おのころの表記の意味
今回も、おのころについて述べます。
先回文末で述べたように、古事記の表記では淤能碁呂島(おのごろじま)、日本書紀では磤馭慮島(おのころじま)、そしていつごろからか、自凝島(おのころじま)という表記が(おもに神社の名前として)使われるようになった(これについては調べましたが分りませんでした)。
まず古事記の“淤能碁呂”この表記の意味合いは、
淤は、泥(“石”(帯電するミネラル))などで詰まる、ふさがる
能は、はたらき、何かを成し遂げる力、能力、才能のそれ
碁は、碁石の碁、規則正しく並んだもので小さいものの意、これは結晶化と言いうる
呂は、人の背骨が連なる象形の意、よって縦の磁束をも意味し、荷電粒子の回転を示す(神=示す偏(へん)と呂、そして呂は、頭と腹のエネルギーの回転を示す表記、頭と腹は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)によって結ばれている
これらのことを鑑みて、泥=“石”(帯電するミネラル)が詰まってふさがって充満して結晶化し、縦の磁束を構成して荷電粒子の回転を励起(能)している様子を示しているのだと思います。
次に日本書紀の“磤馭慮”この表記の意味合いは
磤は、“石”(帯電するミネラル)と、殷=盛ん、大きい、多い、豊か、など
馭は、馬を使いこなしあつかうの意、あやつる、統べる(すべる、統御)、おさめる(収める、納める、治める、修める、の意
慮は、考える、思う、おもんぱかる(慮る)、思慮をめぐらす、などの意
よって、“石”(帯電するミネラル)が多く豊かになり、それが統御されたなら、考える、思う、などの心(靈)の動きが発現するの意、であると思われます。
この古事記と日本書紀の表記は、漢字の違いこそあれ、生物の進化、心(靈)の発現について説かれているものであるとの解釈をしております。
また、生物の進化は、生体物質の寄り集まり、それが自凝(おのころ)した、自ら凝り固まったものであると表現されているのは、先回まで説明してきた生体物質、これが、水、水素、アンモニア、メタンなどが複雑な有機分子になり、その分子の大きさも大きくなった、また、生体物質が寄り集まり原核生物が登場した、さらに、原核生物からの進化は真核生物(真正細菌と古細菌以外のすべての生物、当然人間も含む)になっていった。
これは有機分子が寄り集まり、凝り固まっていく、自凝(おのころ)する、これが進化、生命が神に近くなっていく過程である、と言いうることが出来ると思います。
それで複雑な有機分子が自凝(おのころ)して、原核生物が発現した、これは球形ですが真円ではない、よって物質が持つ電気特性が必ずどこかに偏るものであるし、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを受けて起きる電気的変化も、必ず偏るものである。
これを示した画像(“改”で既出)を以下に示します。
そして原核生物から真核生物への進化では、その細胞の大きさの変化があり、原核生物の細胞の大きさは1~10μm程度ですが、真核生物の細胞は数μm~数十μm。体積にすると1000倍もの違いになり、これはまた物質が持つ電荷の増大が進化に伴って起きていると言い得ます。
要は、下等な進化過程の生命を見ても、電気特性の変容、特に細胞の大きさによる電荷の増大があり、それはまた細胞の磁束の変容と同義である、これによって何が起きていくのかは、次回説明することとさせてもらいます。