太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 からお読みください。

新カテゴリー「“観察と認識”における“上”と“下”」を立ち上げるにあたって

 著書とブログにおいて“観察と認識”という表記をよく使います。 また“上”と“下”という表記も同様によく使います。 

 “観察と認識”とは、自分が(自分の心(靈)が肉体を通して)相対している一切の事象、これには自分以外、また自分の心(靈)の中、をも含め、常にそれらを、観て、感じ(感じる磁性)、思う、そして心(靈)が動く、その心(靈)の動きは行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に繋がるものであり、行動して新たな事象を“観察と認識”し、これに並行してその行動の理由と根拠たる自分の心(靈)の動きも、自身が“観察と認識”しており、さらに新たな思索にもつながるものである。 

 こういった行為自体は、一切の生命(生きる使命=存在理由)に共通であり、その一切の生命の霊的成長度の高低において“上”と“下”がある。

 “上”は“上”であればあるほど、霊的成長度が高ければ高いほど神に近いと言いうるが、“下”は単に霊的成長度が低い(動物に近い)か、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔に近い、と、定義づけていますが、これは真実と言いうることである。

  それで、平均的地球人の霊的成長度における“観察と認識”、それは一般常識、既成概念、価値観、幸福感、などに反映しています。 

 しかしながらこれらが低すぎる。 

 それは著書で述べている通り、智性(神性)無き心は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認し、自分の低い心(靈)を諌めることなく、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の欲望中心における損得しか考えていない。

 その結果としてこの星、地球を、恨みの連鎖の霊的干渉の盛んな場(フィールド)にしているものである。

 それは、人間と星の進化の低い段階としてこういう過程はあっても、こういったことは存続をしていかないものである。

 仮にそのままの状態が続くならば、地球上の一切の生命が死に絶え、死んだ生命である心(靈)は悪霊にしかなり得ないし、悪霊もいずれ自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくが、それでは次の進化過程(今後=アセンション後)に入る地球に存在することが許されない。

 先に述べたように(たった今の地球の現状)、程度の低い進化過程においては、自我の確立=固定化という心(靈)の進化の過程があるからこそ自分の損得のためにしか“力”を行使しないし、その損得のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得する。 

 だが、これ事態を“上”は容認していないものである。 

 それはこういったことを“上”の存在、“創造”の“主(ヌシ)”から地球を管理している神、これらが“観察と認識”をしている(天の御目(あめのおめ)の意味合いの一つ)からでもある。 

 よって霊的成長度の高低による区分け(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者)、アセンションという事象が起きうるし、これ事態が神の計画、というよりも、自分たちがやってきたことの結果を蒙る(こうむる)、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”であり、さらにこれも進化のための法則性(ローム太霊講話集における表記の“法(のり)”の一側面)である。

 

 前後しますが、自分がエネルギーを贖って(あがなって)獲得し、持っている“力”は、自分のために使うのも大事。

 だが“力”は他者への奉仕も考えて使うべきである(“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉))。こういった発想自体がたった今の地球人には足らなさすぎるものであるし、この自分の損得しか考えない霊的成長度の低い人間(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”)人間だけでは、先に述べたとおり一切の生命が死に絶えるが、これは神の意図とは違うものである。 

 この神の意図についてはローム太霊講話集、第二話の

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

が理解しやすいし、これに対しローム太霊は

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられますが、霊的成長度の低い人間には、目先の欲望の達成のための損得しか考えていないので“人間の心の中にもあり”…ある筈の“この神の気持ち”など無視しているものであるし、これこそが自分が少しだけ持っている智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を自分の心(靈)の動きに活かしていないものである。

 

 それでアタシ自身の“観察と認識”、この事象一切を観て思うこと、長年の太陽凝視で平均的地球人よりも多少智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が高まったので、序文で述べている通り

 

ものの観方の変化と思想や思考の変容があり、さらに心(靈)が育った=霊的成長をある程度果たしたことによる“上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したことであり、結果としてその認識(悟り、幸取=さとり)を述べること事態は、ローム太霊講話集の第十八話で太霊が“天仙”に関して述べられておられる以下の文言、

衆生済度とか真理の探究

(注、衆生は生きとし生けるもの、人間を含むすべての生命、済度は迷う衆生を悟りの境地に導くこと)

これに相当するものであるという自負を持っておりますし、これ自体がアタシの生きている間の使命であると思っております” 

この““上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したこと

これを述べていく。 

 これがこのカテゴリーの“上”と“下”の意味合いであり、これからしばらくこういった事柄を趣旨として、アタシの認識(悟り、幸取=さとり)を述べていきたいと思っております。