太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

神に対しての認識の無さ “その八” 平均的地球人の霊的成長度における神の概念は低すぎるということ

 ここまで「神に対しての認識の無さ」ということを述べ、それについては、ほとんどの人間がただ漫然と生きているだけであり、それは神を言葉でしか知らないし、真剣に、真摯に、考えないことが無い、鑑みたことが無い、自分にとって都合の良い神の概念を持ったりする、そして薄っぺらい神の概念は権力の行使に使われたりもするし、神の概念を間違えていることにすら自分で気付いていない…など、その認識の低さを指摘してきました。 

 それで、なぜ、ほとんどの人間が神に対して深く考えていないか、あるいは自分と神の関係について知ろうとしない、そのことを求めようとしないのか、また、神を理解しえないのか、それは自分にとって都合の良い神の概念しか持たないのか、これらは単に霊的成長度が低い、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が足らないからであるといえ、換言すれば、目上(めうえ)(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))(人(日止、霊止)の進化過程、智性(神性)の獲得と行使)が未発達である。 

 未発達がゆえに、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの低い部分としか感応しておらず、それはまだ動物に近い、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の段階の心(靈)の発現しかしていないからである。 

 ただし「神に対しての認識の無さ」は、平均的地球人の当り前であり、その低い概念は既成概念でもあり、また、自分たちが低いという認識すらないものでもある。

 それで、アタシが述べてきていること、平均的地球人が持っている神に対しての認識、それが低いという指摘が出来得る。 

 その指摘は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が強化された心(靈)でなければ出来得ない。 

 その理由として、平均的地球人よりも、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を、高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する心(靈)でなければ、平均的地球人の神に対する認識の低さを指摘することが出来ない。

 仮に平均的地球人と同等の霊的成長度ならば、その認識の低さを判別できないものであるといえる。

 

 アタシが長年行ってきた太陽凝視は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の獲得と強化のための厳しい“行”であり、智性(神性)が高まるからこそ、神に対してもこの事象〈現実〉に対しても平均的地球人とは違うものの見方をするようになり、さらにそこで自分の在り方を考えることが出来るようになってきた。 

 それは厳しい太陽凝視をここまで45年、“行”として行ってきて、その間にさまざまな事を考えた、考えたことはアタシ自身の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)になり、それに感応する“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の存在があった。

 また先に述べたように、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の、高い振動と感応し“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)してきた過程がある。

 

 余談になりますが、アタシの霊的成長度が“行”を始めた18歳の時から高かったわけではなく、何年も何十年も太陽凝視を行い、また電気行も行いつつ徐々に育ってきた。 

その育った段階(アタシの霊的成長度)に応じた“上”との感応があり、“行”を頑張れば頑張るほど“上”は通信を送り、贈ってきた。

 また、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、との感応も変化をして、高い振動を取り込み(“日止、霊止”)認識(悟り、幸取=さとり)は変容してそうやってアタシの心(靈)は育ってきた。 

 この「心(靈)が育つ」(進化(霊的成長、神格化に向かうこと))ということ。

 “行”を頑張り、目前の事象の意味を深く考える人間には、神は高い認識を獲得させようとするものである。

 これに相対し、頑張っていない人間には、程度の低い霊的干渉しかない、それは、自分たちの低い功名心と自尊心に感応する悪魔のささやきくらいしかないから、神の概念を間違えたりもしているものである。 

 アタシの心(靈)が育ってきた過程、そこで得られた結論としては、たった今、“続”で並行して行っている地震の巻で述べられていることに当該することが多いのですが、“創造”の“主(ヌシ)”も被造物である個の心(靈)も。すべてが神である(一切万象)。

“創造”の“主(ヌシ)”に対しての被造物であるわれわれは、神に近付く(弥栄)ことが存在の根拠と理由でもあるし、またそれが生命(生きる使命=存在理由)でもある。

また進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していけばいくほど、ただ歓ぶだけ、“大歓喜”となっていくものである。 

 その“大歓喜”という段階に移行するまでには、個の心(靈)が何回も転生を繰り返してたくさんの体験や学習をする、そこで認識(悟り、幸取=さとり)を獲得して、その認識を生かして自分の在り方を鑑みて“善(神格化の方向性と智性の受信)”を為していくし、ことに“地上世界”においては、善悪を見出すがために“御用の悪”というものがある。

これらの詳細については“日月神示” 地震の巻の解釈 を読んでいただき、多くの人に理解してもらいたいものです。

 

 それで、「神に対しての認識の無さ」、自分たちにとっての神とは…こういったことを考えない、考えたことすらない人間は、解り易いので何回も引用しますが、ローム太霊講話集 第二十一話の

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

である。

 これは先にも述べた通り、目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の心(靈)しか発現していない、これが平均的地球人の霊的成長度の段階、進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)であると述べておきます。

 

 次回からは、これもほとんどの人が真剣に真摯に考えたことが無いであろう、悪魔。

 そして悪魔の傀儡である“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の霊団(ローム太霊が述べた概念)との感応と、感応によって起きている事象、その現象化、これらに対しての認識の無さ、について述べていきます。