められる振動は人間も止めることが出来る、しかし人間が人間の心(靈)を育てるための振動、これが素通りするものである、その一因として骨がダメになっているからでもある。

 ちなみにアタシのパソコンの単語用例登録には、美白(骨の結晶化に結び付かない価値観)と登録してあります。 

 人間が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を高めていく“行”は目上(めうえ)の脳で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止め、生体内電流で骨の結晶化をする(これが“行”の意義である)、そこに秘訣があることを未刊行の著書<6><7>で述べております。

 

 また、幼稚化した人間は、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))で発現する心(靈)を行使しないから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)しえない。

 よって目下(めした)(大脳旧皮質と古皮質)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の行使しかないので、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には、それ相応の霊的干渉しかないものである。

 それは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)でしかないということであり、これがまた恨みの連鎖の霊的干渉の増大の大きな要因となっている。

 

 具体的に述べれば、その低い霊的干渉は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きしかない状態に近いので、他者のことを思わない、感知しない、自分には関係ない、あるいは情動中心の心(靈)なので短絡的で自分の低い感情を抑制しえない。

 

(ことに近年増加傾向にある稚拙で短絡的、あるいは無責任な犯罪は、こういった霊的干渉の影響が大きい) 

 

 そしてそれは、本能、情動、功名心、自我、という心(靈)の動き中心なので、本能由来の欲望(飲む(酒)うつ(賭博)買う(性的なこと)とか、楽しいことしかしない(低い情動)、とか、(通貨としての)金に執着する、とか、ディスプレイ(動物の発情行動)のための形骸の美を追い求める(低い功名心と自尊心)、とかになり得る。

 

 また、今現在どんどん増えつつある、うつ病自閉症アスペルガー症候群、広汎性発達障害ADHD(注意欠陥・多動性障害)、学習障害(LD)(知的発達に遅れがないものの、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算・推論する」能力に困難が生じる発達障害)などは、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)の感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、子供の浮遊霊や動物霊の影響が大きい。

 

(子供の浮遊霊は、大人になる過程を体験していかねばならないので、性的なことに興味を持ったり、タバコを吸ってみたいと思ったり酒を飲みたいと思ったりする。 それはまた心(靈)が子供でしかないので、自分を律することが出来えない。 また、飢餓貧困で死んだ子供の霊は(通貨としての)金やファッションやブランドや美食などにあこがれ体験したがる、あるいは病気で死んだ場合は薬やサプリメントにあこがれ執着する)

 

(動物霊は、当然のことながら智性(神性)なき心(靈)なので、他者のことは考えない、自分さえよければよい、縄張り意識(進化程度の低い心、自我の確立=固定化の進化の段階の地球人の認識)が強い、発情期が来ると本能的に交尾したがる。 また人間を羨ましいと思い、さらに恨んでねたんでいる場合が多いので、(通貨としての)金に執着したり、きれいな金とか汚い金とかの区別もない=“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)が理解できない。 また食用にされた家畜の動物霊は、人間を陥れる霊団(ローム太霊が述べた概念)の一員となり、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化のために、常に息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)しているものでもある)

 

 上記の事柄、これ等が“幼稚化した心(靈)”の現状であり、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の“魔”=マーラ(魔羅)の“思惑の顕現”=現象化である。

重複するがそれは、人間の幼稚化であり、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳を行使させないで、智性(神性)無き心(靈)として人間そのものを動物化させている。 

 ますます人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を望まない存在の思惑どおりになっていると言いえます。

悪魔に対しての認識の無さ “その九” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間の持つ価値観と既成概念”

 表題にある「幼稚化した人間」は、何度も引用している“動物的なあたまの持ち主”(ローム太霊講話集第二十一話)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”でもあり、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが中心の人でもあり、その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階であるからこそ、自我の肥大した心(靈)の動きをしているものである。

 そして、たった今の地球人の大半がこの段階の霊的成長度でしかない。

 また「この段階の霊的成長度」における既成概念

(客観的に社会的に認められている考え方のこと、あるいは、広く社会で認められ、通用している概念)

は、程度の低い幸福感に由来するものが多い。

 ちなみに幸福の意味は、著書でも述べましたし、以下の画像の意味合いがあります。

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 画像の意味を理解された方は、生きている間にたくさんの体験をしてその体験から自分の認識(悟り、幸取=さとり)を高め、その認識由来の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、それは目上(めうえ)の脳の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)由来の息吹、それが“畐”、であり、“ほんとう”の幸福とはそういった意味合いがあることを解っていただけると思います。

 

 話を戻し、程度の低い幸福感は、自我の肥大由来の低い功名心に由来することが多く、それは、本能に由来する欲望が満たされればよい(食欲、性欲など)、あるいは物欲、あるいは形骸の“美”の概念の賛美など、これに関しては著書の<4><5>を中心に述べてきました。

 

 これら、自分たちの低い功名心を煽り、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出させないのが、悪魔の思惑、人の霊的成長を望まない存在の思惑であり、多くの人間がこの“悪魔のささやき”(“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の影響を受けているが、本人たちには、その自覚がほとんど無いものであり、自覚がない理由はその心(靈)が智性(神性)無き心(靈)であるから、物事に“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)や“ほんとう”の“美”と“醜”、そして“真偽”を見出すことをしない。

 

 あるいは多少の智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)があっても、先に述べた“悪魔のささやき”により、目上(めうえ)の脳を行使させない思惑を受信しているからであり、目先の快楽、低い欲望の達成、あるいは毎日が楽しければよい、それだから“神の采配”としての試練を避け、苦痛や苦悩はまっぴら御免と思う。

 それは、本能に由来する欲求を満たしたい。

 例を挙げれば、そのために、自己制限が必要な病気であっても食いたいものを食い酒が飲みたければ飲むという程度の低い人間は多く、自己制限したくないからインチキサプリメントに頼ったりする、あるいは、性欲を満たしたいがため自分の在り方を考えず不倫が横行したり性犯罪が多発したりもするものである。

 

 また、日本やアメリカなど経済大国に見られる傾向として、沢山の金を儲けて物欲を満たす、生きていくのに必要でないものをたくさん集め、優越感に浸りたい。 それは美術品であったり高価な車であったり…例を挙げるまでもないですが、そんなものを集めても進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結び付くことはないし、こういった人間が経済を動かしているから開発途上国の飢餓貧困が増加して子供の浮遊霊が増え、その霊的干渉が益々幼稚化した人間を増やすという実情がある。

 またブランド、ファッション、宝石、それは“ほんとう”の“美”ではない、こういったものを“美”と認識して喜んで低い功名心を満足させているのは、心(靈)が醜いのであり、“ほんとう”の“美”は行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)で示すものであることを述べましたが、たった今は、物欲バカ、美容バカ、ファッションバカ、ブランド品バカ、装飾品バカ…悪口になりましたが、こういった人間が多すぎる。

 ちなみに、こういった事柄は、飢餓貧困で死んだ子供の浮遊霊の憑依、幼稚化した心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)との感応共振の影響が強いことを著書で述べております。

 

 また先々回に述べたことと重複するが、人の霊的成長の指針となる筈の宗教を腐らせ金儲けの道具とし、形骸の権威を示すために利用して人殺しまでしている。

 また「宗教とはそんなものなのだ」と、これを容認している人間は多く、こういった人間は神や仏、あるいは天皇を言葉でしか知らないものである。 これに関してもっとひどい場合、自分が稼いだ汚い金を腐った宗教に貢いで、「自分は徳を積んだ」と公言する既成宗教ご利益バカもいる。 そのご利益バカは、インチキ霊能者やインチキ占いやインチキスピリチュアルなどにも、自分に都合の良いご利益を求めて、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見て雰囲気に酔うバカとなるし、これらが先回の“役員づら”の手法に乗せられている人間である。

 

 こういった人間に、進化は霊的成長、神格化に向かうことである、自分たちと神の関係は“創造”の“主(ヌシ)”と被造物であり、“創造”の“主(ヌシ)”は一切の生命の神格化を目論んでいる、現津(あきつ)、観察され得る事象とは、“創造”の“主(ヌシ)”を含む一切の生命が息吹く振動の受信により、現実として個の心(靈)の中に投影されたものを“観察と認識”しているのが現実である、などの話が到底理解できるはずもなく、まず、自分の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、これに“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)ということをあてはめて、“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)、そのために“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをさせるものである。 これは“神の采配”であり、“上”が課した試練を体験させる、右往左往は砌(みぎり)の極性(事象への顕現)であり、程度の低い人間は自分が観察しうる事象に(現実に)、低い幸福感由来の欲望の達成を望み、そのために努力して金の奴隷になるが、そんなことをいつまでも“上”は許可しないし、それは“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付ける過程と言いうるが、“力”の行使という要素を認識させるために=日足(ひたり)の極性を得た心(靈)とする。

 これが生きている間に行うべく、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)における最初のステップである。

 

 それで、アタシがこういった文章を作り続けているのは、一人でも多くの方が今後=アセンション後の事象に移行しうる心(靈)の資質を獲得していただきたい…のですが、たった今は先に述べた〇〇バカが多すぎである。

 また“ほんとう”を見いだせない〇〇バカを増やすのが悪魔の思惑である。

 よって、まず自分たちが〇〇バカであることを認め、それから自分がどう在るべきか考えていただきたい。

 そして今回、ここまで述べた事柄、こういったことから理解をしていかなければ、今後=アセンション後に移行しうる心(靈)の資質は得られない、ということを、あえて述べておきます。

 

悪魔に対しての認識の無さ “その八” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は“役員づら”の手法に乗せられている”

 表題にある“役員づら”は、“日月神示”に登場する表記です。 

 その意味として、まず“役員”の意は、

「会社の業務執行および監督を行う幹部職員、 経営者や上位管理職」

であり、これはアセンション、霊的成長度における区分け、これを執行し監督するリーダー的な使命を持つ霊的成長度の高い心(靈)、その資質の意があると思え、その資質を持った=“上”が認めた霊的成長度の人間を、“日月神示”では“役員”と呼称しているのだ、と解釈しております。

 

 それでは“役員づら”とはなにか。

面(つら)の意味合いは、

…のような顔をしている、…のようなようすである、…を騙る(かたる)(うまいことを言って人をだます、騙して金品を奪い取る)、

この意があり、先に述べた“役員”を騙って多くの人間をアセンションに導かない、しかも金品まで奪い取る、という意味合いとなるので、アタシのパソコンの単語用例登録には、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち…それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))と登録してあります。

 

 著書で述べたように、これからすべての地球人が体験するアセンションと認識され得る事象は、神の計画であり、その実情は、霊的成長度の高低における区分けである。

 その区分けのために、多くの人間が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の意味と、霊的成長度ということを知らなければならない。

 また自分たちが霊的に高いか低いか分らなければならない。

 その高い低いは具体的にどういったことなのか理解しなければならない。

 これに付随することとして霊的成長度の低い人間の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、あるいは少し“上”に成長した人間の行動、これが理解できなければならない。

 

 しかしながら、個々の心(靈)の成長を説いた宗教は、先回も述べた通り腐りきっている。 

 さらに既成宗教では、“慈悲”と“慈愛”、汝の隣人を愛せよ、弥勒の世、最後の審判、など、アセンションの指標となる教訓を“上”が示しているが、これもしっかり説かれていない。

 

 また近年、霊媒による物理現象、ローム太霊の文言や、岡本天明の自動書記による“日月神示”、さらに霊的成長度が地球人より高い宇宙人や宇宙的存在のメッセージも、“上”の計画として地球人に下された。 

 これはアセンションの時期

(時間の進行と宇宙の進行は神のプログラムであり、それを人(日止、霊止)の心(靈)が認識したなら、時期になり、それは電磁波の吸収であるからこそ、磁気でもある)

が近いからであるからと言えるのだが、それら文言に対し自分たちの都合の良い解釈をして、だれにでも分りそうな言葉を一部を強調してご利益めいたことを説いて出版物を売る、セミナーなどを開くなど、単なる商売に成り下がっているものが多数見受けられる。 

 その功罪としては、こういった事柄を一般にはエンターテイメントとして扱われている傾向があり、その極めて重要な内容は、程度の低い人間の商売により捻じ曲げられて流布されているという現状がある。

 

 こういった“役員づら”の手法、これの真偽を見いだせる人間があまりにも少ない。

 それは、自分は何のために生きているか、自分とは何か、自分の人生とは何か、神とは何か、などを真摯に考えることが出来るほど目上(めうえ)の脳を行使していない。

また、そういった事柄を真摯に考えるという段階に至るほど“上”が試練を与えていない(右往左往から左往右往ということが出来ていない)。

それはまだ動物から少し進化した程度の幼稚な心(靈)であるケースが多い、あるいは多少考える素地を持っていても、“役員づら”の手法により甘い言葉の方を信じたがる。

 

 これらは単に霊的成長度が低い、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)の動きしか持っていないから、ありがたそうな言葉に酔うだけ、また、ご利益しか求めない心(靈)があるから、苦痛や苦悩を避けて“役員づら”の程度の低い解釈や甘い(亜、魔、出ずる、泉)言葉に乗せられ、アセンションの意味と意義を真摯に考えない。

 それだからこそ、“役員づら”、“役員”を騙り商売をしたり自分の低い功名心を満たしたりする人間は、結果としてアセンションに移行する資質を持つ人間をダメにする、よってそれは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)であると言いうる。

 

 それで、次の段階、今と違う霊的成長度の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)による事象の“創造”、これがアセンション後の現実、ではあるが、これに参加されたい、と、これを読んでおられるご自身が思われるならば、自分自身の霊的成長度が“日月神示”の“ケダモノ”、“われよし”であるだろうか。

 あるいはローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに該当するか。

 自分の心(靈)をよく“観察と認識”しておかねばならない。

 

 それで、今後=アセンション後の現実の指標たることとしてひとつ例を挙げれば、ローム太霊講話集第二話の

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち…中略…神の気持ちは人間の心の中にもありながら…中略…自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

これを自分の在り方とする。

 

 以上、“日月神示”とローム太霊の言葉からきわめて解りやすい事例だけピックアップしましたが、常に自分の心(靈)の動きを自分自身が“観察と認識”して、これは“上”だろうか、“下”だろうか、自己観察をする、その自己観察(“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”)は目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の行使につながる。

 そして平均的地球人が動物とは違い、少しだけ持ち始めた智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使したならば、“役員づら”の手法は偽物であり、“上”の意図とは違うものであることが判る筈である。

 その上で自分は“ケダモノ”“われよし”“動物的なあたま”よりも“上”の心(靈)の発現と行使、自分のまっとうさ、これを求め、現実=この事象に顕現する、そうするならば“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応が進むものであり、さらに智性(神性)は増していくものであることを、今回のテーマから派生することとして、あえて述べておきます。

 

悪魔に対しての認識の無さ “その七” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は宗教を腐らせ悪霊を増やしている”

宗教は、その宗教の開祖(仏陀、キリスト、マホメットなど)に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が影響(“上”の霊的干渉)してできた。

 

(ただし、日本の神道に関しては開祖という存在は見当たらず、惟神(神でおわしますまま、神の御心(みこころ)のまま(であること)という概念があります。 これに関してアタシ的な言葉の使い方としては、神の思惑に沿った存在の在り方を(生死を問わず永遠に)鑑みること。 よってこの惟神、これも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信であることは明白です)

 

その影響とは、通信を受けたり、苦難の多い人生を体験させて認識(悟り、幸取=さとり)を得させたり、あるいは直接の憑依で“上”の思惑を語ることをさせた。

 

そしてその開祖は、人間の在り方や霊的成長について伝え、それを知った人民は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す。

また、幼稚な心(靈)のまま死んでしまった、さまよっている霊(心)の霊的成長のための祓い

(これは悪霊を除くと解釈されがちですが、その悪霊を自省(胸の磁性“十”)させる、自省(胸の磁性“十”)した心(靈)は悪霊ではなくなる、これが神道に伝わる“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、の意味合いです)

や、供養

(これも間違った概念が伝わっている感がありますが、これは向うの事象に移行した心(靈)の霊的成長を願い、その霊的成長の援護としてお経や真言や呪文や祝詞などがある)

を教えた。

 

なぜ祓いや供養を“上”は教えたのか、それは恨みの連鎖の霊的干渉の軽減、あるいはその消失、のためという意味合いもあるのですが、たった今こういったことはただの儀式にすぎず、あるいは金儲けの道具にしかなっていない。

そして実際には、今の祓いや供養は悪霊に対して何の効力もないに等しい。

それは、これに携わる宗教関係者などが霊的成長の為の“行”を行なっていない、霊的成長度の高い人間が祓いや供養を行うならば、その影響

(霊的成長度の高いものの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、その息吹が与える影響は、高い霊的成長度のそれは霊が荷電粒子の回転であるがゆえに電圧、電流という要素があるがゆえ、影響を与えうるものである)

は、悪霊を自省(胸の磁性“十”)させ得る、そういった影響を与えうるものであるが、悪霊とほとんど同等の霊的成長度(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈))である今の宗教関係者(神職、僧侶、神父、形骸に成り果てた天皇制に携わる人間)の多くは、祓いや供養を何のために行うのか考えたことすらない者が多く、その重要性も知り得ない。  

そしてそれらは当然のことながら自身の霊的成長の為の“行”も行わず、あるいは霊的成長の概念すらない人間も多い。

そして今の宗教関係者は、恨みの連鎖の霊的干渉についてすら考えたことが無い者が多い。 

 

よってこういった人間は、宗教関係者でありながら“ほんとう”の宗教の意味と意義を知り得ず、自分たちの金儲けと権威のための道具としてしか扱っていない。

(それは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心の心(靈)であるからであると言いうる)

 

こういうふうにしか扱えないこと事態が、今の宗教関係者は心(靈)が育っておらず、それは幼稚化した心(靈)であり、これが今の当り前になっている。

この現状は“上”の思惑に沿っていない、当然のことながら“上”が望んだ現状ではない。 それは、人の霊的成長のための宗教ではない、恨みの連鎖の軽減のための宗教でもない。

 

さらに、こういった幼稚な心(靈)の程度の低い宗教関係者は、死んだら悪霊になってしまうものであるし、それに関わる信者も、結果として形骸になった宗教を通じて心(靈)は育たないので、幼稚な心(靈)のまま悪霊になる。

よって今の宗教関係者は、自分たちも含め、どんどん悪霊を増やしており、この罪を背負って次の世界に移行する、次の世界でその罪を贖う(あがなう)ということを、あえて付け加えておきます。

悪魔に対しての認識の無さ “その六” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を増大させている”

 人間は個々の霊的成長度の高低において、考え方や思想、物事の見方、捉え方(事象の“観察と認識”)に相違がある。

 その相違があるがゆえに、それが反映した行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)も違うものである。

 

 幼稚化した人間は先回述べた通り、目前の事象に理由と根拠を見出そうとしないが、これ事態が智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の足らない心(靈)の動きであり、それは著書で述べた通り目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)の心(靈)の動きが中心であり、具体的には、本能、情動、低い功名心、自我の肥大、という心(靈)の動きが観られるものであるが、これに当該する本人はこの心(靈)の動きに問題点を見出そうともしないものである。

 その智性の足らない人間は、どういった生き方や行動をするか、それは、本能由来の欲望(八戒(低い欲望に対する八つの戒め))が満たされればよい、低い功名心由来の満足ができればよい(ファッション、ブランド、宝石などの装飾品、これらはディスプレイ(動物の発情行動)であり、形骸の“美”の概念に由来することである)、また、薄っぺらいエンターテイメントなどに酔いしれ、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))を行使する時間を作りえない…など、それはすでに、神に対する認識の無さ、で引用したローム太霊講話集 第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

これに相当するといえ、たった今自分の目の前にある事象に対してその意味や意義を考えることをしない、自分が生きていることに対して深く考えることもしない、という目下(めした)(動物の心(靈)の段階)中心の心(靈)であるがゆえに、自分と自分より“上”である神や仏の関係、これを考えないで、目先の快楽を求め、形骸の名誉を求め、形骸の“美”を求め、エンターテイメントなどの薄っぺらい喜びを求める。 

 また本能由来の欲望、形骸の名誉や形骸の“美”を求める低い功名心、これらの達成のために(通貨としての)金に執着し、金を得るために、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、をすることを厭わない(いとわない)で一生を終えるものであり、それが太霊の述べた“動物的なあたまの持主”の文言の裏にあることでもある。 

 それはまた、たった今“続”で解釈を行っている“日月神示”の表記の“ケダモノ”“けもの”などの表記もこの意味合いを持つものであるし、こういった心(靈)の動きを助長させているのが“石屋の仕組み”であり、そこには心(靈)の動きとしての自我の肥大というものが認められるものである。

 

 これら心(靈)が幼稚化した人間は、こういった心(靈)の動きに対して自分の在り方を見出そうともせず、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に対しての“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)をあてはめて考えることもし得ないものである。 

 その“善悪”を無視して欲望の達成のために(通貨としての)金に執着する心(靈)の動きが、貧富の差を生み、経済の格差を生み、増大させている。

 

 例えば、先の八戒由来の心(靈)の動きの一つである美食は、家畜の浮遊霊を増やしている。

 美食の結果として自分たちの体の調子が悪くなったら、その食の欲望を自らに諌めることなくサプリメントなどに頼る。 結果として、自分が自分に厳しく生きることに価値があるということに気付かず、生きていることに対する認識(悟り、幸取=さとり)を得ないで死んでいき、低い欲望を持った儘の浮遊霊となり、同じような人生を送っている人間に憑依してその人間に対する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信を妨害し遮断しているものでもある。

(これに関しては著書の<1> よい発信のために のS会=紫光会での主護霊会でアタシの“主護霊”の立場から述べた“動きが取れない”という言い回しが理解しやすい)

 

 また、形骸の名誉、形骸の“美”を求める心(靈)は、経済の格差を増大させ、経済の格差そのものがテロや戦争を引き起こす重大な原因となっており、これに関してもすでに引用したローム太霊講話集の第十話が解りやすい。 

何といっても一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏うことになって、戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが、その支配霊の援助の下に相手国の首脳や国民を永遠に恨むのに対し、戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続けるのである

 

 この“一番困るのは戦争”という表記、これは、ローム太霊が恨みの連鎖の霊的干渉の最たるものとして伝えたのであり、短い時間でたくさんの悪霊を増やす結果を望んでいるのがどういった存在なのか、それについて多くの人に考えてほしい、という太霊の思惑を感じるものです。

 

 しかしながら、幼稚化した心(靈)はこういったことに気付かない、説明しても理解しえない、自分には関係ない、などと思う傾向がある。

 

 たった今の地球人が、人として考えなければならないことは、目前に迫っているアセンションに伴う醜い事象、これは自分たちの心(靈)の在り方を問うものであり、自分の心(靈)の在り方は、たとえ死んだとしても永遠にそれを自分に問わなけばならないものである。

 それゆえ、“神の咎め”として、幼稚化した人間がやってきたことの結果として、アセンションに伴う醜い事象を体験して苦しまねば、多くの人間が自省(胸の磁性“十”)し得ない、これについて考えていただきたいし、今、生きている間に自分の在り方を鑑みる、生き方を問う、自省(胸の磁性“十”)するならば、それは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に結び付くことなのだ、ということを述べておきます。

 

 次回も恨みの連鎖の霊的干渉について述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その五” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を偶然と誤認する”

 先回の文末で述べたように、たった今、人間の幼稚化が台頭している。 その幼稚な心(靈)は、目前の事象に理由と根拠を求めない、あるいは“ほんとう”を求めないし見出すこともしないものである。 

 私事ながら、著書を出版して170人以上の方々から電話、メールで連絡をいただいた、あるいは直接ご来院いただきお会いしたりしましたが、そのほとんどの方々が恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、これについての理解が足らないか、あるいは読み飛ばしている=アタシの思想、考えと感応共振できるほど心(靈)が育っていない。 

 それでたった今、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は増え、益々はっきりとした現象となっています。 

 少し解り易い具体例を挙げれば、誰でもよいから殺したいという事件、アメリカの銃乱射事件などが理解しやすいが、この現象の裏側にある霊的干渉、どんな存在の憑依なのか、自分たちの“下”の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する存在とは…これに気付く人は情けないほど少ない。

 こういったことに気付かない心(靈)自体が、幼稚な心(靈)であると言え、上記事件など恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の事例にはちゃんとした理由と根拠があることをアタシは述べて来ていますが、これを理解しえないでアタシの文章をエンターテイメントだと思ってしまう、あるいはアタシが出版した目的、意図、これが金儲けとか著書を出版して誉めそやされたいとかという解釈をされてしまう、こういった実に情けない人が多いものである。

 

 本題に戻り、幼稚な心(靈)は先に述べた通り、物事、目前の事象などに、理由と根拠を求めないし、その実情を理解しうる素地もない、結果それは“ほんとう”を求めない、求める資質の無い心(靈)と換言出来得る。

 そして表題にある通り、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は、悪霊の憑依現象、悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、これを類推出来ない心(靈)は、上記事件を偶然の出来事であると片づけてしまうことが多い。

 しかしながら、不幸な死の事例、それは通り魔殺人であろうが、病気で死のうが、交通事故であろうが災害であろうが戦争だろうが…etc. あるいは先に例に挙げたように、誰でもよいから殺したい事件の被害者だろうが、銃乱射で命を落とす人だろうが、そこには必ずそこで死ぬべき理由があり、その人達はどんな因縁を背負っているのか、ということに考えが及ばないからこそ、それは偶然だ、と、思い込む傾向が強い。

 

 この“偶然”については、以前、読者会で取りあげたことがあります。 

 これに参加された読者の方々に対しアタシは総括を述べましたが、その要旨を以下にコピペさせてもらいます。

 

  書き込んでいただいた方全員が、平均的地球人にとって当たり前の概念であろう“偶然”という認識を持つこと自体が、自分にとって都合の良い思い方、勝手な考え、であると指摘していらっしゃいます。
 人間は、生きている間にさまざまな事象に遭遇する、様々な人間と出会う、これらすべてに自分に対しての教訓がある、何かを学ぶべきことがあるものですね。
 あるいは犯罪に巻き込まれてひどい目に遭う、極端な事例として殺されて地獄に行き、恨みの連鎖の霊的干渉の増大に手を貸す悪の霊団に加担して、それが終わってから、自省(胸の磁性“十”)の“行”をするケースもあるが、これは因縁を背負っている、という事例で、偶然ではありませんね。
 殺されるケースにおいても、因縁を贖う(あがなう)、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、その因縁の原因になっている霊的存在、先祖や、先祖と恨みつらみで連なっている霊的存在、これらの自省(胸の磁性“十”)にために子孫が殺される場合がある。
 いかなる事象においても、それを観た、体験した心(靈)は、必ず何かを学ぶ、学ぶことを避けたならば“神の咎め”としてひどい目に合わせることを“上”はさせるものでもある。
こういった認識を持つと、神と人間の関係ということに対しての理解が進んで行くものですね。
 “偶然”などという言葉は、低い段階における認識を表したものである、神と人間の関係を考えたことがない程度の低い心(靈)における認識である。 自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すなら、こんな低い認識を持ってはいけないし、進化をある程度果たした世界では、“偶然”という言葉も、その認識もない。
 また同様に、すべてが必然である、という認識に至ったならば、必要とか必然という言葉や認識もなくなることが考えられる、すべては当たり前であり、すべては必然であり、ずべてが自分たちの成長にとって必要である、という認識に至る、とも、思われますね。

 

引用終わり。

今回の記事を読んでいただいた方々には、自分が遭遇している、あるいは遭遇した一切の事象には理由と根拠があり、また、霊的干渉と無縁の事象など無いということを理解していただきたいものです。

 

次回も、恨みの連鎖の霊的干渉について述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その四” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “人間の幼稚化”

 あえて説明するまでもなく、恨みの連鎖の霊的干渉を引き起こしているのは、人間や動物、その他自然霊など、を含め、その霊的存在の分類を問わず悪霊である(“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈))。

 

 それで、悪霊がなぜ悪霊なのか、それは自省(胸の磁性“十”)の心(靈)を持たない智性(神性)無き心(靈)であるからである。 

 悪霊の心(靈)、それは、動物や自然霊の悪霊などは、もともと自省(胸の磁性“十”)がないから自省しない、智性(神性)をあまり持っていない、そういった状態の進化過程であると言いうる。  

 人間の悪霊においては、人間は多少、自省(胸の磁性“十”)や智性(神性)という心(靈)の動きを持っていても、それを行使した考えや行動をしないものであるし、人間が生きているときに、自省(胸の磁性“十”)をしていない、智性(神性)を行使していない、そういった一生を送っているならばそれは、何かのきっかけ(具体的には恨みの連鎖の霊的干渉の現象化)で、簡単に悪霊になり得るものであるし、ほとんどの地球人が悪霊になり得る素地を持っているものである。

 

 この悪霊の心(靈)の動きは、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という心(靈)の動きの、自我から“下”、本能、情動、功名心、自我、という心(靈)の動きしか持ちえないものである。

 

 またこういった心(靈)の動きしかないその心(靈)自体を、霊的成長度が低いのである、と著書やブログで定義づけておりますが、これに相対し、霊的成長度が高いならば、自分の考え(心(靈)の動き)や行動をしっかり“観察と認識”して、“善(神格化の方向性と智性の受信)”か“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か判断することが出来、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性に向かおうとするものである。

 

 この“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性に向かおうとすること事態が、生命(生きる使命=存在理由)の存在の意味と意義である。

(これに関してはたった今“続”で解釈を行っている“日月神示地震の巻 が理解しやすい)

 

 その、生命の存在の意味と意義、これに関して古神道に伝わっている「“本津宮”(もとつみや)へ帰れ」について述べます。

 「“本津宮”(もとつみや)へ帰れ」これは祓いの言葉であり、“本津宮”(もとつみや)の“本”の意味合いは、胸の磁性“十”と丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)、そして小さい横棒━(よこぼう、水平磁場)は、その意味合いを強調する、これで構成された字が“本”であり、“津”は中心の意味合い、“宮”は宀(うかんむり、頭の意味)と“呂”で構成され、“呂”は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている、の意味合いがあります。

 これを簡単に説明するならば、生命(生きる使命=存在理由)の存在の意味と意義を自分自身がよく自覚し、自分自身をよく“観察と認識”して、自分自身の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を諌め、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性に立ち戻れ、自省(胸の磁性“十”)せよ、であり、悪霊が自省(胸の磁性“十”)したならばそれは悪霊ではなくなる、ということになり得ます。 

 

 ところが、悪霊自身が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)から通信を受けたり、あるいは厳しい“行”をこなしている霊的成長度の高い存在に祓いの言葉を述べてもらいその息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)の感応によって自省(胸の磁性“十”)しようとしたとしても、悪の霊団の構成員となっていたならば、自分以外の悪霊の息吹を受けて感応するから、自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が働きにくいものである。 

 またこれは“日月神示地震の巻の表記の“同気”“同類”“同気同一線上”、それは同程度の霊的成長度、そして、同じような心(靈)の動き、に相当するものであるから、悪の霊団においては、その“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の心(靈)の動きは強固なものになり得るし、自省(胸の磁性“十”)や智性(神性)という心(靈)の動きから遠ざかるものである。 

 それでここまで述べたことは、悪霊と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団のことでしたが、たった今生きている人間にも該当することです。 

 それは、たった今の地球人の平均的霊的成長度の段階は自我の確立=固定化の段階であり、それだからこそ自分のことしか思わない“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”である。

 それゆえ、大概の地球人は、自分の幸福しか考えない薄っぺらい幸福感をもつ、そして毎日が楽しければよい、本能的欲求が満たされることを望む、そしてその達成のため、その裏にある(通貨としての)金に対する執着。

 よってほとんどの地球人は、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかを容認している、真実=真固止、“ほんとう”を求めない、また、なぜ自分は生きているのか、何のために生きているのか、など、自分の存在の意味と意義など考えたことが無い、そんな心(靈)の動きに“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を鑑みることはなく、鑑みないから“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信は素通りするし、本能中心の欲望の達成や低い功名心や自尊心を満足させることばかり考えているから自分の在り方を考えないし、これ事態が、程度の低い心(靈)の動きの悪霊と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するになるものである。 

 

 それで、著書やブログで述べている通り、日本を含む経済大国の人間は上記の心(靈)の動きしか持ちえず、自分の在り方を鑑みる素地が薄いと言いうる。

 この“自分の在り方を鑑みる素地が薄い”ならばそれは、先の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団と“同気”“同類”“同気同一線上”であり、たった今もどんどん増えつつある家畜の浮遊霊や飢餓貧困で死んでいる子供の浮遊霊などと感応しており、自省(胸の磁性“十”)と智性(神性)という心(靈)の行使が無くなり、どんどん幼稚になっていく。

 この、人間の幼稚化、これも悪魔の“思惑の顕現”=現象化の一つであり、どんどん悪魔の傀儡を増やす結果になっているということを指摘しておきます。

 

次回も、恨みの連鎖の霊的干渉について述べることとします。

 

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 “続”太陽凝視を行っている鍼灸師の話で解釈を行っている“日月神示”これの地震の巻(二曰んの○キ)に“神律”という表記を昨年みつけました。

 “神律”のは“創造”の“主(ヌシ)”であり、は解字として、彳部(てきぶ)(ひとすじの道の意)と聿(ひとつの意、のり、おきての意)で構成され、の字そのものは、物事を行う基準となる掟、の意味合いですので、“創造”の“主(ヌシ)”の“創造”における法則、決まり、と解しております。 

 この“神律”を含んだ文言の意味するところ、われわれ“地上人”を含めた一切の生命(“創造”の“主(ヌシ)”と“創造”の“主(ヌシ)”以下の心(靈)すべて)は、f:id:tuyukusanotuyu:20190101025402j:plain(“善(神格化の方向性と智性の受信)”の回転)により“大完成”に近づき、これ事態が一切の生命にとっての“歓喜”である。 この“大完成”に向かうため一切万象が在り、そこにおいてわれわれ“地上人”は、近々、霊的成長度の高低における区分けを体験しうるものである。 よってたった今、“地上人”は、何を思い何を為すべきか(自分の在り方、そして“善(神格化の方向性と智性の受信)”の思惑と、その顕現)、これをアタシの文章から読み取っていただき、一人でも多くの方々が次の事象の“創造”に参加されますことを、今年も切望しております。 

 児玉登

悪魔に対しての認識の無さ “その三” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)して“創造”する事象

 今回は、著書やブログでさんざん述べてきている「恨みの連鎖の霊的干渉」これを引き起こす心(靈)の動きについて述べます。

 

 まず、先回述べた通り、多くの地球人は悪魔の傀儡になってしまっている。 

そしてその心(靈)の動きは、自分の損得や保身、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)由来の本能中心の欲望の達成しか考えないし、その考えが(通貨としての)金が欲しい、形骸の名誉が欲しい、形骸の名誉を守りたい、ということになり得る。

 またこれがたった今の地球上での一般常識や既成概念、また価値観の元となっており、それゆえ、保身や欲望の達成のための努力を自分にとって価値のあることと思いたがる傾向が強い。

 それだからこそ、自分が頑張って(元の気を張って)獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を、自分、あるいは自分たちのためにしか使わない。

 それは、他者から何かを奪うために“力”を行使する、それゆえ、欺くとか騙すとか嘘をつく、ということをするものである。

 

 これが人間としてまっとうではないことは先回述べた通りであるが、先に述べた通りこれが普通、これが常識、既成概念、自分たちにとって当たり前の価値観であるのが、たった今の地球人の現状である。

 この当り前であると思ってしまうことが、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分のためにしか使わない、他者から奪うために“力”を行使する。 

 その“力”の行使による個人、あるいは小規模な犯罪(詐欺や窃盗など)は当然これに当たるが、“力”を持った集団が行っていることとして、今、どんどん馬脚を現しつつある政治、あるいは既成の宗教団体、これらと同類である経済界のトップ、そしてこれは日本の場合であるが形骸の儀式しか行っていない天皇制。

(本来の天皇は霊的成長度で選ばれるべきであるし、そうでなければ“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、天意の受信をして、本来は多くの人の霊的成長のための詔(みことのり)を述べることが出来ない)

 また、こういった形骸の権威で構成されたのが国家であるし、相手から奪う心(靈)は自国の損得しか考えないようになり、その心(靈)の動きゆえ、大量殺人である戦争を行っており、また兵器産業で経済を潤すというバカげたことがまかり通っている。 その結果としての恨みの連鎖の霊的干渉、これを以前、読者会でテーマにしたことがありますので以下に紹介させていただきます。

 

  •  アメリカで多発する銃乱射には、どういった霊的干渉があるのか 

 これは、アメリカが戦争でたくさんの人間を殺してきたからであるといえます。 

 正確な数字はわかりませんが、戦後、アメリカが関与した数多くの戦争、朝鮮戦争パナマ侵略、ベトナム戦争ドミニカ共和国侵攻、カンボジア侵攻、ラオス侵攻、グレナダ侵攻、レバノン空爆リビア空爆ニカラグア侵攻、パナマ侵攻、イラク湾岸戦争ソマリア侵攻、ハイチ侵攻、スーダン空爆アフガニスタン空爆、侵攻、コソボ侵攻、リベリア侵攻、イラク侵攻、ハイチ侵攻、これらでアメリカが殺戮した人数の合計は1000万人以上で、その内の九割が民間人だそうです。

 当然のことながら殺された人間は殺した人間を恨む、これはローム太霊講話集の第十話が解りやすいです。

何といっても一番困るのは戦争で、その憎念はどこまでも双方の国に付き纏うことになって、戦敗国の戦死者の霊団は固より、生き残っている多くの者の霊魂(俗にいう生霊(いきりょう))までが、その支配霊の援助の下に相手国の首脳や国民を永遠に恨むのに対し、戦勝国の戦死者の霊達も亦その相手国に憎悪の念を持ち続けるのである。

 それで、銃乱射の実行犯が、自我の肥大をしていて、自我の確立=固定化の進化過程であるから憑依現象が起きやすい、という要因があり、当然のことながら自分に起きている憑依による殺意を自分で諌める心(靈)の発現が弱いからであるといえます。

 余談ですがもうひとつ、ローム太霊が述べた“その憎念はどこまでも双方の国に付き纏う”こととして、戦争から帰還した人の自殺が増えていることもアメリカでは報道されており、これはアメリカだけではなく日本の自衛隊でも同じことが起きています。

 どんどん悪の霊団に加担する霊を増やしているということになります。

 

 もうひとつ、形骸の権威と経済しか考えない国家、経済大国は、飢餓貧困を起こしている(子供の浮遊霊の増加)。 経済大国の人間は自分たちだけ薄っぺらい幸福感に酔いしれ、金持ちの道楽みたいなブランド、宝石、ファッション、エンターテイメント、美食(家畜の浮遊霊の増加につながる)、美食の弊害を回避するための薬やサプリメント、そしてもっと(通貨としての)金の奴隷になっていくための投機、例を挙げるときりがないですが、こういったものに酔いしれている人間が息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)してたった今の事象の“創造”をしている。

 

 それゆえたった今の地球は恨みの連鎖の霊的干渉で満ち満ちており、悪霊だらけの星になっている。

 その結果、本来、何百年も生きられるはずの地球人の寿命は短くなり、霊的干渉由来の病気は増え、悪霊の憑依由来の犯罪も増え、戦争の被害を受けた国は加害者である国を恨むから天災や事故も増える。 また家畜の浮遊霊の憑依現象主体のだれでもいいから殺したい、という犯罪もたった今どんどん増えつつある。

 

 この恨みの連鎖の霊的干渉、これが派生する理由と根拠としては、個人個人の心(靈)の動きにあり、先の自分の損得しか考えない、それゆえの“力”の行使、そして欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)は、その被害にあった者、その者の心(靈)から恨まれる。 

 あるいは殺されたら殺したいと思うものである(これは人間だけではなく家畜やペットなどの動物も含む)。

 それは、欺かれ騙されて、嘘をつかれ、そのうえ奪われて、あるいは殺されて、その相手に感謝するなどという心(靈)の動きの人間や動物はいないというしごく当たり前のことであるが、多くの地球人は悪魔の傀儡なので、自分のことしか考えない、他者の都合など考えない、あるいは考えても“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応してそれを無視する、そして自分のまっとうさ、など思わず、(通貨としての)金の奴隷、形骸の権威に酔う、ものである。

 こういった人間の行動、それは現実=現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現、心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であり、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性から外れており“善(神格化の方向性と智性の受信)”でもないので、いずれ“神の采配”として“神の咎め”を受ける、これ事態が欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをした結果、“正当な報酬”と言いうるし、これがまた、霊的成長度の高低における区分け、アセンションに伴う醜い事象である。

 

 次回も、「恨みの連鎖の霊的干渉」について述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その二” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になる心(靈)の動き

先回も引用した通り、ローム太霊はローム太霊講話集で

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

そして

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられます。 

そしてこの“神の気持”これを“自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい”これが人間として、在るべき心(靈)の動きであるとも、述べておられます。

 

 しかしながら、たった今のほとんどの地球人の霊的成長度の段階では、自分の損得や保身、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)由来の欲望の達成しか考えていない。 

 その考えは、(通貨としての)金が欲しい、形骸の名誉が欲しい、形骸の名誉を守りたい、本能由来の欲望を満たしたい(著書で述べた八戒(低い欲望に対する八つの戒め))ものである。

 また、保身や欲望の達成のための努力を自分にとって価値のあることと思いたがる低い功名心しか持ちえないものでもある。

 

 こういったことが自分たちの薄っぺらい価値観や幸福感になっており、それを達成したい、満たしたいからこそ、自分の心(靈)の中の良心を無視して、これはまっとうな事ではないと解っていながらも、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認するものである。 

それは他者を、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをして、自分が思うまっとうではないことをして自分の損得を考え、目先の利益を得ようとする、このこと事態が“自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい”とは真逆であると言いうるが、こういったことを真剣に考える霊的成長度の人間も非常に少ないのがたった今の世界の実情である。

 

 また、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをしていくならば、“神の咎め”があるが、その咎めを受けてすら自分の在り方を思わない人間が多い。

それは、自分はこれでよいのだ、これは自分にとって必要な事なのだから…などと自分の良心に言い訳をして自分の心(靈)の中の“神の心”を無視する。

 こういった心(靈)の動きは自我の肥大によることであり、その心(靈)の動きゆえに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となるものでもある。

 

 こういったこと事態が、神から遠ざかることとなる、あるいは、そんなことはやめておけ、という“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受けても、それを無視して、自分はこれでよいのだ、これを行って欲望を達成するべきなのだ、という“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応してそれを優先する心(靈)の動きとなる。

 

 人間の心(靈)の動きは、神に近いか、悪魔に近いか、この二つしかないものである。

 言い方を変えれば“上”か“下”か、そのどちらかでしかないものであり、たった今の自分が、そのどちらに近い心(靈)の動きをしているのか、これを自分で判断し方向性を決めるのが智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、どんなに霊的成長度が低い人間でも“一”=智性=1番目のオーラは観測され、それが、動物と違う点であることを著書でのべました。 だからこそ人間は動物と違い、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を理解することが出来得るものである。

この、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)所以の心(靈)の動きを無視して、上記、自分に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認して“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。

それは、自分の心(靈)の中の“神の心”、程度の低い地球人の場合は、良心、と換言すれば解り易いが、これを無視しているものであり、その心(靈)の動きは、すでに悪魔の傀儡となっているものである。

 

 その悪魔の傀儡が行っている、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、これををした結果、たった今の世界、この現津(あきつ)、観察され得る事象が、どうなっているのか、次回はこれを具体的に述べることとします。

悪魔に対しての認識の無さ “その一” 悪魔を認識しえない霊的成長度

 すでに「神に対する認識の無さ」で述べたことではありますが、ほとんどの人、平均的地球人は、神も認識しえない、同時に悪魔も認識しえない。 そんなものはあるのかないのか分らない、その実在に関して真剣に考えないか、考えたことが無い人が大多数。

 そして自分たちの人生に神や悪魔が関わっているなどとは思っていないものでもあるし、この世界、現津(あきつ)、観察され得る事象、現実に、神と悪魔の影響がある、ということを真剣に考えている人はごく少数、さらに神や悪魔を自分たちの利益のために都合よく利用している宗教関係者やそれに関わる権力者などもいる。

(“日月神示”表記の“役員づら”) 

 

 これらの理由として、平均的地球人の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)は、自我の確立=固定化の段階である。 

 それゆえ自分の利益と損得しか考えない人間が多い。 

 また、神や悪魔を示す何か見ても、神や悪魔の実在を示すどんな事象に遭遇しても、自分にとって都合の良い解釈をしたりしてその意味を追求しない、あるいはそういったことですら自分の利益や損得、あるいは形骸の権威のために利用しているものまでいる。

 

 アタシの著書やブログを読んでいる人たちは、上記の人間の霊的成長度に対し、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”ということを思われる、しかしながらたった今の地球人の大半はこういった人間でしかない。

 

 それで、神の思惑としては、人間の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、そのために“神の采配”、“神の咎め”があるものである。

 

 そして人間自身が、自分が思うまっとうな事柄に対し、頑張った人間に対し、“神の恩恵”があるのは“正当な報酬”として当然のこと。

 

 これに相対し、悪魔の思惑、人間を進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させようとしない、人間を生物学的に虚弱にしている、恨みの連鎖の霊的干渉を増して悪の霊団(ローム太霊が述べた概念)をふやし、天変地異や犯罪や病気をどんどん増やしている、などを、著書やブログで述べていますが、「悪魔の思惑」などという言葉を使うと、一笑に付す人が圧倒的多数でもある。

 

 その「一笑に付す」理由として、先に述べたようにたった今の地球人は自我の確立=固定化の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きをしているものであり、自分の利益と損得しか思わない、それしか考えていない、ありていに言えば自分のことしか分らない人間が多い、この世界が神の思惑通りになっていく、生命(生きる使命=存在理由)としての人間は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をしていくものである、などと思わない、こういったことを考えることが出来ない。

その神の思惑として、何回も引用しますがローム太霊はローム太霊講話集、第二話で

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

と説明しておられ、これに対しローム太霊は

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられます。

 しかしながら“自分のできる範囲でこの神の心を出せば”などということを実際に行っている人はごく少数である。 またローム太霊講話集の第二話を読んでもこの言葉の意味を理解している人はほとんどいない。

 

 また“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたい”に対し、アタシの著書やブログの文章を読んだ人でも、恨みの連鎖の霊的干渉の意味も理解しえないし、自分にとってそんなことは関係ないのだ、と思う人に幾人も遭遇しました。

 

  こんな思い方をする、悪魔の思惑を理解しようとしない、恨みの連鎖の霊的干渉を知識として知っても自分の在り方を考えないのは、その人達の心(靈)が悪魔に近いのであり、それは、悪魔は自分の思惑の達成のために他者の命や尊厳など無視する、結果それは究極の“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と言いうるからである。

 またそれは、自分たちの心(靈)が神に近いか悪魔に近いかを判別しえない、自分の心(靈)を自分で観察して“上”の心(靈)か“下”の心(靈)かを判別できる智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)がない。

 だからこそその人達は、自分たちの心(靈)の中の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認する、自分に対しての“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ”を持ちえない、その厳しさゆえの自分の在り方を思わない、自分に甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)、ということになりますが、こういった人たちの心(靈)はすでに悪魔の傀儡に近いと言い得ますし、悪魔の傀儡だからこそ悪魔の“思惑の顕現”=現象化を認識しえない傾向があるといえます。

(※ 傀儡とは、かいらい、くぐつ、操り人形、の意)

 

 それで、これからこのカテゴリーでは、たった今の世界、この事象に対しどんなふうに悪魔が働きかけ、その思惑を現象化させているのか、またそれと感応している悪魔の傀儡に成り下がっている大多数の人間の心(靈)の動きについて、具体的に述べていく事とします。

神に対しての認識の無さ “その八” 平均的地球人の霊的成長度における神の概念は低すぎるということ

 ここまで「神に対しての認識の無さ」ということを述べ、それについては、ほとんどの人間がただ漫然と生きているだけであり、それは神を言葉でしか知らないし、真剣に、真摯に、考えないことが無い、鑑みたことが無い、自分にとって都合の良い神の概念を持ったりする、そして薄っぺらい神の概念は権力の行使に使われたりもするし、神の概念を間違えていることにすら自分で気付いていない…など、その認識の低さを指摘してきました。 

 それで、なぜ、ほとんどの人間が神に対して深く考えていないか、あるいは自分と神の関係について知ろうとしない、そのことを求めようとしないのか、また、神を理解しえないのか、それは自分にとって都合の良い神の概念しか持たないのか、これらは単に霊的成長度が低い、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が足らないからであるといえ、換言すれば、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)が未発達である。 

 未発達がゆえに、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの低い部分としか感応しておらず、それはまだ動物に近い、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の段階の心(靈)の発現しかしていないからである。 

 ただし「神に対しての認識の無さ」は、平均的地球人の当り前であり、その低い概念は既成概念でもあり、また、自分たちが低いという認識すらないものでもある。

 それで、アタシが述べてきていること、平均的地球人が持っている神に対しての認識、それが低いという指摘が出来得る。 

 その指摘は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が強化された心(靈)でなければ出来得ない。 

 その理由として、平均的地球人よりも、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)でなければ、平均的地球人の神に対する認識の低さを指摘することが出来ない。

 仮に平均的地球人と同等の霊的成長度ならば、その認識の低さを判別できないものであるといえる。

 

 アタシが長年行ってきた太陽凝視は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得と強化のための厳しい“行”であり、智性(神性)が高まるからこそ、神に対してもこの事象〈現実〉に対しても平均的地球人とは違うものの見方をするようになり、さらにそこで自分の在り方を考えることが出来るようになってきた。 

 それは厳しい太陽凝視をここまで45年、“行”として行ってきて、その間にさまざまな事を考えた、考えたことはアタシ自身の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、それに感応する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在があった。

 また先に述べたように、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の、高い振動と感応し“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)してきた過程がある。

 

 余談になりますが、アタシの霊的成長度が“行”を始めた18歳の時から高かったわけではなく、何年も何十年も太陽凝視を行い、また電気行も行いつつ徐々に育ってきた。 

その育った段階(アタシの霊的成長度)に応じた“上”との感応があり、“行”を頑張れば頑張るほど“上”は通信を送り、贈ってきた。

 また、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、との感応も変化をして、高い振動を取り込み(“日止、霊止”)認識(悟り、幸取=さとり)は変容してそうやってアタシの心(靈)は育ってきた。 

 この「心(靈)が育つ」(進化(霊的成長、神格化に向かうこと))ということ。

 “行”を頑張り、目前の事象の意味を深く考える人間には、神は高い認識を獲得させようとするものである。

 これに相対し、頑張っていない人間には、程度の低い霊的干渉しかない、それは、自分たちの低い功名心と自尊心に感応する悪魔のささやきくらいしかないから、神の概念を間違えたりもしているものである。 

 アタシの心(靈)が育ってきた過程、そこで得られた結論としては、たった今、“続”で並行して行っている地震の巻で述べられていることに当該することが多いのですが、“創造”の“主(ヌシ)”も被造物である個の心(靈)も。すべてが神である(一切万象)。

“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物であるわれわれは、神に近付く(弥栄)ことが存在の根拠と理由でもあるし、またそれが生命(生きる使命=存在理由)でもある。

また進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していけばいくほど、ただ歓ぶだけ、“大歓喜”となっていくものである。 

 その“大歓喜”という段階に移行するまでには、個の心(靈)が何回も転生を繰り返してたくさんの体験や学習をする、そこで認識(悟り、幸取=さとり)を獲得して、その認識を生かして自分の在り方を鑑みて“善(神格化の方向性と智性の受信)”を為していくし、ことに“地上世界”においては、善悪を見出すがために“御用の悪”というものがある。

これらの詳細については“日月神示” 地震の巻の解釈 を読んでいただき、多くの人に理解してもらいたいものです。

 

 それで、「神に対しての認識の無さ」、自分たちにとっての神とは…こういったことを考えない、考えたことすらない人間は、解り易いので何回も引用しますが、ローム太霊講話集 第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

である。

 これは先にも述べた通り、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)しか発現していない、これが平均的地球人の霊的成長度の段階、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であると述べておきます。

 

 次回からは、これもほとんどの人が真剣に真摯に考えたことが無いであろう、悪魔。

 そして悪魔の傀儡である“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団(ローム太霊が述べた概念)との感応と、感応によって起きている事象、その現象化、これらに対しての認識の無さ、について述べていきます。

 

神に対しての認識の無さ “その七” “神の咎め”による人間の死

 先回の、「ばちがあたる」に対する認識の低さ」、これは動物から進化して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めたばかりの心(靈)、その進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)の段階において、自分の在り方を鑑みることが出来るようになった。

 

 それゆえ、進化の方向性を見出すため、“神の采配”がある、換言すれば、「ばちがあたる」という事象の遭遇を与えられる資質と資格を持ったという言い方もできうる。 

 

 これが「ばちがあたる」ということの浅い意味と言えるのだが、これを考えている人間はとても少ないし、自分の生き方、在り方にとって重要な事なのだという真摯な捉え方をしていない。

ローム太霊講話集第二十一話、“動物的なあたまの持主”)

 

 そういった人間の心(靈)の動きの現われ、いわゆる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、それはただ自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の欲望を満たすために、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得る努力をして頑張る(元の気を張る)、結果として(通貨としての)金や形骸の権威を得てそれを行使する。 またこれすらも頑張れないもっと程度の低い人間も多い。

 

 その霊的成長度の心(靈)に対し、ある程度進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を果たした高い存在は、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と呼称するし、これが平均的地球人の心(靈)の動きを言い表わした妥当な表現と言えるものであり、これ事態が平均的地球人の現状であり、その霊的成長度は程度が低い。

 その霊的成長度の人間が、たった今のこの世界や文明を崩壊させるものである。 

 それゆえ、今後=アセンション後の事象の“創造”に参加する資格と資質が無いと指摘しうる。

 それは平均的地球人の心(靈)が、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、この心(靈)の動きが恨みの連鎖の霊的干渉を増大させ。、ますますこの世界を腐らせている心(靈)の動きであることを、著書で述べました。 参考のため、著書の<4>と<5>の帯文の画像を貼っておきます。

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 それで先の

動物から進化して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めたばかりの心(靈)

これまでの多くの人間の進化はこの段階であったが、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を少し持ち始めても、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の行使しかしない、自分の生き方や在り方を考えない、考えないから“神の采配”として「ばちがあたる」という事象に遭遇するが、その際にも自分の在り方や生き方を考えない、あるいは少し考えても無視している。

 

 こういった心(靈)の動きをしているならば、これはもう生かしておく必要性が無い。

 それは、人生を継続するにあたり“上”が許可し得ないほどの“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に外れた思想や行動をしているなら、死んで、閻魔の庁の浄玻璃の鏡(えんまのちょうのじょうはりのかがみ)を観させて自省(胸の磁性“十”)を促すことをさせる。

 

 この“生かしておく必要性が無い”、換言すれば神が人間を殺す、死なせて自省(胸の磁性“十”)の“行”をさせる、ということであるが、ここまでのことを考えうる人間もとても少ない。 

しかしながら智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めた人間はこれを考えるべきである。

 よって、たった今自分にとって良くないことが起きているのなら、“神の采配”としての“神の咎め”であることを考えるべきであるし、そこで自分の生き方在り方を考えないで目前の事象から逃避する、忘れようとするならば、“生かしておく必要性が無い”ということになり得るのだと知っておくべきである。

 

 この事を示した文言として、以前、読者会の宿題とした、徳間書店「宇宙人との遭遇」46ページ、プレアデス人のセムジャーゼが、エドアルド・マイヤに語った内容。

「すべての上に立つ唯一の者が、個々の創造物を支配する生と死の力を所有しているのです。 それは、すべてを支配する法則を決める創造主なのです。 それらの法則は犯すことができず、それ自身永久に正しいものなのです。 私たちがそれらの法則を探し求めるときには、自然にそれらを理解できるのです。法則は人に生きる道を示し、その道は精神的な偉大さへの道であり、生命の真の目的を具現化する道なのです」

 

 この“すべての上に立つ唯一の者”そして“すべてを支配する法則を決める創造主”、これが“法則を決め”そして“法則は犯すことができず、それ自身永久に正しい”、これに反したら“個々の創造物を支配する生と死の力”により、先の“神が人間を殺す”、ということをさせ得る。

その目的は“法則は人に生きる道を示し、その道は精神的な偉大さへの道であり、生命の真の目的を具現化する道”、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を換言した言い回しであるといえ、たった今の地球人は

動物から進化して智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を持ち始めた”=自分の生き方と在り方を考えることが出来るようになった。 

 それを“私たちがそれらの法則を探し求めるときには、自然にそれらを理解できる”と称されており、これを考えろ、“法則を探し求める”ことをせよ。

 

 それは、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を行使すべく人間は、常に自分の生き方とあり方を考え、“上”と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)して、さらに智性(神性)をましつつ、<5>の帯文で述べたように、神の計画としての今後=アセンション後の事象に移行すべく資格と資質を獲得するべきである、ここまで述べたことが理解できる心(靈)の持ち主には、こう在って欲しい、というアタシの希望を述べておきます。

神に対しての認識の無さ “その六” 「ばちがあたる」に対する認識の低さ

 表題の「ばちがあたる」、これで検索すると、悪行などに対して神仏の罰をうけること  罰が当たる、報いを受ける、天に罰せられる 、罰が下る、誰からというのではなしに悪行の報いを受けるさま、天罰が下る …などの解説が見られます。

 

 当たり前のことを述べますが、自分が生きている、生きている間に何かを一生懸命頑張る、その頑張る過程において、「ばちがあたる」ことがあり苦痛や苦悩を体験する。 

 その意味は何か? これが今回のテーマの裏にあることなのですが…

 

 その前に、大半の人間はただ漠然と生きているし、低い幸福感と本能由来の欲望しか持ちえない。

 そしてそれを達成するための努力をして、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得てそれを自分のためだけに行使する。 

 こういった人間は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、ローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

であり、アタシの表現としては目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心の心(靈)の動きしか持ちえない霊的成長度の段階である。

 この段階の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においては、自我が肥大しており、その心(靈)の動きゆえに自分の損得しか考えないし、自己保身のために、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということをする。

 こういったことが人間としてまっとうなのか?

 

 また、ほとんどの人間は「ばちがあたる」ということを知っているが、その意味を考えない。 換言すれば、ほとんどの人間は目前の事象に対し、その意味を考えない。

 それはただ何となく漫然と生きている、そして先に述べたように自分の欲望と低い幸福感の達成のためにしか努力しないし、こういった人間は自分が生きている意味、それ所以の自分の在り方、神と人間の関係、などを真摯に考えていないからこそ「ばちがあたる」ことについて勝手な理由付けをしたりもするし、保身のため、自分は悪くない、運が悪かった、などの勝手な理由づけや言い訳をしたりもする。

それは自分の人生に対し恭順ではないといえますし、また、“続”で述べた

“創造”の法則性としての、自己責任という要素

ということに理解が足らないといえます。

 

 さらに、アタシの著書の熱心な読者は「ばちがあたる」に対し、ローム太霊が伝えた概念、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをあてはめて考えることが出来る筈ですが、一般の人たちは先に述べたように、ただ漫然と生きているのみであり、自分がなぜ生きているのか、自分の存在とは何か、ということを考えていない。 よって自分の在り方を考えないからこそ「ばちがあたる」ことが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配であり、“神の咎め”に該当することであると真摯に考えないし、こういった認識も低い。

 前後しますが、右往左往右往というのは、自分がこれまでやってきたことが失敗であり、“上”に認められていないからこそ、“神の采配”として「ばちがあたる」という事象に遭遇する。

 しかし、大概の人間はその霊的成長度の段階において自我が肥大しているから自分の失敗を認めない、認めようとしないものであり、それは失敗から教訓を得ようとしない、教訓を得させるのが“神の采配”だという認識が無いし、先に述べたように自分にとって都合の良い言い訳めいたことだけ考えようとするものである。

 その自分にとって都合の良い考え、これによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、どんな存在と感応するのか、これもアタシの著書の読者にはすぐ理解できることでしょうが、こういう考え方をする人間は“上”が認める“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った生き方をしているとは言えないものである。

 

 すでにこのカテゴリーで引用したことではありますがローム太霊講話集の以下の文言を自分が認識(悟り、幸取=さとり)としていたならそれは、“上”の思惑に沿った生き方を自分自身が見出すものである。

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

(第二話 四方の祈り 東)

 

神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる

(第六話 四方の祈り 北)

 

この“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”、他者のためにも“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使する((アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となる)。

 こういった“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使をしなければならないのだ、ということを「ばちがあたる」から考えうるのが、自分の在り方を観る(“観自在”)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”より“上”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す指標になるものであると言い得ます。

 

神に対しての認識の無さ “その五” 現世利益に対する認識の低さ

「現世利益」で検索すると「神仏の恵みが現世で与えられる」という意味合いの解説が多く見られます。

 この“神仏の恵み”に何を思うか、“惠み”とは何か、どういう過程を経て“与えられる”のか、について考えている人間はとても少ないと思えます。

 

 大体一般に(平均的地球人の霊的成長度の段階における認識としてという意味合い)、自分が何かに対して頑張る(元の気を張る)と“正当な報酬”として結果が得られる、その頑張りが“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適っていると“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの援護があり“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を示すことが出来る、という概念はなく、神社仏閣で賽銭(さいせん)を放り込むとよいことがあるかのような錯覚をしている。

その錯覚(妄想と、勘違いと、思い込み)を起こさせているのが“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))の手法でもあるのですが、これにどっぷりはまっており、はまっているが故に自分と神の関係など考えたことが無い人間が大多数。

 

 またこういったことは神社仏閣に限らず、似非(えせ)スピリチュアル、インチキ霊能力者、インチキ占い、カルト教団、あるいはインチキダイエットやインチキサプリメント、などにも、自分にとって都合の良いご利益を求め、それらの真偽を問わない傾向もある。 

それは、現世利益しか求めない低い心の持ち主というのは、エネルギーを購わない、贖う(あがなう)ことを嫌う、頑張らないで自分に都合の良い結果しか求めないという傾向が強い。 

例えば、投機に手を出すとかそれで儲けることが成功者や勝利者などと思う、これは“上”が認める“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に適った“正当な報酬”とは言い難いものであるが、それを行っている程度の低い人間にその認識があるとは思えない。 

 あるいは人間の霊的成長にとって必要でないか、霊的成長の足を引っ張るものを利用して商売をする、たとえばご利益で人を釣る形骸の宗教、“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))が書いたスピリチュアル本、本来の意義を見失い形骸の美と形骸の健康を求めさせるヨガ、たいして効果のないサプリメント、例えば自分が改善しなければならない生活習慣を省みないで血圧を下げるとか血糖値を下げるとか、甘い(亜、魔、出ずる、泉。愛(炁)の間に魔が入った状態を指す)夢をみさせる、それはその人が努力しなければならないのだということを忘れさせてしまっていたりもするのだが、そんなもので商売をする輩、そしてそんなもので自分の体のことを改善しようとする輩、あるいは、低い功名心を満足させるためにブランド品で商売をして、そんなものに価値があると思い込む低い人を対象にそれを買わせるとか、形骸の美を求めさせようとする美容、あるいはインチキダイエットを推奨するとか…例を挙げればきりがないくらい多いが、そこには甘い考えと低い功名心と低い自尊心という進化程度の低い心の動きがみられるものである。

 

これらはこの世界が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の“どういうつもり”(思惑)で“創造”したインチキであり、これに満ちていますが、これらに対しても、ご利益を求め、とかく甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見たがる。

 

こういった、自分が頑張らないでよい結果だけ得たいと思う人間に対し、それは霊的成長度が低いのだということを著書やブログで幾度となく述べてきていますが、そういった心(靈)の動きをする人間はたった今読者会のメンバーに対し宿題の一つとしている“ブタのけつを見ているアホ

(“アホ”とは、霊的成長度の低い人、認識の低い人、形骸の価値観しか持たない人、形骸の価値を刷り込まれている人、“ブタのけつ”とは形骸の価値しかないもの、あるいは形骸の価値を刷り込もうとしている何か、そのための大げさな手法などの意味合い)

でもあり、こういった人間は、先に述べたことと重複しますが、自分が頑張らずに良い結果だけ求めることをして、今、自分に起きていることが“神の咎め”とか、神が与えた自分の霊的成長のための試練とか、ということを考えない。

 

それは自分と神の関係を深く考えたことが無いということであり、たった今が苦境であると、神と自分の関係を考えないが故に、自分の努力が足りず“上”から結果を与えられる許可を得られない、とは思わず、運命のせいにしたり環境のせいにしたり他者のせいにしたりetc.要は自分は悪くないのだと思いたがる傾向がある。

 

この“自分は悪くないと思いたがる傾向”は自我の肥大ゆえのことであり、それに相対して、自分がどうしたらよい結果を得られるのかを考える心(靈)の動きは、自分にたいする“(“慈悲”と“慈愛”由来の)厳しさ“であることも著書やブログで述べていますが、こういった人間が少なすぎる感はあります。

 

それで現世利益、これに関してはローム太霊講話集でローム太霊も述べておられますし、おそらくローム太霊講話集を読まれたんだ多くの人間が、太霊が述べた“現世利益”に対して自分にとって都合の良い解釈をしていると思えるので(東の方角に祈ると金がもうかる程度の解釈しかしていない)、アタシ的解釈(Kellyさん的解釈)を以下にコピペしておきます。 

 

ローム太霊が使われた“現世利益”、この言葉に対して、やはり霊的成長度の差により解釈はまちまちであろうが、神が人に託した本当の人にとっての“現世利益”は“凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”、これをこの事象=“現世”に顕現していくべきであろうし、それが本当に人にとっての“利益”であるし、単なる商売繁盛とか物欲を充たすとか、そう思うのは本能由来の心(靈)の動きがあるだろうからであり、それと低い人が思う目先の欲望の達成とか低い認識の幸福ではない。  

そんなこと由来で東に願うような人間は自らの低さを露呈しているようなものであるし、そのことも“その見る時の心によって”=その人の進化程度と心の動き、それに感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在、その高低、要はその人の心(靈)(ヒ)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している霊的存在の“上”“下”を示しているものである。

敢えて述べればその低さは、天の僥倖、現世利益しか求めない、太霊の言葉を引用すればぼたもち坊ちゃん(ローム太霊講話集316頁)、自分にとって都合の良いことしか願わないとかというまったく勝手なものであり、“下”である自分たちが、自分より“上”である神さんに物事を頼む、祈る、のであるならば、それは、

この世界そのものが良くなっていくことにつながらねばならず、

多くの人が霊的成長することにつながっていかねばならず、

願って祈る自分は自分の霊的成長という要素もその願いと祈り(息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信))でなければならず、

それがあって願いというものは達成されるべきであるということなのだが、一般の人にその認識はあまりないと思えるし、自分の目先の利益や自分にとって都合の良い願いしか祈らないその低い心の動きは低いのだということを多くの人、平均的地球人の進化過程の心(靈)の人は認識しなければならないと思うものでもある