悪魔に対しての認識の無さ “その十三” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間、自我の脆弱な心(靈)は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない”
先回、自我が脆弱な人間は“保身”“我が身可愛さ”という心(靈)の動きが台頭することを指摘しました。
これは換言すれば、自分に厳しくなれない、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)が解っていても、自分にとって都合の良い方を選んでしまう…ということも述べました。
また、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が課した試練や課題、それから逃げる、あるいはごまかす、などの心(靈)の動きをすることも指摘しました。
こういった人間は、“上”が課した試練や課題に対して向き合わない、というよりも、向き合うことができない、またそれは、向き合う心(靈)の資質が足りなさすぎるものであるが、その理由は、自我が強化されていないからである。
仮に自我が強化されているならば、目前の事象に対し、どんなに嫌な苦しい目にあっていようとも、立ち向かおうとするものであり、立ち向かって初めて“上”が課した試練や課題の意味と意義を解っていくものである。
そしてそのこと自体が、なぜ自分がこんな目にあっているのか、これを考えること自体が自分と神の関係を理解し、目前の事象に“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)を見出すことにもなり、結果それは“ほんとう”を求める、真実=真固止を理解するということになりえる。
これらが、自分の心(靈)が育ったのだ、といえるのだが、自我が脆弱な心(靈)では、先に述べた通り、真摯に向き合うことができないということになり、逃げる、ごまかす、ということをする。
その心(靈)の動きは、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応し、ますます“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信は届かなくなる(振動の法則性としての感応が無くなるということ)。
そして苦痛や苦悩を忘れるために目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)由来の欲望を満たしたり、低い功名心や自尊心を満たそうとする(形骸の地位、あるいは形骸の“美”を追い求めるなど)ものである。
この“上”からの通信が届かない、この通信は目上(めうえ)(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)の脳で感応するものである。
その目上(めうえ)の脳を行使しているならば、自分がどう在るべきか、目前の事象に対し自分がどう振る舞うべきか、考えるものであり、これ事態が自我の強化につながることであるし、結果それは自分がどうしたら育つのか、ということを理解する、これにもつながるものである。
そこで初めて、進化が、心(靈)が育つ、それは霊的成長であり、神に近づくことなのだということを実感しうるものである。
これに相対し自我が脆弱ならば、先に述べた通り目下(めした)の心(靈)の動きが台頭する、その心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)という結果しかない。
また目前の事象の、“上”が課した課題や試練に対して、自分の成長を見出せないものである。
こんな心(靈)では、自分の存在意義、自分が進化したならば神に近くなっていく、などという考えもなく、あるいはそれを知識として知っていたとしても、自分に当てはめて考えることができない。
またそれは、自分に厳しくなれないものであるといえ、結果それは、生きている間に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の方向性を見出せない程度の低い霊的成長度の心(靈)でしかない、といえます。
さらにこういった、自我が脆弱、あるいは自我の肥大を起こしたまま死んでしまった人間は、真実=真固止を求めず、
さらに自省(胸の磁性“十”)が出来ていないから、悪霊となりうる資質、これが中心の心(靈)であると言い得ます。