進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その七” 「神に近付こうとする」際の具体的なことを求めはじめるに当たって
ほとんどの人は、自分が頑張らねばよい結果を得ることが出来ないということを知っています。 同様に、何となく“行”あるいは“修行”の概念もある。
そこで先回文末で述べた「“善(神格化の方向性と智性の受信)”を意識しての顕現」、これは人間が“神そのものの分霊”(ローム太霊講話集第五十六話の表記)であるがゆえに、自分自身はある程度智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が発現したならば、先回も述べた
- 心(靈)の“上”“下”を認識し区別する
- “善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を見出す
- 現津(あきつ)、観察され得る事象に“真偽”を見出す
- 自分自身に真実=真固止を当てはめる
- 現津(あきつ)、観察され得る事象に“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出す
これを規範とか指標にして、何かをなそうとする。
結果これ事態が「神に近付こうとする」に相当することとなり、生命(生きる使命=存在理由)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)において当然の成り行きと言える。
そこで、その「神に近付こうとする」手段、具体策を求めるに当たり、間違えやすいこととして、多くの人間が“信仰ごっこ”をしているので既成宗教や新興宗教などに求めることが多く、これらがほとんど営利目的と成り下がっており、甘い(亜、魔、出ずる、泉)夢を見させるご利益ばかり強調しているから、自分が苦しまず楽に生きていきたいという既成概念が出来上がっており、そこで求める“行”と“修行”らしきものは“行”ごっこに過ぎず、お題目を唱えるとか、写経するとか、神社仏閣に参拝するとか、という程度のものから始まる。
これも一応、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になり得る要素はあるのだが、そこにご利益を求める息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)があると、程度の低い存在、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応するものである。
またこれら「“行”ごっこ」では、自分と神との関係を深く認識するには至らない、それは以前述べた「信仰ごっこ」が、一般に当たり前のように思われているからでもある。
今述べた「“行”ごっこ」「信仰ごっこ」、こういったことで一生を終えたなら霊的成長は望めないものである。
よって、この段階においては、常に自分の心(靈)を見張り、自分が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応の息吹をしているのか、“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応の息吹をしているのか、またそれは“善(神格化の方向性と智性の受信)”か、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”か、これを見定めねばならない。
しかしながらそこまでのことを考え得るほどの智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の持ち主ならば、こんな段階は脱却するものである。
そこで上記のことが大して「神に近付こうとする」とはならない、「“行”ごっこ」「信仰ごっこ」であると見定めることが出来るほどの霊的成長度なら、“行”とは、“修行”とは何か、を考え、求めるものである。
その考えること、求めること、これは心(靈)の動きで息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)であるから、これ事態が“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)との感応になり得るものである。
ならば、“上”はその人の“それぞれの役目”(ローム太霊講話集第五十六話、先回の記事を参照の事)に応じた“行”と縁(霊縁)を付けることをしようとするものであり、その“行”を通じてその人間を育てるための采配をするものでもある。
これは“上”がその人の霊的成長を望んでいるからである。
また、この段階で間違えやすいこととして、神が“力”であるという間違った認識を持った者は、ただ自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を人よりも多く示したいがため、その訓練を自分に課す。 そして自分が得た“力”を示す、これ自体が低い功名心由来の心(靈)の動きである。
またその“力”を自分の利益のためにしか行使しえない、自分を示すために“力”を誇示する(示威行為)、ということをするならば、それは、すでに“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応になっていると言い得るが、これに気づかない人間は割と多いものである。
この心(靈)の動きはローム太霊講話集第十六話の
“名誉欲などのために不思議の出来る人間になりたいというような考えは、決して起こすべきではない”
これの“名誉欲など”、低い功名心と自尊心、また目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望、これらに当たるものである。
これに関して太霊はローム太霊講話集第二十三話で
“いろいろな道の指導霊によって授けられる術は、鍛錬に鍛錬を重ねて初めて現れるものであるが、その反面には道に外(はず)れた術のあることも知っておかなければならない。例えば、年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくあるが、これは非常に危険なことで、さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多いから、この裏道の術には達者にならないようにしてもらいたいのである”
この“年功を積んだ動物霊などに可愛がられて急に力が付き有頂天になる人間がよくある”、これはスポーツやエンターテイメント、また憑依現象による一時的な霊能力の発現、これらなどによく見受けられる霊的干渉と言えます。
その結果として富と名声を得て自分の低い欲望(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)の欲望)を達成したとしても“さんざ弄(もてあそ)ばれた揚句に捨てられ悲惨な結果になる場合が多い”、これは富と名声のための“力”の行使、ということを自分自身が強く思う
=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)した結果の、感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、いわゆる霊的干渉であり、よってこれ事態がローム太霊講話集第三話の
“正統な神の操作によるものではなく、一部の奇鬼神や低級な霊達が自分の本能を満足させるために人間に物を与えてその欲望を利用するのである”
これに該当することとなる。
そこで太霊は上記第十六話の続きとして
“真に行ずる者は、それが天の使命であるかないかは別として…中略…自然に引かれる方向に向って一段一段と自分の業行を積み上げてゆくことが、自分に負わされた務めであるという自覚を確(しっか)りと持っていることが必要”
ということを述べておられ、これの
“自然に引かれる方向に向って一段一段と自分の業行を積み上げてゆくことが、自分に負わされた務め”
これが先に述べた
「その人の“それぞれの役目”(ローム太霊講話集第五十六話、先回の記事を参照の事)に応じた“行”と縁(霊縁)を付けることをしようとする」
これに該当することであるし、これ自体が“上”の采配、“神の采配”、“神の恩寵”、さらに自分自身が「神に近付こうとする」ことを教えられているので“神の恩恵”であることを理解すべきである。
次回は上記の“それぞれの役目”に応じた“行”と“修行”について述べることとします。