太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

悪魔に対しての認識の無さ “その五” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)が“創造”した事象における傾向 “幼稚化した人間は恨みの連鎖の霊的干渉の現象化を偶然と誤認する”

 先回の文末で述べたように、たった今、人間の幼稚化が台頭している。 その幼稚な心(靈)は、目前の事象に理由と根拠を求めない、あるいは“ほんとう”を求めないし見出すこともしないものである。 

 私事ながら、著書を出版して170人以上の方々から電話、メールで連絡をいただいた、あるいは直接ご来院いただきお会いしたりしましたが、そのほとんどの方々が恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、これについての理解が足らないか、あるいは読み飛ばしている=アタシの思想、考えと感応共振できるほど心(靈)が育っていない。 

 それでたった今、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は増え、益々はっきりとした現象となっています。 

 少し解り易い具体例を挙げれば、誰でもよいから殺したいという事件、アメリカの銃乱射事件などが理解しやすいが、この現象の裏側にある霊的干渉、どんな存在の憑依なのか、自分たちの“下”の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する存在とは…これに気付く人は情けないほど少ない。

 こういったことに気付かない心(靈)自体が、幼稚な心(靈)であると言え、上記事件など恨みの連鎖の霊的干渉の現象化の事例にはちゃんとした理由と根拠があることをアタシは述べて来ていますが、これを理解しえないでアタシの文章をエンターテイメントだと思ってしまう、あるいはアタシが出版した目的、意図、これが金儲けとか著書を出版して誉めそやされたいとかという解釈をされてしまう、こういった実に情けない人が多いものである。

 

 本題に戻り、幼稚な心(靈)は先に述べた通り、物事、目前の事象などに、理由と根拠を求めないし、その実情を理解しうる素地もない、結果それは“ほんとう”を求めない、求める資質の無い心(靈)と換言出来得る。

 そして表題にある通り、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化は、悪霊の憑依現象、悪霊との感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)、これを類推出来ない心(靈)は、上記事件を偶然の出来事であると片づけてしまうことが多い。

 しかしながら、不幸な死の事例、それは通り魔殺人であろうが、病気で死のうが、交通事故であろうが災害であろうが戦争だろうが…etc. あるいは先に例に挙げたように、誰でもよいから殺したい事件の被害者だろうが、銃乱射で命を落とす人だろうが、そこには必ずそこで死ぬべき理由があり、その人達はどんな因縁を背負っているのか、ということに考えが及ばないからこそ、それは偶然だ、と、思い込む傾向が強い。

 

 この“偶然”については、以前、読者会で取りあげたことがあります。 

 これに参加された読者の方々に対しアタシは総括を述べましたが、その要旨を以下にコピペさせてもらいます。

 

  書き込んでいただいた方全員が、平均的地球人にとって当たり前の概念であろう“偶然”という認識を持つこと自体が、自分にとって都合の良い思い方、勝手な考え、であると指摘していらっしゃいます。
 人間は、生きている間にさまざまな事象に遭遇する、様々な人間と出会う、これらすべてに自分に対しての教訓がある、何かを学ぶべきことがあるものですね。
 あるいは犯罪に巻き込まれてひどい目に遭う、極端な事例として殺されて地獄に行き、恨みの連鎖の霊的干渉の増大に手を貸す悪の霊団に加担して、それが終わってから、自省(胸の磁性“十”)の“行”をするケースもあるが、これは因縁を背負っている、という事例で、偶然ではありませんね。
 殺されるケースにおいても、因縁を贖う(あがなう)、恨みの連鎖の霊的干渉の現象化、その因縁の原因になっている霊的存在、先祖や、先祖と恨みつらみで連なっている霊的存在、これらの自省(胸の磁性“十”)にために子孫が殺される場合がある。
 いかなる事象においても、それを観た、体験した心(靈)は、必ず何かを学ぶ、学ぶことを避けたならば“神の咎め”としてひどい目に合わせることを“上”はさせるものでもある。
こういった認識を持つと、神と人間の関係ということに対しての理解が進んで行くものですね。
 “偶然”などという言葉は、低い段階における認識を表したものである、神と人間の関係を考えたことがない程度の低い心(靈)における認識である。 自分が進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指すなら、こんな低い認識を持ってはいけないし、進化をある程度果たした世界では、“偶然”という言葉も、その認識もない。
 また同様に、すべてが必然である、という認識に至ったならば、必要とか必然という言葉や認識もなくなることが考えられる、すべては当たり前であり、すべては必然であり、ずべてが自分たちの成長にとって必要である、という認識に至る、とも、思われますね。

 

引用終わり。

今回の記事を読んでいただいた方々には、自分が遭遇している、あるいは遭遇した一切の事象には理由と根拠があり、また、霊的干渉と無縁の事象など無いということを理解していただきたいものです。

 

次回も、恨みの連鎖の霊的干渉について述べることとします。