悪魔に対しての認識の無さ “その七” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は宗教を腐らせ悪霊を増やしている”
宗教は、その宗教の開祖(仏陀、キリスト、マホメットなど)に“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が影響(“上”の霊的干渉)してできた。
(ただし、日本の神道に関しては開祖という存在は見当たらず、惟神(神でおわしますまま、神の御心(みこころ)のまま(であること)という概念があります。 これに関してアタシ的な言葉の使い方としては、神の思惑に沿った存在の在り方を(生死を問わず永遠に)鑑みること。 よってこの惟神、これも“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの通信であることは明白です)
その影響とは、通信を受けたり、苦難の多い人生を体験させて認識(悟り、幸取=さとり)を得させたり、あるいは直接の憑依で“上”の思惑を語ることをさせた。
そしてその開祖は、人間の在り方や霊的成長について伝え、それを知った人民は進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す。
また、幼稚な心(靈)のまま死んでしまった、さまよっている霊(心)の霊的成長のための祓い
(これは悪霊を除くと解釈されがちですが、その悪霊を自省(胸の磁性“十”)させる、自省(胸の磁性“十”)した心(靈)は悪霊ではなくなる、これが神道に伝わる“本津宮”(もとつみや)へ帰れ、の意味合いです)
や、供養
(これも間違った概念が伝わっている感がありますが、これは向うの事象に移行した心(靈)の霊的成長を願い、その霊的成長の援護としてお経や真言や呪文や祝詞などがある)
を教えた。
なぜ祓いや供養を“上”は教えたのか、それは恨みの連鎖の霊的干渉の軽減、あるいはその消失、のためという意味合いもあるのですが、たった今こういったことはただの儀式にすぎず、あるいは金儲けの道具にしかなっていない。
そして実際には、今の祓いや供養は悪霊に対して何の効力もないに等しい。
それは、これに携わる宗教関係者などが霊的成長の為の“行”を行なっていない、霊的成長度の高い人間が祓いや供養を行うならば、その影響
(霊的成長度の高いものの息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)、その息吹が与える影響は、高い霊的成長度のそれは霊が荷電粒子の回転であるがゆえに電圧、電流という要素があるがゆえ、影響を与えうるものである)
は、悪霊を自省(胸の磁性“十”)させ得る、そういった影響を与えうるものであるが、悪霊とほとんど同等の霊的成長度(目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈))である今の宗教関係者(神職、僧侶、神父、形骸に成り果てた天皇制に携わる人間)の多くは、祓いや供養を何のために行うのか考えたことすらない者が多く、その重要性も知り得ない。
そしてそれらは当然のことながら自身の霊的成長の為の“行”も行わず、あるいは霊的成長の概念すらない人間も多い。
そして今の宗教関係者は、恨みの連鎖の霊的干渉についてすら考えたことが無い者が多い。
よってこういった人間は、宗教関係者でありながら“ほんとう”の宗教の意味と意義を知り得ず、自分たちの金儲けと権威のための道具としてしか扱っていない。
(それは目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心の心(靈)であるからであると言いうる)
こういうふうにしか扱えないこと事態が、今の宗教関係者は心(靈)が育っておらず、それは幼稚化した心(靈)であり、これが今の当り前になっている。
この現状は“上”の思惑に沿っていない、当然のことながら“上”が望んだ現状ではない。 それは、人の霊的成長のための宗教ではない、恨みの連鎖の軽減のための宗教でもない。
さらに、こういった幼稚な心(靈)の程度の低い宗教関係者は、死んだら悪霊になってしまうものであるし、それに関わる信者も、結果として形骸になった宗教を通じて心(靈)は育たないので、幼稚な心(靈)のまま悪霊になる。
よって今の宗教関係者は、自分たちも含め、どんどん悪霊を増やしており、この罪を背負って次の世界に移行する、次の世界でその罪を贖う(あがなう)ということを、あえて付け加えておきます。