太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

神に対しての認識の無さ “その六” 「ばちがあたる」に対する認識の低さ

 表題の「ばちがあたる」、これで検索すると、悪行などに対して神仏の罰をうけること  罰が当たる、報いを受ける、天に罰せられる 、罰が下る、誰からというのではなしに悪行の報いを受けるさま、天罰が下る …などの解説が見られます。

 

 当たり前のことを述べますが、自分が生きている、生きている間に何かを一生懸命頑張る、その頑張る過程において、「ばちがあたる」ことがあり苦痛や苦悩を体験する。 

 その意味は何か? これが今回のテーマの裏にあることなのですが…

 

 その前に、大半の人間はただ漠然と生きているし、低い幸福感と本能由来の欲望しか持ちえない。

 そしてそれを達成するための努力をして、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を得てそれを自分のためだけに行使する。 

 こういった人間は“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”であり、“日月神示”表記の“ケダモノ”“獣”であり、ローム太霊講話集の第二十一話の、

親が勝手に産んだのだから俺は仕方なしに生きて勝手なことをするのだという、動物的なあたまの持主

であり、アタシの表現としては目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)中心の心(靈)の動きしか持ちえない霊的成長度の段階である。

 この段階の進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においては、自我が肥大しており、その心(靈)の動きゆえに自分の損得しか考えないし、自己保身のために、欺くとか騙すとか嘘をつくとか奪うとか、ということをする。

 こういったことが人間としてまっとうなのか?

 

 また、ほとんどの人間は「ばちがあたる」ということを知っているが、その意味を考えない。 換言すれば、ほとんどの人間は目前の事象に対し、その意味を考えない。

 それはただ何となく漫然と生きている、そして先に述べたように自分の欲望と低い幸福感の達成のためにしか努力しないし、こういった人間は自分が生きている意味、それ所以の自分の在り方、神と人間の関係、などを真摯に考えていないからこそ「ばちがあたる」ことについて勝手な理由付けをしたりもするし、保身のため、自分は悪くない、運が悪かった、などの勝手な理由づけや言い訳をしたりもする。

それは自分の人生に対し恭順ではないといえますし、また、“続”で述べた

“創造”の法則性としての、自己責任という要素

ということに理解が足らないといえます。

 

 さらに、アタシの著書の熱心な読者は「ばちがあたる」に対し、ローム太霊が伝えた概念、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということをあてはめて考えることが出来る筈ですが、一般の人たちは先に述べたように、ただ漫然と生きているのみであり、自分がなぜ生きているのか、自分の存在とは何か、ということを考えていない。 よって自分の在り方を考えないからこそ「ばちがあたる」ことが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配であり、“神の咎め”に該当することであると真摯に考えないし、こういった認識も低い。

 前後しますが、右往左往右往というのは、自分がこれまでやってきたことが失敗であり、“上”に認められていないからこそ、“神の采配”として「ばちがあたる」という事象に遭遇する。

 しかし、大概の人間はその霊的成長度の段階において自我が肥大しているから自分の失敗を認めない、認めようとしないものであり、それは失敗から教訓を得ようとしない、教訓を得させるのが“神の采配”だという認識が無いし、先に述べたように自分にとって都合の良い言い訳めいたことだけ考えようとするものである。

 その自分にとって都合の良い考え、これによる息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)は、どんな存在と感応するのか、これもアタシの著書の読者にはすぐ理解できることでしょうが、こういう考え方をする人間は“上”が認める“道”(時間の進行)“理(ミチ)”(法則性)に沿った生き方をしているとは言えないものである。

 

 すでにこのカテゴリーで引用したことではありますがローム太霊講話集の以下の文言を自分が認識(悟り、幸取=さとり)としていたならそれは、“上”の思惑に沿った生き方を自分自身が見出すものである。

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ちではないかと思う

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

(第二話 四方の祈り 東)

 

神が人間のために尽されるように、人間にも人間のために尽さして下さいと願う所と思えばよいのである。これは人間としては自分の使命を完成さしてもらう元であって、この北神の祈りは言葉にすれば、どうか今日も世のため人のために役立たせていただきたいということになる

(第六話 四方の祈り 北)

 

この“人間にも人間のために尽さして下さいと願う”、他者のためにも“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使する((アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者となる)。

 こういった“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の行使をしなければならないのだ、ということを「ばちがあたる」から考えうるのが、自分の在り方を観る(“観自在”)であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”より“上”の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を目指す指標になるものであると言い得ます。