太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

自凝(おのころ)の強化 “その二十五” 1番目のオーラの強化

 先回述べたように、生業(なりわい)の“行”においては頭のオーラはせいぜい2cmぐらいにしかなり得ない(ただし2cmの頭のオーラを持つならば、平均的地球人としてはかなり苦痛や苦悩を味わって育っている方ではある)。

 この低い砌(みぎり)の“行”といいうる生業(なりわい)の“行”が中心の人生から、右往左往と左往右往を繰り返し、自分が間違っていたならば“神の咎め”を受け自省(胸の磁性“十”)する、あるいは生業(なりわい)の“行”において自分の思い通りにならない、あるいは失敗を体験する、なぜ失敗したのだろうか…これらのことを鑑みて、神は存在するのではないか、これが神と人間の関係ではないか、これは神が自分に課した試練ではないか、この試練で自分は育っているのではないか、と“上”の存在を意識し始める。

 こういったことをおぼろげながら考え始めるならば=自省(胸の磁性“十”)した心(靈)で息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)していくならば、それ自体が自分の心(靈)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している様々な霊的存在のうちの“上”との感応になっていくものである。 

 

 前後しますが、低い砌(みぎり)の“行”、生業(なりわい)の“行”を頑張っているうちは、ただただ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使するための存在としか感応しない、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の要素もありますがそれ中心ではない場合が多く、単なる憑依現象であることが多い。 

 それはまた、2~3番目のオーラの“行”をしている段階では、その人は霊媒体質であることが多いので、憑依した存在の思惑(多くは動物霊や因縁靈など、そのうち特に“力”を持った存在をローム太霊が述べた奇鬼神と分類してもよい)通りに動いているケースがままある。 その具体例として非常に解りやすい例を挙げれば、若くしてスポーツで活躍し(通貨としての)金と名声を得る、最近の例で解りやすいのは将棋で活躍した10代の人など、こういった人の人生の後半は、必ず脾=“思う、憂う”の強化になっていく、そうしなければその人の心(靈)は育たない。

 

 話を戻し、人生においての右往左往と左往右往において神に対する認識が高まっていくならば、その高まった認識由来の自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と感応する存在は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)であり、低い砌(みぎり)の“行”で得られなかった認識(悟り、幸取=さとり)を得させようとこれまでとは違う課題を与えるものである。

 また自分の心(靈)を構成している“上”からの振動、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を始めていくものである。 心=霊は、“上”からの振動の取り込みによって形成されているものである。

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その高い振動の取り込みに、肉体の日足(ひたり)の極性が必須である。

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 この高い振動との感応、その取り込み、それにより心(靈)が育っていく、ある程度心(靈)が育ったならばまた人生において“上”はその育った心(靈)に応じた課題を与え(“神は乗り越えられない試練は与えない”、S会=紫光会の交霊会で幾度となく述べられた文言の意味合いの一つ)、苦痛と苦悩を与え悩ませて日足(ひたり)の極性を強くさせることをする。

 それは、神に近付くにはとても長い道(“道”(時間の進行))があるからこそ、この右往左往と左往右往を繰り返すものではあるが、ある程度育ったならば、生業(なりわい)の“行”における程度の低い“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の認識とは違い、神と人間、神とは何か、神の子である自分とは何か、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは何か、について考え(“理(ミチ)”進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性)、その考えを認識(悟り、幸取=さとり)として自分の生き方、存在の在り方、これに対し活かそうとするものである。

 

 その段階に入って、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”=太陽凝視をすると、目で取り込んだ光、そして光以上の高い振動(これら一切が神の思惑を情報として伝える手段でありそれはまた荷電粒子である)が、視神経を流れる通常とは違う強固な生体内電流となり、目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化、タンパク質の高分子化による電気特性の変容を励起し、これは左右の大脳半球の電気容量の変化と言え、結果として目上(めうえ)の脳の水平磁場の強化になり、

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脳自体の水平磁場の強化、それは円形粒子加速器の構造の強化、頭部においてのシンクロトロン放射となり得るものである。

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これらのことを経ていきながら、人生において真摯な太陽凝視を行うならば、神の思惑という情報を含んだ可視光線以上の振動を取り込み“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)し、取り込みながら心(靈)は動き、さらなる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をするものである。

 

 また、この目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化、自凝(おのころ)、このために太陽凝視はあり、太陽凝視が進めば進むほど心(靈)は育ち、自分自身、神、そして“観察と認識”をする対象の事象、これらに対する認識は高まり、さらに神と人間の関係を理解していく、その具体的な方法であるといえ、またそれは最近“続”で解釈を終えた荒の巻の表記、

“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”

この“答(トー)”であると言い得ます。