太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

自凝(おのころ)の強化 “その二十二” 自我における日足(ひたり)の極性の発現

先回述べたとおり、肝=“いきり立つ心(奴と心)”、腹における心(靈)である自我の砌(みぎり)の極性で生業(なりわい)の“行”を頑張る(元の気を張る)のは、(通貨としての)金が得たい、名誉や名声を得たい、その裏には物質欲、本能由来の欲望(美食の賛美、性的な欲求)の達成などがあり、低い“幸福の概念”に由来することでもある。

 

これは人間として高い心(靈)で行動しているのではないし、これ自体が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)の思惑の顕現、それは“どういうつもり”で事をなすのか、に相当することであり、この段階の生業(なりわい)の“行”は、人間が持つ自我よりも高い心(靈)の、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”、これらの獲得にはつながりにくいか、全くつながらないものである。

 

 こういった人間が大多数なのがたった今の地球の現状であり、この世界には奪い合いと騙しあいが横行しているが、それを容認している人が大多数なのが今の事象でもあるし、これを変えていくこと事態が、霊的成長度の高低における区分けであるアセンションの意義でもある。

 

 それで神は、人に奪い合いと騙しあいの世界の“創造”を望んでいるわけではないが、この奪い合いと騙しあいをしていかなければ、善と悪の認識(悟り、幸取=さとり)を確たるものとできない事情がある。

よって、この低い心(靈)の動きによる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をある程度行わせるものである。 

 

また、このこと事態は、程度の低い者は程度の低いなにかを求め実現しようとして自分のエネルギーを贖う(あがなう)ということであり、平均的地球人の生業(なりわい)はこれがほとんどを占めているものである。

 

 しかしそれではローム太霊がローム霊訓講話において述べた(ローム太霊講話集第二話)、

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”、

 

この“神自身の本当の気持ち”を人間に実現させることにはなり得ないものであり、奪い合って自分だけが得をするという心(靈)の動きはこの世界を崩壊させ最終的に殺し合いにしかなり得ないものであることを著書で述べましたが、これが右往左往と左往右往右往、“上”から観て腹における荷電粒子の右回転、それは砌(みぎり)の心(靈)の動きだけで行動していることに相当するものである。

 

 この右往だけでは心(靈)が育ったとはいえないから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、生業(なりわい)において失敗させる、トラブルを経験させる、という試練を課すものである。

 

 その際には、自我における日足(ひたり)の極性、脾=“思う、憂う”が強まるので、“上”から観て腹における荷電粒子の回転は左回転となる。(左往) 

これに関しては“日月神示”を読んで気づいたことなので“日月神示”の表記の説明画像を以下に貼っておきます。

 

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 また全身においての日足と砌(ひたりとみぎり)の極性について“続”で使った画像を以下に貼っておきます。 (“日月神示”表記の“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)

 

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 これに関してはこの文章を読んだだけで理解しにくいでしょうから具体例を一つ、スポーツ選手がよい結果を出している期間があってもその後スランプなどに陥る、この時のスポーツ選手の苦悩そのものがその人間の心(靈)を育てようとする“上”の課した試練であり、その苦悩があってこそ心(靈)は育ち、さらに良い成績を収める、あるいはスポーツ選手とは違う人生を歩む、という結果になる。

同様のこととして、例えば事業を起こし最初はうまくいっている

砌(みぎり)の“行”を“上”はさせているが、それはいつまでも続かず問題が起きたりして窮地に追い込まれる

“上”が試練を課して日足(ひたり)の極性の強化の“行”に入る

 

など、実際の事例に当てはめたらきりがないですが、何事も自分たちにとって都合の良いことばかり起きると言うことは続かず、必ず何かが起きて苦悩する。

これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配として苦悩させるものであるが、この苦悩が日足(ひたり)の極性の強化となっているものであり、自我より“上”の心(靈)を育てようとする“上”の采配であるということになり得ます。

 

次回は、日足(ひたり)の極性による心(靈)の発現と変容について述べることとします。