太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

悪魔に対しての認識の無さ “その二” 悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)になる心(靈)の動き

先回も引用した通り、ローム太霊はローム太霊講話集で

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

そして

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられます。 

そしてこの“神の気持”これを“自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい”これが人間として、在るべき心(靈)の動きであるとも、述べておられます。

 

 しかしながら、たった今のほとんどの地球人の霊的成長度の段階では、自分の損得や保身、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)由来の欲望の達成しか考えていない。 

 その考えは、(通貨としての)金が欲しい、形骸の名誉が欲しい、形骸の名誉を守りたい、本能由来の欲望を満たしたい(著書で述べた八戒(低い欲望に対する八つの戒め))ものである。

 また、保身や欲望の達成のための努力を自分にとって価値のあることと思いたがる低い功名心しか持ちえないものでもある。

 

 こういったことが自分たちの薄っぺらい価値観や幸福感になっており、それを達成したい、満たしたいからこそ、自分の心(靈)の中の良心を無視して、これはまっとうな事ではないと解っていながらも、“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認するものである。 

それは他者を、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをして、自分が思うまっとうではないことをして自分の損得を考え、目先の利益を得ようとする、このこと事態が“自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい”とは真逆であると言いうるが、こういったことを真剣に考える霊的成長度の人間も非常に少ないのがたった今の世界の実情である。

 

 また、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとかをしていくならば、“神の咎め”があるが、その咎めを受けてすら自分の在り方を思わない人間が多い。

それは、自分はこれでよいのだ、これは自分にとって必要な事なのだから…などと自分の良心に言い訳をして自分の心(靈)の中の“神の心”を無視する。

 こういった心(靈)の動きは自我の肥大によることであり、その心(靈)の動きゆえに“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”となるものでもある。

 

 こういったこと事態が、神から遠ざかることとなる、あるいは、そんなことはやめておけ、という“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の通信を受けても、それを無視して、自分はこれでよいのだ、これを行って欲望を達成するべきなのだ、という“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応してそれを優先する心(靈)の動きとなる。

 

 人間の心(靈)の動きは、神に近いか、悪魔に近いか、この二つしかないものである。

 言い方を変えれば“上”か“下”か、そのどちらかでしかないものであり、たった今の自分が、そのどちらに近い心(靈)の動きをしているのか、これを自分で判断し方向性を決めるのが智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)であり、どんなに霊的成長度が低い人間でも“一”=智性=1番目のオーラは観測され、それが、動物と違う点であることを著書でのべました。 だからこそ人間は動物と違い、“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を理解することが出来得るものである。

この、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)所以の心(靈)の動きを無視して、上記、自分に“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認して“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する。

それは、自分の心(靈)の中の“神の心”、程度の低い地球人の場合は、良心、と換言すれば解り易いが、これを無視しているものであり、その心(靈)の動きは、すでに悪魔の傀儡となっているものである。

 

 その悪魔の傀儡が行っている、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、これををした結果、たった今の世界、この現津(あきつ)、観察され得る事象が、どうなっているのか、次回はこれを具体的に述べることとします。