太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を理解するために“その二” 善悪を観るということ

 先回、智性の無い人間以下の動物の違いについて“善悪の認識と判別ができない”ということを述べました。

 また、平均的地球人は“動物的なあたまの持主”(ローム太霊講話集第二十一話の表記)であることも述べました。

 そこで、人間ならば“善悪”は判別しうる、ある程度理解も出来ている。 

その理由は、人間には多少、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)という心(靈)が発現しているからであるし、それは目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))の脳が地球上の生物の中で一番発達しているからでもある。 

 しかしながら人間にしか発現していないこの智性(神性)を行使していない心(靈)の動きは、“善”を無視して、著書やブログで幾度となく述べているように、自分に“悪”を容認し“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となるものであり、たった今ほとんどの地球人がこの段階の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)である。

 

それで著書やブログで述べていることとして、“善”とは神格化の方向性であり、その心(靈)の動きを行使するなら“上”(宇宙の中心、“創造”の“主(ヌシ)”の息吹、それと太陽)からの荷電粒子の振動、天意のうちの智性(神性)を構成する高い振動の受信になっていく。

これに相対する“悪”とは、“善悪”が判別できる人間の心(靈)が“善(神格化の方向性と智性の受信)”を無視しているのだから、先の高い振動の受信につながらない、それは心(靈)の動きの本能化であり、その心(靈)は人間である資質を失う方向性、それは智性(神性)を持つ人間の動物化であり、自らの心(靈)を構成する振動が低いものになるからこそ、自我より“下”の心(靈)の動き(本能、情動、功名心、自我)しかなくなっていく傾向となる。

これが平均的地球人を称した表現、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“善悪”を無視すること自体が自我の肥大でもあり、その心(靈)が行う所作は、“日月神示”表記の“石屋の仕組み”である。

それは、自分のことしかわからない、自分の都合の良いことしか思わない、他者に尊厳を持たない、自分の損得しかわからない、(通貨としての)金の奴隷になる、真実=真固止を知らず形骸のものしかわからない、その形骸のもの(たった今権威を示している政治、経済、既成宗教、天皇制etc.)に肖る(あやかる)などであり、こういった心(靈)は自分が獲得した“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を自分の損得勘定のためにしか行使しない。

 

そこで、人間においては、“絶対の善”、あるいは“絶対悪”という概念を当てはめることが出来えない、百パーセント悪人とか善人とかという概念も不適切である。 

たった今の地球人においては善人を目指していても多少の悪があったりする、同様に悪人でも良心があり多少の善意があったりもするものであるし、この良心や多少の善意というものが、悪を行使して死んだ人間であっても死後の世界において自省(胸の磁性“十”)の“行”をする理由となり、自省するからこそその心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性に向かうことが出来うる。

 

上記のように人間は、生きている、あるいは死んでいるにかかわらず、自分の自由意志で自分が“善”“悪”のどちらの心(靈)の動き、それ由来の行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)、これを選択することが出来うる。

ならば自分は、自分の“悪(心の動きの本能化と低振動化)”をいさめることが出来、“善(神格化の方向性と智性の受信)”の方向性の心(靈)の動きと行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)を選択することもできる。 

この“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を諌める心(靈)の動きが、自分の在り方を観るということであり、それは智性(神性)と自分に対する厳しさであるが、その真逆が、自分に対して甘い(亜、魔、出ずる、泉)ということであるし、自分に対して甘いというのが、悪魔に対しての認識(悟り、幸取=さとり)の無さ で述べてきたように自我が脆弱であり、脆弱であるがゆえに自我の肥大をしているので、自分がどう在るべきかをしっかり鑑みることが出来ない低度の低い心(靈)であるといいうる。

 

これらの心(靈)の動き自体が、人間として発現している智性(神性)であり、冒頭で述べたように智性(神性)があるからこそ人間には“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)を認識して判別することが出来、そのどちらかを自分に課すことが出来うる。 

 

こういったことは個人、個の心(靈)の自由なのですが、自由というのは、単にわがまま放題、好き勝手に何かを選択するということではなく、“自”は自分自身、“由”は理由の由、自分が選択したことは自分が選択したという理由により、その結果は自己責任である。

(ただし、霊的成長度の低い心(靈)が持つ“自由”に対する認識は、単に自分勝手、わがまま放題、という実に都合の良いものが多い)

 

それで、自分が“善(神格化の方向性と智性の受信)”に向かうか、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”に向かうか、これは、自分自身で選択することである。

これこそが人間が神に近づくことが出来うる最低の資質であると言え、それゆえに“観自在”“直日”自省(胸の磁性“十”)の“行”、そして“自分を観察する自分の確立”(自らの智性(神性)で自分の心(靈)と肉体を観て、そこにおいて自分の心(靈)の“上”と“下”を見出す)、これらが人間には必須であるということを述べておきます。