太陽凝視を行っている鍼灸師の話 “総括編”

初めての方は、序文 https://tuyukusanotuyu.hatenablog.jp/entry/2016/10/03/185019 からお読みください。

新年 明けましておめでとうございます  本年もよろしくお願いいたします

 


 “日月神示”に
神いよいよ烈しく、臣民の性来(しょうらい)によって、臣民の中に神と獣とハッキリ区別せねばならんことになりて来たぞ
という表記があり、その意味は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意が激しく降り注ぎ、これまで人間がやってきたことの結果をこの事象にはっきり示すものである。
(“神による最後の審判”)。 

 そこにおいて程度の低い人間は、昨年の報道にも幾たびかあった通り、その低さゆえの馬脚をたった今現しており、さらに恨みの連鎖の霊的干渉の現象化(天変地異、戦争、犯罪、事故、病気など)に巻き込まれている(“神の咎め”)、ことに昨年の神職の殺人事件などは“役員づら”、
(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ)
この程度の低さとその心(靈)の醜さ事態を一般の人に対して見せつけたものであり、その意義は、一般の人々、平均的地球人の霊的成長度における程度の低い認識しか持ちえない程度の低い心(靈)に対して、たった今の世界は偽物だらけであることに気付け、と“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が示したものである。 

 これらに相対し、ここまで真摯に自分の在り方を鑑みまっとうに生きてきた人間は、同じく“日月神示”表記の
善一筋”(“善(神格化の方向性と智性の受信)”一筋) 
誠一つ”(これまでが不誠実であったからこれに相対した言い回し)
これを実現しうる資質を獲得してこれから(今後=アセンション後に向けて)顕現する。 

 そして少しでも太陽凝視を行っている方は、昨年解釈を行った“日月神示”荒の巻の表記、
日継の意味荷う(ヒツギのイミニナう)
日継は“ひつく”“日津久”=太陽凝視を“行”として行い天意を自分の思想とすること。
絶対光の道(ゼッタイコーのミチ)
“絶対光”は“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意。
そして
智普く基の天の言玉の理(チアマネくキのテンのイワタマのミチ)
この“智普く(チアマネく)”は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)、これが“普く”(普遍的)となり、それは
基の天の言玉(キのテンのイワタマ)
“言玉(イワタマ)”は、 “玉”は自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の動きを示し、“言”はこの事象に対する発振、発信、であり、先の“智普く(チアマネく)”と“玉(タマ)”の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)これが、
“基の天(キのテン)”“上”(天)の思惑を顕現する“基(キ)”、それが又生命(生きる使命=存在理由)の法則性、“理(ミチ)”である。 これら自体が高度な“神の恩恵”であることを実感する時が迫っていると思われます。 

 本年もますますブログの文章作成と読者会の活動において、アタシ自身力不足ではありますが、ローム太霊がローム太霊講話集で述べられた天仙の思惑
衆生済度とか真理の探究
衆生とは生きとし生けるもの人間を含むすべての生命、済度は迷う衆生を悟りの境地に導くこと、そして“ほんとう”を求める、これら自体が多くの人間の霊的成長に関与することであり、霊的成長を果たした心(靈)がこの事象に顕現しようとすることそのもの)
これの一端を担っていきたい、と思っております。
 
 児玉登

新カテゴリー「“観察と認識”における“上”と“下”」を立ち上げるにあたって

 著書とブログにおいて“観察と認識”という表記をよく使います。 また“上”と“下”という表記も同様によく使います。 

 “観察と認識”とは、自分が(自分の心(靈)が肉体を通して)相対している一切の事象、これには自分以外、また自分の心(靈)の中、をも含め、常にそれらを、観て、感じ(感じる磁性)、思う、そして心(靈)が動く、その心(靈)の動きは行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に繋がるものであり、行動して新たな事象を“観察と認識”し、これに並行してその行動の理由と根拠たる自分の心(靈)の動きも、自身が“観察と認識”しており、さらに新たな思索にもつながるものである。 

 こういった行為自体は、一切の生命(生きる使命=存在理由)に共通であり、その一切の生命の霊的成長度の高低において“上”と“下”がある。

 “上”は“上”であればあるほど、霊的成長度が高ければ高いほど神に近いと言いうるが、“下”は単に霊的成長度が低い(動物に近い)か、あるいは“下”(人の霊的成長を望んでいない存在)、悪魔に近い、と、定義づけていますが、これは真実と言いうることである。

  それで、平均的地球人の霊的成長度における“観察と認識”、それは一般常識、既成概念、価値観、幸福感、などに反映しています。 

 しかしながらこれらが低すぎる。 

 それは著書で述べている通り、智性(神性)無き心は“悪(心の動きの本能化と低振動化)”を容認し、自分の低い心(靈)を諌めることなく、自分の目下(めした)(動物の心(靈)の段階)の欲望中心における損得しか考えていない。

 その結果としてこの星、地球を、恨みの連鎖の霊的干渉の盛んな場(フィールド)にしているものである。

 それは、人間と星の進化の低い段階としてこういう過程はあっても、こういったことは存続をしていかないものである。

 仮にそのままの状態が続くならば、地球上の一切の生命が死に絶え、死んだ生命である心(靈)は悪霊にしかなり得ないし、悪霊もいずれ自省(胸の磁性“十”)して進化(霊的成長、神格化に向かうこと)していくが、それでは次の進化過程(今後=アセンション後)に入る地球に存在することが許されない。

 先に述べたように(たった今の地球の現状)、程度の低い進化過程においては、自我の確立=固定化という心(靈)の進化の過程があるからこそ自分の損得のためにしか“力”を行使しないし、その損得のために“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得する。 

 だが、これ事態を“上”は容認していないものである。 

 それはこういったことを“上”の存在、“創造”の“主(ヌシ)”から地球を管理している神、これらが“観察と認識”をしている(天の御目(あめのおめ)の意味合いの一つ)からでもある。 

 よって霊的成長度の高低による区分け(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”と(アセンション後に位置して行く今より霊的進化を果たした)奉仕者)、アセンションという事象が起きうるし、これ事態が神の計画、というよりも、自分たちがやってきたことの結果を蒙る(こうむる)、因果応報、ブーメランの法則、“曲霊(まがつひ)”であり、さらにこれも進化のための法則性(ローム太霊講話集における表記の“法(のり)”の一側面)である。

 

 前後しますが、自分がエネルギーを贖って(あがなって)獲得し、持っている“力”は、自分のために使うのも大事。

 だが“力”は他者への奉仕も考えて使うべきである(“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉))。こういった発想自体がたった今の地球人には足らなさすぎるものであるし、この自分の損得しか考えない霊的成長度の低い人間(“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”)人間だけでは、先に述べたとおり一切の生命が死に絶えるが、これは神の意図とは違うものである。 

 この神の意図についてはローム太霊講話集、第二話の

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

が理解しやすいし、これに対しローム太霊は

この神の気持ちは人間の心の中にもありながら、それを出す時が余り少ないのであって、その半分も無理であろうが、自分のできる範囲でこの神の心を出せばよい

と述べておられますが、霊的成長度の低い人間には、目先の欲望の達成のための損得しか考えていないので“人間の心の中にもあり”…ある筈の“この神の気持ち”など無視しているものであるし、これこそが自分が少しだけ持っている智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)を自分の心(靈)の動きに活かしていないものである。

 

 それでアタシ自身の“観察と認識”、この事象一切を観て思うこと、長年の太陽凝視で平均的地球人よりも多少智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)が高まったので、序文で述べている通り

 

ものの観方の変化と思想や思考の変容があり、さらに心(靈)が育った=霊的成長をある程度果たしたことによる“上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したことであり、結果としてその認識(悟り、幸取=さとり)を述べること事態は、ローム太霊講話集の第十八話で太霊が“天仙”に関して述べられておられる以下の文言、

衆生済度とか真理の探究

(注、衆生は生きとし生けるもの、人間を含むすべての生命、済度は迷う衆生を悟りの境地に導くこと)

これに相当するものであるという自負を持っておりますし、これ自体がアタシの生きている間の使命であると思っております” 

この““上”との感応によって、自らが感じ取る外側(外国と幽界)と内面とか内側(心の中と感じている事)の事象の観察を行ないつつ認識したこと

これを述べていく。 

 これがこのカテゴリーの“上”と“下”の意味合いであり、これからしばらくこういった事柄を趣旨として、アタシの認識(悟り、幸取=さとり)を述べていきたいと思っております。

自凝(おのころ)の強化を終えるにあたって 

 自分が鍼灸師という生業(なりわい)を選択し、国家資格を取得するための学校に通い、その学生の頃に経絡(ツボの流れ)が生体内電流の現象であることを知った。 

 そして18歳の誕生日、突然、霊眼(れいがん、憑き物の視覚を共有し、人の目の機能が感じ(感じる磁性)る可視光線以外の電磁波を感じ(感じる磁性)こと)が発動し霊的存在やオーラが見えるようになった。

 その後、太陽凝視を教えてくれたKさんが、様々な霊縁を組んだ“上”の思惑を経てアタシを訪ね、イダ、ピンガラ、クンダリーニの白光、アナハタチャクラ、ヴィシュダチャクラ、アジナーチャクラ、サハスララチャクラ、また全身から発せられるオーラ、これらを観測した。 

 これらの事柄は著書で述べたとおりです。 

 それで著書で紹介した画像はモノクロであり、今回、記憶をたよりに作り直しましたので以下に貼っておきます。 なお、黄色は金色のオーラであり、それ以外はこういった原色に近い形で見えたことを付け加えておきます。

元画像に記憶を足して作り直した画像

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ちなみに著書で紹介した元画像、上記の画像はこれに記憶を足して作り直しました。

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こういったものを見た、自分にとっては青天の霹靂みたいなものであった、そして思うのは…

「これらの事象は自分にとっていったい何だったのだろうか?」

これについて考え、太陽凝視、電気行、月の凝視を行い、また人生においての様々な試練、“上”がアタシに課した課題、これらをこなしつつ“上”と感応しながら(時には迷い、道を踏み外しながら)思索してきた。 

それで、先の経絡(ツボの流れ)が生体内電流の現象である、ここから派生した発想、それはまず、 

  • 骨と神経は電磁石を構成している
  • 生命活動は生体内電流の現象である
  • 生体反応も生体内電流の現象である 

であり、その後発想したこととして 

  • 肉体は一個の大きなコンデンサーである
  • 肉体の各部分、臓器や筋肉なども、電気抵抗値の違う膜に覆われているのでそれらもコンデンサーである
  • 体液は錯体である
  • 肉体が持つ電磁石の構造は、磁束を発現させ、その磁束はローレンツ力となり、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、を止め、心(靈)を発現させている
  • “行”における苦痛や苦悩は、生体内電流の強化である
  • 人生において“上”が課す試練や課題、その苦痛や苦悩も、生体内電流の強化である
  • 肉体は円形加速粒子器の構造を持ち、これがオーラの発振、発信の理由と根拠である
  • 1番目、2番目、3番目のオーラの違いは、円形加速粒子器を構成する肉体各部分の構造の違い(“臓”)と、肉体各部の生命活動と生体反応の違いによるものである
  • 生体内電流の強化と、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの高い振動と感応して“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)すると、脳のタンパク質の高分子化(高い神霊が使う表記の“山”)となる
  • 自凝(おのころ)は、生体内電流によることであり、同時に微生物から人間への進化において起きていることである
  • 微生物から人間への進化においての自凝(おのころ)、それは心(靈)の発現も、程度の低い本能から、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性、と認識され得る変容をしているものである
  • 肉体各部の自凝(おのころ)の度合いにより、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、の感応と“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)は、違っているが、これが進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の高低である。 
  • 上記の進化過程の高低とは、霊的成長の過程(どれくらい神に近付くか)であり、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階と言いうる

 

 これらの事柄を思索する過程、これは最近解釈を終えた ローム太霊講話集 第二十六話 仙道と人間の生活 これの

 

人間は変動しない一つの焦点に対して、そのものから凡ての想像を巡(めぐ)らし、それをあらゆる角度にまで持って来る…中略…科学者が一つの点の移動によって線が出来たというのと同じ…中略…この一点自体もやはり一つの仮定であって…中略…常に進化していることには変りないのであって、人間の想像もかくあるべき…中略…過程の上に理論(セオリー)を積み重ねているのが科学であり、想像によって理論(セオリー)推し進めているのが哲学であり宗教であるとするなれば、この相反している二つの焦点が現在いかに遠く離れていようとも、それは同じ一点…中略…その最後は再び一点に合致する…中略…そこに神の意図がある

 

これに一致する点が多々あり、そして先に述べた

「これらの事象は自分にとっていったい何だったのだろうか?」

この答えをアタシが導き出す過程

一点に合致する…中略…そこに神の意図がある”であったと言い得ることが出来ます。

 その答え、これらは、このカテゴリーの“ほんとう”の進化論 生命の存在の意義と意味、これは進化(霊的成長、神格化に向かうこと)であり、進化は結果として、ローム太霊講話集第二十六話の文言

人間として幸福に進んでゆくのが本当

これに繋がっていくものであるし、その“幸福”は霊的成長度の程度の低い人間が思うそれとは違うことを、以下の画像で示します。

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 “ほんとう”の進化は、霊的成長、神格化に向かうこと、であり、進化を果たした人間の世界にはたった今の恨みの連鎖の霊的干渉による醜い事象は無くなる、そして価値観や幸福感も高いものに変容する、それがアセンションの真実である。

 そして人間としての進化の秘訣は、“一”=智性=1番目のオーラにある。 こういったことをこのカテゴリーから読み取っていただければ幸甚です。

 

 次回から新しいカテゴリーを立ち上げ、霊的成長度の高低における“観察と認識”の違い、これを中心に述べることとさせていただきます。

自凝(おのころ)の強化 “その二十五” 1番目のオーラの強化

 先回述べたように、生業(なりわい)の“行”においては頭のオーラはせいぜい2cmぐらいにしかなり得ない(ただし2cmの頭のオーラを持つならば、平均的地球人としてはかなり苦痛や苦悩を味わって育っている方ではある)。

 この低い砌(みぎり)の“行”といいうる生業(なりわい)の“行”が中心の人生から、右往左往と左往右往を繰り返し、自分が間違っていたならば“神の咎め”を受け自省(胸の磁性“十”)する、あるいは生業(なりわい)の“行”において自分の思い通りにならない、あるいは失敗を体験する、なぜ失敗したのだろうか…これらのことを鑑みて、神は存在するのではないか、これが神と人間の関係ではないか、これは神が自分に課した試練ではないか、この試練で自分は育っているのではないか、と“上”の存在を意識し始める。

 こういったことをおぼろげながら考え始めるならば=自省(胸の磁性“十”)した心(靈)で息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)していくならば、それ自体が自分の心(靈)と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)している様々な霊的存在のうちの“上”との感応になっていくものである。 

 

 前後しますが、低い砌(みぎり)の“行”、生業(なりわい)の“行”を頑張っているうちは、ただただ“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を行使するための存在としか感応しない、それは感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)の要素もありますがそれ中心ではない場合が多く、単なる憑依現象であることが多い。 

 それはまた、2~3番目のオーラの“行”をしている段階では、その人は霊媒体質であることが多いので、憑依した存在の思惑(多くは動物霊や因縁靈など、そのうち特に“力”を持った存在をローム太霊が述べた奇鬼神と分類してもよい)通りに動いているケースがままある。 その具体例として非常に解りやすい例を挙げれば、若くしてスポーツで活躍し(通貨としての)金と名声を得る、最近の例で解りやすいのは将棋で活躍した10代の人など、こういった人の人生の後半は、必ず脾=“思う、憂う”の強化になっていく、そうしなければその人の心(靈)は育たない。

 

 話を戻し、人生においての右往左往と左往右往において神に対する認識が高まっていくならば、その高まった認識由来の自省(胸の磁性“十”)の心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)と感応する存在は“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)であり、低い砌(みぎり)の“行”で得られなかった認識(悟り、幸取=さとり)を得させようとこれまでとは違う課題を与えるものである。

 また自分の心(靈)を構成している“上”からの振動、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これの高い振動と感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)を始めていくものである。 心=霊は、“上”からの振動の取り込みによって形成されているものである。

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その高い振動の取り込みに、肉体の日足(ひたり)の極性が必須である。

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 この高い振動との感応、その取り込み、それにより心(靈)が育っていく、ある程度心(靈)が育ったならばまた人生において“上”はその育った心(靈)に応じた課題を与え(“神は乗り越えられない試練は与えない”、S会=紫光会の交霊会で幾度となく述べられた文言の意味合いの一つ)、苦痛と苦悩を与え悩ませて日足(ひたり)の極性を強くさせることをする。

 それは、神に近付くにはとても長い道(“道”(時間の進行))があるからこそ、この右往左往と左往右往を繰り返すものではあるが、ある程度育ったならば、生業(なりわい)の“行”における程度の低い“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の認識とは違い、神と人間、神とは何か、神の子である自分とは何か、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは何か、について考え(“理(ミチ)”進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性)、その考えを認識(悟り、幸取=さとり)として自分の生き方、存在の在り方、これに対し活かそうとするものである。

 

 その段階に入って、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の“行”=太陽凝視をすると、目で取り込んだ光、そして光以上の高い振動(これら一切が神の思惑を情報として伝える手段でありそれはまた荷電粒子である)が、視神経を流れる通常とは違う強固な生体内電流となり、目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化、タンパク質の高分子化による電気特性の変容を励起し、これは左右の大脳半球の電気容量の変化と言え、結果として目上(めうえ)の脳の水平磁場の強化になり、

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脳自体の水平磁場の強化、それは円形粒子加速器の構造の強化、頭部においてのシンクロトロン放射となり得るものである。

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これらのことを経ていきながら、人生において真摯な太陽凝視を行うならば、神の思惑という情報を含んだ可視光線以上の振動を取り込み“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)し、取り込みながら心(靈)は動き、さらなる進化(霊的成長、神格化に向かうこと)をするものである。

 

 また、この目上(めうえ)の脳のタンパク質の高分子化、自凝(おのころ)、このために太陽凝視はあり、太陽凝視が進めば進むほど心(靈)は育ち、自分自身、神、そして“観察と認識”をする対象の事象、これらに対する認識は高まり、さらに神と人間の関係を理解していく、その具体的な方法であるといえ、またそれは最近“続”で解釈を終えた荒の巻の表記、

“理の極の光の答の山路(大空間)(リのキワミのヒカリのトーのヤマジ)”

この“答(トー)”であると言い得ます。

自凝(おのころ)の強化 “その二十四” 1番目のオーラの強化に入るためのステップ

 今回の記事はここまで述べてきたこととかなり重複します。

 

 たった今の平均的地球人、これは霊的成長度が低いので、まず自分の人生の過ごし方として砌(みぎり)の“行”、生業(なりわい)を頑張る(元の気を張る)。

 またこの時点では、自分の人生において自分がやっていること事態に対し“行”という認識もないものであるし、頑張る理由は自分、あるいは自分の周囲の幸福に由来することであり、さらにその幸福感の低さ(幸福の概念は霊的成長度によって違うものである)ゆえ欲望の達成のため(通貨としての)金と“上”に認められない形骸の名誉を欲し実現しようとする。 

 これは霊的成長度が低い段階の“行”、低い心(靈)の成長の段階であり、その心(靈)の動きは本能、情動、功名心、自我、自分に対する愛(炁)、これらが中心。 

そしてその段階は2~3番目のオーラの“行”でもある。 

 

 だが“上”は人間を育て進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させようとしており、ある程度この生業(なりわい)の“行”において頑張らせて、低い幸福感をある程度満足させるが、その次の段階として右往左往=やってみてから失敗を体験させる。

 これは“上”の采配であり、自分の失敗を“神の咎め”として認識させ、それまでの生業(なりわい)の“行”がまっとうなものであったか、自分の人生がまっとうであったか考えさせることをさせて心(靈)を育てる。

 それが左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をすることに繋がり、自分の“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)の使い方、どう使うのが正しいか考える。 

 

 この考える過程において“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)(善と悪の認識も先の幸福同様、霊的成長度において違うものである)の認識も深まっていき、またこの認識自体がしっかり確立された者にならなければ心(靈)が成長したとは言えない。

 さらに“神の咎め”が自分を育てているものであることを認識(悟り、幸取=さとり)したならば、これまで言葉でしか知らなかった神に対する認識も深まっていき、

 

  •  神と人間の関係、神が人間を育てている
  •  自分の人生は心(靈)を育てるためのものである
  •  自分の存在の意義とはそこにあるのではないか…

 

こういったことを考えるようになる。

 

 これらは言葉では理解できるが、言葉で理解しただけでは認識(悟り、幸取=さとり)になり得たとはいえず、その言葉の意味の重大さ、重要な事なのだ、とはっきり解る、解らねばならない、理解でき認識(悟り、幸取=さとり)にならなければ心(靈)が育ったとは言えない。

 また、これら事態が自省(胸の磁性“十”)の“行”でもあり、自分がこの事象においてどう在るべきか考え、その考えのもとに“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を使う、これが右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということであり、に入り、さらに霊的成長、神に近付くにはとても長い道(“道”(時間の進行))があるからこそ、この右往左往と左往右往を繰り返すものではあるが、ある程度育ったならば、生業(なりわい)の“行”における程度の低い“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)の認識とは違い、さらに神と人間、神とは何か、神の子である自分とは何か、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)とは何か、について考え(“理(ミチ)”進化(霊的成長、神格化に向かうこと)の法則性)、そこ考えを認識(悟り、幸取=さとり)として自分の生き方、存在の在り方、これに対し活かそうとするものである。

 

 この段階に入って進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を求める、これが人間の在り方であることに気付く、自分の存在の意義と意味はそこにある、ということをしっかり認識していかねばならないものでもある。

 またこれ事態が最近読者会の宿題にしている“日月神示”表記の“善一筋”の意味合いの一つでもある。

 

 それで、先に述べた普通の人生における生業(なりわい)の“行”における右往左往と左往右往の繰り返しでは、先回述べたとおり、せいぜい“一”=智性=1番目のオーラは2cmくらいにしかならないが、“日月神示”表記の“富士(二二)”、肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道、その日足(ひたり)の極性は強化され、先回説明した通り左脳にたくさんの電流が流れている状態になり、この段階で太陽凝視に入るならば、“一”=智性=1番目のオーラは強化され、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の高い振動と感応し、“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して、心(靈)と肉体は創り替わるものであるが、先に述べた“ほんとう”に進化(霊的成長、神格化に向かうこと)を求める心(靈)の条件がそろっていなければ、“上”からの振動の高い部分とは感応し得ないで素通りする。

 それは“上”から送られてくる低い振動、結果として2~3番目のオーラの“行”中心であり、余談になるが、かなりまがい物が多い太陽凝視=不食という情報の根拠はここにあり、腹の“行”が進んだならば不食などということも達成しうるものでもある。

 しかしこれ事態が腹の“行”所以の自我の強化であり、それはまた自我の肥大に近く、ただ自分を示したい、自分はすごいのだ、すごいことをやっているのだという示威行為由来の太陽凝視に対する低い見識でしかないものであるし、こういった心(靈)の動き、息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応する動物霊は、著書で述べたとおりあまり食事をとらない爬虫類のようなものが多いと推測されます。

 

 次回も、人の一生における“行”について述べ、“一”=智性=1番目のオーラの拡大について説明することとします。

 

 

 

自凝(おのころ)の強化 “その二十三” 日足(ひたり)の極性は“一”=智性=1番目のオーラの発現と強化に結び付く

今回はタイトル通り、日足(ひたり)の極性が人(日止、霊止)の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)そのものである“一”=智性=1番目のオーラの発現と強化に結び付くことを述べますが、その前に先回使った画像の「下のエネルギーが上昇する様子」、これに相対する「心(靈)の動きが下降する様子」、これについて説明をします。

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まず、多くの人があまり気付いていませんが、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は人の心(靈)を育てている、そのために“上”の采配として様々な事象に遭遇させている。 その事象において人は“思惑の顕現”をする。 また、人には“幸福の概念”がある。 

それだからこそ“どういうつもり”で生き、何を成し遂げようとするか、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を付けてそれを示し、この世界で自分の欲するもの、(通貨としての)金、本能由来の欲望を満たしたい、形骸の地位と名誉、この形骸というのは“上”が評価するものではない、程度の低い人間が程度の低い人間を誉めそやしているという意味、換言すれば低い心(靈)由来の思惑の顕現、ということになり、これはたった今の成功者と評価されている人間に多いケースではある。

 

これらは右往左往と左往右往の右往の段階であり、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きでもあり、これ事態が先回も述べたとおり、2~3番目のオーラの拡大と強化になるが、“一”=智性=1番目のオーラの拡大と強化にはつながりにくい、あるいはまったくつながらないものである。 

 

さらにこの心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)に感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)する霊的存在は、“善悪”(神格化と、動物化=心の本能化)など理解できない霊的存在、具体的には(通貨としての)金に執着する動物霊などがほとんどである。

 

 しかし進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)においては、この段階も必須であり、これ事態が自我の確立=固定化、自我の強化、ということになっていく。 

それでこの過程をある程度こなしたならば、“上”としてはその人間に成長のための試練として、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をさせる、ということをする。

 

前後しますが、右往左往の右往の段階は、低い心(靈)の動きであるし、こういった心(靈)の動きでは人間が神の思惑を認識して実現させなければならない“絶対の善”にはつながらない、また先回ローム太霊講話集から引用した

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち

この“神自身の本当の気持ち”を人間に実現させることにはなり得ないものである。

 

そして右往左往の右往の段階は、画像の「心(靈)の動きが下降する様子」心(靈)の動きが、本能、情動、功名心、自我、までであり、脳も目下(めした)(動物の心(靈)の段階)(大脳旧皮質と古皮質)における心(靈)の動きである。

 

 これに相対し、右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、この左往においては、自分がやってきたこと、その失敗自体を自我の日足(ひたり)の極性である“思う、憂う”ということをする、それはなぜ失敗したのか、何が間違っていたのか、などを鑑みるようになるが、このこと事態が左脳を使うことになり、左脳にたくさんの電流が流れ脳のタンパク質の高分子化も起き、目上(めうえ)の脳の水平磁場の強化になり、それが画像の「下のエネルギーが上昇する様子」ということになっていくものである。 

そして左往右往の左往、失敗を鑑みる、自省(胸の磁性“十”)する、これによって自分が今後、何を考え何を実現するか、自分の在り方を考えるようになっていき、この心(靈)の息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)には“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)が感応共振(同調と、取り込んだ振動の増幅)するものである。 

大体ここまでが普通の人生においてほんの少しだけ“一”=智性=1番目のオーラが大きくなる過程で、それでも太陽凝視を行っていない人間の“一”=智性=1番目のオーラは、せいぜい2cmくらいまででしかないものです(これはアタシの観測結果)。

 

 さらに肉体はここまで述べてきたように1番目、2番目、3番目のオーラの発振、発信の構造の違いがあり、

画像の「下のエネルギーが上昇する様子」、この仕組みについて未刊行の著書の原稿<7>よりいかに抜粋させてもらいます。 智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現について以下の文章の下線を引いた部分に着目してください。

 

「神さんの思惑…創造を人に託しエネルギーを送っている。それは、普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)として…そしてこの世界の創造=顕現は、人の仕事…使命……」

「うん。…そして今回Kellyが感じたように、創世の神話っていうのは心の動きのことをいっている。そして、物質世界=三次元の事象を認識しているのは、アタシたちの意識(日に立つ心(靈)を認識する)で、意識活動=認識=創造であること。それは電磁波の受発信と同義であること。そしてアタシたちの霊って呼ぶ何かは、心と同義であること。神のオーラ=普遍的に実在する創造主のオーラ(宇宙背景放射)とアタシたちの心(靈)との相互干渉であること。神のエネルギーを利用して取り込んでこの世界を創っていること。(それが靈って字に示されている…)その仕組みは“日月神示”のf:id:tuyukusanotuyu:20170125184223j:plainであること。人の肉体の中の磁性由来のローレンツ力だ。そして、アタシたちが…人が、良いカタチの想像をし=思い、思った事を顕現=実現し、行動に移し、そのこと自体を、“創造”を成すって認識できる。それは、天国とか…“善悪”(神格化&動物化=悪=亜の心=心の本能化)とか、いろんな話をしてきたんだが…アタシたちたちは時間を認識しながらこの世界に位置している。物質を伴いながらね。その物質の次元を“創造”する“力”が、腹の右往左往と左往右往、腹って位相の、水の中の荷電粒子の移動と増幅、それが、軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”だと思う。

そして腹のエネルギーは“いきり立つ心(奴と心)”と“思う、憂う”…その心の発現と動き。それは、本能って心の発現が…そのエネルギーが少し上昇した状態が、軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”。

さらにそれは上昇し、大日如来の条帛(じょうはく)のように、左肩から、左胸前、腹前を通って背面に回る。条帛(じょうはく)の先は、左乳前で下側を通り腰布の先端にかかる。しかしこれは衣を表現した言い方で、順序が逆だ。それはチャクラの覚醒と、(愛(炁)の顕現の程度で差を認識する)進化過程による心の発現の段階を示している。

そして、軍荼利明王って字を一つ一つ観ていくと、軍荼利明王の“軍”は、車に(冖)ワかんむりっていうのかな? これは冖部(べきぶ)ともいうらしいけど、(冖)の字は、布で物を覆うことを象徴していて、覆うことに関する事柄を示すらしい。これは横隔膜のことだと思う」

「なるほど…水の中=腹で右往左往するエネルギーを電気抵抗値の違うもので、覆ってるみたいなもんやな」

「そう、それはコンデンサー。特定の周波数しか通らない。コンデンサーは、電気を溜める性質を持っており、交流電流は通すが直流は通さない性質がある。コンデンサーとコイルは、周波数特性を持っており、高周波電流は伝えやすく、直流に近い低周波は伝えにくい性質がある」

「…それは、高い振動しか伝わっていかんってことでんな」

「そう。そしてその特定の振動がアムリタであり、そのことを示した言葉がクンダリーニでもあり、それを象徴的に示しているのが、Kellyが気がついた如来の条帛(じょうはく)でもあると思う。

そして、手足の神経は大体コイル状、サイクロトロンのための比較的安定した磁場を構成している。それに対し、頭と腹はコンデンサーの性質を持つ。それは、溜め込んだエネルギーを縦に循環させている。ただし、頭と腹とでは振動の種類が違う。どちらが高いかなんてのは一目瞭然だが、高い振動は低い振動を制御するって言えばいいのか…三次元の創造=腹の“力”の顕現は、神性で行われるべきだ」

「それが…そのこと自体が、人の肉体が、頭と腹を持っている理由ってことでんな」

「うん。頭だけでは…智性と神性だけでは、物質世界の創造はできない。“いきり立つ心(奴と心)”と“思う、憂う”…それがなくては、神の智慧(日を知ること=智性の恵み=慧)の顕現ができない。そして、人が顕現させなくてはいけないってことだ」

「それが翡翠(ヒスイ)の卆…最後の仕事ってことでんな。それも“日月神示”の“カイ(下の位相)の御用”…ほんでからに、水の中の右往左往と左往右往“櫂(かい)”の御用…の、意味かもしれませんな」

「そうだね…多分そうだ。そしてね、日月神示の中の表現として“江戸と尾張”…この言葉も頻繁に出てくるんだが、江戸は“江”と“戸”…“江”は大きい川の流れっていう意味があり、それは揚子江の“江”で使われる字でもある。腹の中の流れ=軍荼利明王、荼枳尼真天の“荼”と同じ意味だろう。そして“戸”は、冖部(べきぶ)と同じ意味だと思う。横隔膜…電気抵抗値の違う組織だね。

そして“尾張”は、“尾”は尾骨、尾骨に眠るエネルギーがクンダリーニ、それを眠らしておくのではなく、張れってことだと思う。それは“力”の獲得のために頑張る…元を張る…そういう意味のことだと思うんだが……。さらに“日月神示”には“外国”って表現もあるが…これは外側の事象の観察だと思う。国っていう字は、囗(くにがまえ)に“玉(ぎょく)”…これは自分の場(フィールド)を表した言葉だ。だから自分の心の動きの“外”…“国”の外ってことだ。

だからそれは、この世界の創造は…物質世界の三次元の創造は“カイの御用”で、自分の外側=“外国”の創造で、それがアタシたちの神から託された仕事だからだ。

 

自凝(おのころ)の強化 “その二十二” 自我における日足(ひたり)の極性の発現

先回述べたとおり、肝=“いきり立つ心(奴と心)”、腹における心(靈)である自我の砌(みぎり)の極性で生業(なりわい)の“行”を頑張る(元の気を張る)のは、(通貨としての)金が得たい、名誉や名声を得たい、その裏には物質欲、本能由来の欲望(美食の賛美、性的な欲求)の達成などがあり、低い“幸福の概念”に由来することでもある。

 

これは人間として高い心(靈)で行動しているのではないし、これ自体が“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の霊的成長度の心(靈)の思惑の顕現、それは“どういうつもり”で事をなすのか、に相当することであり、この段階の生業(なりわい)の“行”は、人間が持つ自我よりも高い心(靈)の、智性(神性)、智慧(日を知る事=智性の恵み=慧)、“創造”、“慈悲”と“慈愛”ゆえの自分に対する“厳しさ”、これらの獲得にはつながりにくいか、全くつながらないものである。

 

 こういった人間が大多数なのがたった今の地球の現状であり、この世界には奪い合いと騙しあいが横行しているが、それを容認している人が大多数なのが今の事象でもあるし、これを変えていくこと事態が、霊的成長度の高低における区分けであるアセンションの意義でもある。

 

 それで神は、人に奪い合いと騙しあいの世界の“創造”を望んでいるわけではないが、この奪い合いと騙しあいをしていかなければ、善と悪の認識(悟り、幸取=さとり)を確たるものとできない事情がある。

よって、この低い心(靈)の動きによる行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)をある程度行わせるものである。 

 

また、このこと事態は、程度の低い者は程度の低いなにかを求め実現しようとして自分のエネルギーを贖う(あがなう)ということであり、平均的地球人の生業(なりわい)はこれがほとんどを占めているものである。

 

 しかしそれではローム太霊がローム霊訓講話において述べた(ローム太霊講話集第二話)、

 

何とかしてこの地球を、凡ての人間が不幸から救われて愉快にたのしく暮らせる楽土にしたいという、神自身の本当の気持ち”、

 

この“神自身の本当の気持ち”を人間に実現させることにはなり得ないものであり、奪い合って自分だけが得をするという心(靈)の動きはこの世界を崩壊させ最終的に殺し合いにしかなり得ないものであることを著書で述べましたが、これが右往左往と左往右往右往、“上”から観て腹における荷電粒子の右回転、それは砌(みぎり)の心(靈)の動きだけで行動していることに相当するものである。

 

 この右往だけでは心(靈)が育ったとはいえないから、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)は、生業(なりわい)において失敗させる、トラブルを経験させる、という試練を課すものである。

 

 その際には、自我における日足(ひたり)の極性、脾=“思う、憂う”が強まるので、“上”から観て腹における荷電粒子の回転は左回転となる。(左往) 

これに関しては“日月神示”を読んで気づいたことなので“日月神示”の表記の説明画像を以下に貼っておきます。

 

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 また全身においての日足と砌(ひたりとみぎり)の極性について“続”で使った画像を以下に貼っておきます。 (“日月神示”表記の“富士(二二)”=肉体の二つの磁性、日足(ひたり)と砌(みぎり)、ヨガで言えばイダとピンガラ、太陽の気道と月の気道)

 

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 これに関してはこの文章を読んだだけで理解しにくいでしょうから具体例を一つ、スポーツ選手がよい結果を出している期間があってもその後スランプなどに陥る、この時のスポーツ選手の苦悩そのものがその人間の心(靈)を育てようとする“上”の課した試練であり、その苦悩があってこそ心(靈)は育ち、さらに良い成績を収める、あるいはスポーツ選手とは違う人生を歩む、という結果になる。

同様のこととして、例えば事業を起こし最初はうまくいっている

砌(みぎり)の“行”を“上”はさせているが、それはいつまでも続かず問題が起きたりして窮地に追い込まれる

“上”が試練を課して日足(ひたり)の極性の強化の“行”に入る

 

など、実際の事例に当てはめたらきりがないですが、何事も自分たちにとって都合の良いことばかり起きると言うことは続かず、必ず何かが起きて苦悩する。

これは“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配として苦悩させるものであるが、この苦悩が日足(ひたり)の極性の強化となっているものであり、自我より“上”の心(靈)を育てようとする“上”の采配であるということになり得ます。

 

次回は、日足(ひたり)の極性による心(靈)の発現と変容について述べることとします。

自凝(おのころ)の強化 “その二十一” 砌(みぎり)の極性と生業の“行”(2~3番目のオーラの“行”)

先回述べたとおり、人には“幸福の概念”がある。

それゆえ人は“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を欲し、獲得して行使して“力”を示したい。 

 そのために自分は頑張る(元の気を張る)。 

それは霊的成長のための“行”ではなく、その前段階としての“業行”において頑張る(元の気を張る)、そして“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を獲得して、それを他者に示し行使して、その代償として、(通貨としての)金や権威や名誉などを求める。 

 

これは平均的地球人の霊的成長度、自我の確立=固定化、その過程においての心(靈)の動きであることを著書やブログで幾度も述べていますが、これ事態が“力”の使い方としては低い段階であり、これこそが“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”の心(靈)の動きによる“力”の使い方である。

そしてその心(靈)の動きは、肝=“いきり立つ心(奴と心)”であり、自我における砌(みぎり)の極性の現われである。

 

但しこの段階、自分が頑張ることにおいては、人間は動物と違い目上(めうえ)の脳が発達しているからこそ、善悪の考察というのは多少ある。

だがそれをあまり考えず、とにかく“力”を獲得し行使することを中心に生き、そこにおいて自分の損得を考える。 

これは自我の発達と強化のために、自分をこの世界、この事象、もうひとつ“日月神示”表記の“外国”において示したいものであるが、これは智性(神性)の獲得には直接つながらず、霊的成長度の低い“行”と言いうる。

そしてこの低い段階の“行”があってこそ、ローム太霊が述べた右往左往と左往右往、それは右往左往=やってみてから失敗を体験し、左往右往=失敗を体験し、それを教訓として“力”の顕現(砌(みぎり)の行)をする、ということになっていくのですが、この過程を経ていかなければ、“力”の使い方、それは“世為人為”(S会=紫光会の経文、四空経録の中の言葉)ではありますが、自分は“力”を獲得したならば、こう使わねば、“力”を持った人生においてこうしなければ、こう在らねば、という認識にはたどり着かない。

 

 前後しますが、この段階は“行”というよりも、修業や修行という言葉の方が適切。

しかし何かを求め頑張ることは、肉体内の生体内電流の強化と変容になり、それがオーラに反映し=息吹(自分の心(靈)が吹く、発振、発信)となり、頑張る過程で心(靈)も育っていく。

 このことを述べた著書の<4>の文章を以下にコピペさせてもらいます。

 

“さて、オーラが大きくなるということがどういうことなのか、神経系の電流量が多くなると、骨と神経は電磁石だから磁場が大きくなる。神経に電流を流すことは、何かしなければならない。安静時でも、体の新陳代謝のために神経系には電流が流れているんだが、例えば、スポーツで筋肉使ったりすると、筋肉痛になるが、その時は、筋肉の細胞の新陳代謝が行われていて、使う前の筋肉より、レベルの高い細胞を創り出そうとしている。

 その過程で、神経系の電流を知覚神経が感じるから、痛みとして認識する。このことは言い換えれば、生体内電流の増幅と言える。筋肉や内臓は、蓄電池のように生体内電流を溜め込むことができる。溜め込んだ電流で、より以上に神経内の電流を多く流せる。肉体を使うときにね。そうして2、3番目のオーラの基底が構成されている。

すべての神経内の電流は、視床下部を通り脳に伝えられる。般若心経に対するアタシの私見で、羅、という字の説明したこと、思い出してね。視床下部を通り、脳に伝えられた電気的情報と、感情と思想、記憶など脳内の神経の働きで、1番目のオーラの基底が構成される。神経系に多くの電流を流し、オーラを大きくして、それに伴い肉体を作り変える事を、行、修行と呼ぶんだと思う。それが、アタシの修行の解釈(見え始めた日 参照)”

 

これに対しKellyさんはこうつぶやいています。

 

“先生の説明……“神経系に多くの電流を流し、オーラを大きくして、それに伴い肉体を作り変えることを、行、修行と呼ぶ”……この言い方は少し足りへん感じ…心が変わっていくやんか。それが霊的成長やし…ほんでからこの時点で、認識することについてはあんまりいうてない。

この時は多分、Kellyさんの認識の程度に合わせた話やったから、心身ともに作り変わる…そういう言い方をせ~へんかったんやろな。

それは、心の反映が肉体…こういう言葉の理解…Kellyさん自身の認識…そういう言葉に対する深い理解が、Kellyさんになかったからからやな。

ほんでからに、霊的成長=心の成長=認識の変容=電磁波の吸収=オーラの拡大と高振動化…こういう話を、この間うち聴いてたから、今ならこの先生の言い方と、行と修行…この言葉の意味も解る”

 

 それでタイトルの「砌(みぎり)の極性と生業の“行”(2~3番目のオーラの“行”)」この段階においての“上”からの振動の取り込みは、先にも少し述べましたが、智性(神性)の獲得には至らず、2~3番目のオーラを構成する振動を止め、それを発振、発信する。

この段階で“力”を示す、(通貨としての)金を儲け名誉や権威を獲得し物欲を満たす

低い幸福感を得る。

 

 しかしそれでは人間としては低いので、先に述べた右往左往と左往右往により、自分の在り方を考えるようになるが、これこそが“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)の采配と言え、人生における試練を“上”から与えられ苦痛や苦悩を体験し、そこで得られた教訓を活かす人生を送るようにとなる。

 こうして心(靈)は育っていき、智性(神性)を獲得する素地を得ていくものですし、その過程においては日足(ひたり)の極性の強化がある。

 次回は、日足(ひたり)の極性について述べることとします。

自凝(おのころ)の強化 “その二十” “行”の意義について簡単に

 

ここまで、きわめて下等な生物から人間までの進化を述べてきた理由は、肉体の発達、それに伴う心(靈)の進化、そこには生体内電流の強化と変容、磁束の発現と“上”からの振動を取り込むためのローレンツ力の強化と変容がある。

これらを理解しておかないと、“行”の意義ということに進めない。

 

それで“行”そのものに対することとして、これ事態は人間における認識であり、当然のことながら人間以下の動物に分ることではありません。

 

それで今“人間における認識”ということを述べましたが、なぜ人間が“行”に対する認識を持つか、それは人間、人(日止、霊止)が地球上において他の生物より最も進化した、地球上で一番“上”の生物であり、一番進化したからこそ

目上(めうえ)の脳の発達があったからこそ、神と自分、幸福の概念、善悪の認識と判別、など、発達した心(靈)所以の認識が出来上がったものであるし、重複しますがこれは目上(めうえ)の脳で発現する心(靈)、智性(神性)由来のことである。

 

この認識の中の“神と自分”、自分に対し神が“上”である、神に近付きたいと思う。 

そして“幸福の概念”があるからこそ、“力”(力、知恵、知識…学問…能力、そして霊能力を含む)を欲し、行使して“力”を示したい、その“力”の行使において“善悪の認識と判別”をしていくものであるし、これ事態が神に近付くこと、“善(神格化の方向性と智性の受信)”のためのことである。

 

簡単にまとめましたが、こういった事柄があるからこそ、人は“行”を求め実践するものである。

 

ただし、霊的成長度の低い心(靈)を持つ人間の“行”の概念はとても低いものであったりもします(例えば、当たり前の感謝、それ自体を“行”と称するなど、こんな認識では厳しい“行”には入れないものと推察します)。 

そして大多数の地球人の霊的成長度は低い、自分たちにとって都合の良いものばかりを選択する傾向がある、

よって一般の“行”の概念は、

“役員づら”(形骸の宗教や、アセンションや霊的成長に対し、甘い夢を見させ偽の情報を流すたぐいの人たち、それは悪魔の傀儡(かいらい、くぐつ))

らの行いにより、まったく程度の低いものになっている感があります。

 

 本題に戻り、何のための“行”なのか、それは“行”によって進化=霊的成長、神格化に向かうこと、これを実践し、“行”によって心(靈)が育ち、高い“行”をするならば(“一”=智性=1番目のオーラの“行”をするならば)“創造”の“主(ヌシ)”の思惑を理解し、認識(悟り、幸取=さとり)として、それを行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かす。

換言すれば、神の思惑を理解して認識としてこの事象の“創造”を果たしていく。

これ自体“創造”の“主(ヌシ)”が“創造”した生命(生きる使命=存在理由)の役割、高い使命である。

 

この事を踏まえて次回から“上”と“下”の“行”について述べていくこととします。

自凝(おのころ)の強化 “その十九” 人(日止、霊止)における心(靈)と“一”=智性=1番目のオーラの発振、発信

 まず、ここまで述べてきたことと重複しますが、アタシの心(靈)に対する認識を以下に列挙します。

 

  • 心は霊である。
  • すべての生物は、心と肉体、この両方で現界において=三次元においての生命活動を行うものである。
  • 生きている間は肉体と心(靈)(の一部)は同じ位相に存在するが、死は肉体に心(靈)が存在しえない=肉体に位置できない状況を指す(生体内電流の消失)。
  • 肉体に心(靈)が発現する理由と根拠のひとつとして、肉体の磁束由来のローレンツ力がある。 
  • 肉体の磁束由来のローレンツ力で“上”からの振動を止め、溜めて、心(靈)は発現しており、肉体の進化に伴うローレンツ力の強化と変容は、心(靈)の構成要素としての“上”からの振動、肉体による磁束で“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これを取り込んで心(靈)を構成しているものである。またこれが古神道の表記、“日止、霊止”の意味である。
  • 霊は肉体の磁束で取り込んだ“上”からの振動、これを止め、 “臓腑”の“臓” などで溜めて、生命活動により増幅し、これを回転させ、円形粒子加速器サイクロトロンやシンクロトロン)の構造で発振、発信し、それが1番目、2番目、3番目のオーラである。
  • 東洋医学の概念、“五臓”(心・肺・脾・肝・腎)は、心(靈)の動きの増幅器官である。
  • 霊が肉体に位置している間は、肉体の磁束由来のローレンツ力と、肉体に備わる水平磁場により回転しているが、これが、本来のヨガの概念、チャクラの意味である。
  • 生命活動は肉体内の電磁誘導になり、その電磁誘導で、タンパク質の高分子化が起き、それによってローレンツ力の強化と変容が起きているものである。
  • 地球上において最も心(靈)が進化した生物は人間であり、肉体の進化に伴い“上”からの振動の取り込みの段階が違うからこそ、下等な生物と高等な生物、という認識が出来上がっている。
  • 人間の心(靈)が地球上の生物で最も進化した理由は、目上(めうえ)の脳(大脳新皮質、“田”(心、靈、の四つの場(フィールド))で止めている“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意、これが智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)になっているからである。
  • 智性(神性)の行使は、脳のタンパク質の高分子化に繋がり、“上”からの振動のより高いものと感応していき、それによりますます智性(神性)は高まるものである。
  • 頭部と、脳は、コアメモリー(磁心記憶装置)の構造を持ち、これは心(靈)の動きそのものである。
  • 進化(霊的成長、神格化に向かうこと)は、肉体の変容に伴う心(靈)の進化、そして自分の心(靈)の智性(神性)の行使と、肉体のタンパク質の高分子化(“行”の意義)により、さらに“上”からの振動を取り込み、溜め、生命活動で増幅して発振、発信し、行動(現津(あきつ)、観察され得る事象に対する思惑の顕現)に活かすが、これ自体が神に近付くことである。
  • “創造”の“主(ヌシ)”にとって生命(生きる使命=存在理由)とは、フラクタル(fractal)(自己相似性、相似象、自然界のデザインにはどこか共通したものがある)である。 ただし、たった今の地球人のフラクタルに対する認識は、形状に由来するものでしかなく、心(靈)が“創造”の“主(ヌシ)”とフラクタルであるという認識がない。
  • これは、この事象一切を構成する振動、それを取り込む心(靈)=個々の生命、という点でもフラクタルである(宇宙は巨大人の構想を持つ、というエマニエルスエーデンボルグとアタシ自身の認識)。
  • 個々の心(靈)自体は、“創造”の“主(ヌシ)”の心(靈)に包括されているからこそ、心(靈)の構成要素としての“上”からの振動の取り込みの高低があって“善(神格化の方向性と智性の受信)”と“悪(心の動きの本能化と低振動化)”の事象が認識されても、すべては“創造”の“主(ヌシ)”の心(靈)の内のことである。
  • 地球人が“観察と認識”しているたった今の事象は、“創造”の“主(ヌシ)”の腹の“行”、右往左往と左往右往の段階であり、その“上”、それは慈悲と慈愛の“行”に移行するが、これ自体がアセンションと認識されうることそのものである。

 

 大体、以上のようになります。

それで人間として最も進化した心(靈)の動き、これには脳における電磁誘導がある。

末梢の電流、五感による情報はすべて中枢に送られて、頭部内の電磁誘導に関与しますが、これ自体が外側(外国と幽界)の事象の“観察と認識”であり、それにより、脳を使う、記憶、思考、認知、などにより脳内に電流が流れ、脳内の電磁誘導になり新たな電流が派生し、それと“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意を止めて溜めていることが加味されている。

これらで目上(めうえ)の脳内に流れる電流になっている。

それで目上(めうえ)の脳で発現する智性(神性)、これは“一”=智性=1番目のオーラになり、その仕組みは以下の画像のようになります。

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 この水平磁場により、“一”=智性=1番目のオーラが発振、発信されていますが、これは天使の輪のようにもなり、西遊記で示されている頭部の金色の輪のようにもなる。

 これを“上”に聞いたら金弧、という答えを得ましたが、緊箍児(きんこじ)、禁箍児(きんこじ)、金箍児(きんこじ)という表記が古典にあり、この表記の意味は自分を戒めるもの、ということで共通のようです。

 この自分を戒める、という心(靈)の動きそのものがたった今の地球人の進化(霊的成長、神格化に向かうこと)に必須であることは幾度となく述べてきました。

 それと、人間が感じ得る最も高い振動、光、それは視神経を流れる電流となり、光を感じ(感じる磁性)て、目上(めうえ)の脳の直下の視神経内の電流量を増して脳のタンパク質の高分子化を励起するのが、太陽凝視です。

自凝(おのころ)の強化 “その十八” 肉体はコアメモリー(磁心記憶装置)の構造を持つ

 

 肉体の進化の過程は、まず地球上における生体物質の発生、そしてもっとも下等な生物である原核生物から人間までの進化であり、その過程では、 

  • 肉体の磁束の強化と変容、進化した生物は骨と神経の発現と発達があり、電磁石の構造の強化と変容になり、これらはローレンツ力の強化と変容となる。 またタンパク質の高分子化もローレンツ力の強化と変容に関わる。
  • “上”からの振動を止める仕組み、肉体はコンデンサーの構造を持つ、ことに“臓腑”の“臓”は心(靈)の動きに関わる。
  • 生体内電流の肉体内における電磁誘導、それは生命活動と生命維持活動によるもの。 生命活動とは生物、または生物における臓器や細胞などの組織が、生命を維持するために営む活動。 生命維持活動とは、生物が生きるために必要な、食事・睡眠などの行為、また、心臓の拍動・呼吸・筋収縮・消化・排泄などの生理機能の意。

 

これらが観られることを述べてきました。

 

 先回も述べましたが、進化の過程とは、霊的成長の過程であり、それは普遍的に実在する創造主のオーラ、これを進化した生命体である天体がそのローレンツ力によって取り込み増幅して発信している電磁波、さらにそれと“創造”の“主(ヌシ)”の振動、この両方を取り込んで発振、発信している地球における太陽、それら“上”の振動との感応共振の段階でもある。

 

その“創造”の“主(ヌシ)”のオーラ由来の振動は天意であり、生命を発現させて進化(霊的成長、神格化に向かうこと)させる思惑そのものであり、それを人間のつたない科学で観測すると電磁波と認識されうるものであるし、今の人間の科学では観測できない振動も、“上”“下”に関わらず存在すると思います。

 

これらの取り込み、そしてそれを肉体に止めて生体内電流とする。 それが心(靈)そのものである。

そして心(靈)の存在と活動は、肉体がコアメモリー(磁心記憶装置)の構造を持っているからであるという私見を持っております。

 

 用語解説 コアメモリーについてWikipediaから引用

 

 構造と記憶の原理 
 一般的な磁気コアメモリーについて、その構造と記憶の原理について説明する。

磁気コアメモリーは、小型のフェライト磁性体のリング(コアという)にケーブルが通されたものが、格子状に多数配置された構造になっている。 コアの一つが1ビットの記憶容量を持つ。 
 一つのコアに対しては、書き込み用ケーブル2本と読み出し用ケーブル1本が通っている。書き込み用ケーブルは格子状に配線され格子点にコアがある。 格子の縦横各1本の書き込み用ケーブルを指定すると、一つのコアが定まるわけである。これがビットアドレスの指定になる。 コアは1本の書き込み用ケーブルに電流を流しただけでは磁化しないが、2本に流せば磁化する磁気特性を持っている。

あるコアにデータを書き込むには、そのコアに対応する書き込み用ケーブル2本に電流を流して磁化させる。電流の方向によりコアの磁界の向きが決まり、それにより0か1のビット値が決まる。 なお、磁化されたコアは、電流が止まっても磁化した状態を保持するので不揮発性のメモリということができる。 
 あるコアのデータを読み出すには、そのコアに対応する書き込み用ケーブル2本に電流を流し、読み出し用ケーブルの電流を検知する。このとき現在のコアの磁界の向きが逆転するようであれば、読み出し用ケーブルに電流が流れる。 逆転しない場合は、読み出し用ケーブルに電流が流れない。 これによりコアのビット値が判明する。 しかし、データを読み出すときに、書き込み用ケーブル2本に電流を流すのでコアが磁化されてしまい、読み出し前の内容が失われてしまう(非破壊読み出しができない)。 このためコアの内容を保持したい場合は、再度、データ書き込みをしなくてはならない。


 引用終わり。 

 この説明では、生物の肉体がコアメモリーの構造を持つと言うことを説明するのには不十分なので、補足として、物質は電荷を持つから、リング状の組織の中心に電流が流れれば、それはコアメモリーと同様の働きをする。  

(学者は、強磁性体にしかコアメモリーの原理を見出せないし、大きな電気的変容にしか目が行かないのでこの事柄に気付いていない) 

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 コアメモリー(磁心記憶装置)の構造が観られる理解し易い組織としては骨格が挙げられます。 それは、すべての骨は骨の外側が灰分(かいぶん)であり、内側は磁性体を含んでいる骨髄があり、頭蓋骨においては磁性体を含んでいる脳がある。

 骨以外にも、磁性体を含んだ組織、筋肉や内臓など、リング状の器官はすべてコアメモリーの構造を持つと思え、最小のリング状の組織は、遺伝子だと思われます。

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 これらコアメモリーが、心(靈)の発現と動きに関わっているものであり、“上”からの振動を取り込んで心(靈)が作られ、自らの生命活動と生命維持活動により心(靈)を変容させ、さらに外側(外国と幽界)の事象からの振動を取り込んで進化しているのが生命である。  

 この外側(外国と幽界)の事象の振動に関しては、人間の進化した肉体の脊椎、 

  • 頸椎7個、これは光(可視光線)の波長、赤 橙 黄 緑 青 藍 紫に相当
  • 胸椎12個 これは音の振動、12音階
  • 腰椎5個 これは物質の構成要素としての五行、木火土金水 

これらの振動を止めているという私見を持っております。

 

 本題に戻り、“上”からの振動の取り込みの変容、取り込む振動の高振動化が進化過程であると言いうる。

 さらに、心(靈)の進化は、霊的成長であり神格化であり、目上(めうえ)の脳、大脳新皮質と頭蓋骨のコアメモリーの構造は、智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)に関わるものであり、それが人間と人間以下の生物の違い、心(靈)の発現と動きの違い、ということになり得ます。

 

自凝(おのころ)の強化 “その十七” 目上(めうえ)の脳の発達

 ここまで“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込みとして、肉体の磁束の説明をしてきました。

 その“上”からの振動の高低により、下等な生物は低い本能しか発現していないが、生物は進化していくと“上”からの振動の取り込みもだんだん高い振動を取り込み、“臓腑”の“臓”に止めて溜め、心(靈)の発現をしていく、それは著書の<3>で述べたとおり、本能、情動、功名心、自我、愛(炁)、創造、知恵、智慧、智性という振動、である。

(ちなみに“五臓六腑”(ごぞうろっぷ)という概念がありますが、なぜ六臓ではないのかに関して、六番目の臓は脳であるという私見を持っております)

 これがアタシの思う進化の過程、それは霊的成長の過程であり、肉体と心(靈)が“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)して進化して、普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振をする、それが、下等な生物、高等な進化を果たした生物、という分類になっているものである。

 

 それで、動物以下の生物と人間の違い、人間においては目上(めうえ)の脳で、智性(神性)を発現させていくものである。 その智性(神性)(“一”、1番目のオーラ)(日を知る性質)の発現の要素として、

 

  • 末梢神経から脳に伝わってくる神経内の電流は、中枢としての脳幹や脳で電磁誘導を起こす
  • 体液(体内にあるすべての液体、血液・リンパ液・脳脊髄(のうせきずい)液など)が錯体であり、錯体は電荷を伴っているので全身で電磁誘導が起きているが、当然、脳でも電磁誘導が起きる
  • 血液は磁性体を多く含んでいるので、肉体、ことに手足はアンテナの構造を持ち、“上”からの振動を止めているが、それを磁性体で脳に運んでいる。 ちなみに血液の全身への血液の分配は、安静時、脳に約15%、冠状動脈に約5%、肝臓と消化管に25~30%、腎臓20~25%、骨格筋に15~20%、皮膚などに3~6%、その他の脂肪や骨に約5~10%で、器官、対、血液の配分比ということを考えれば、脳に来る血液は多い

 

これらのことが挙げられますが、目上(めうえ)の脳に対する影響として、眼球から視神経へ流れる電流の影響は大きいと思いますし、実はこれが太陽凝視の秘密でもあり、これによって脳のタンパク質の高分子化が起きているという私見を持っています。

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自凝(おのころ)の強化 “その十六” 頭部で発現する磁束 

 頭部における、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の取り込み、その仕組みとして考えられることを画像で示します。

 

 まず、骨格による仕組み。

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 次に、脊髄(脊椎動物のもつ神経幹。脊椎の脊髄腔の中を通り、全身に枝を出す)と脳幹(延髄、橋、中脳)で発現する磁束。

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 次に、脳幹と大脳新皮質で発現する磁束。

 著書で述べたように、進化した生物である人間は、大脳新皮質(目上(めうえ)の脳)が大きくなっており、この左右に分かれる磁束で取り込む“上”からの振動が、人間という進化過程(霊的成長の過程=普遍的に実在する創造主のオーラとの感応共振の段階)において初めて発現する、智性(神性)という心(靈)の元であると考えられます。

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自凝(おのころ)の強化 “その十五” 頭部で止まる“上”からの振動

物質としての肉体の構成要素は、タンパク質、脂肪、体液などの水分、無機質(灰分(かいぶん))です。 

それでここまで、二~三番目のオーラの発振、発信のことを述べてきました。 

これを簡単にまとめると、三番目のオーラは腹腔内の内臓と体液で“上”からの振動を止めて回転させている。 二番目のオーラは胸腔内の内臓と呼吸による空気の貯留、そして肋骨などで、“上”からの振動を止め回転させている。

これに相対し、頭部の構成、先に述べたタンパク質、脂肪、体液、無機質(灰分(かいぶん))を腹腔と胸腔、これと比較するならば、無機質(灰分(かいぶん))が最も多い部分です。 解り易いので骨格図を以下に貼っておきます。

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また頭部にある脳や眼球を構成するタンパク質は、人体の中で最も高分子化したタンパク質で構成されています。

この腹腔、胸腔、頭部、を構成する構成要素の違いが、それぞれのオーラの元となり得るのですが、頭部、ことに脳に関しては複雑な磁束の発現があると思えます。 次回から脳で発現する磁束、アタシの仮説的な事を含め述べたいと思います。

 

自凝(おのころ)の強化 “その十四”胸腔内で止まる“上”からの振動と二番目のオーラの発振、発信

 さて、下等な生物から高等な生物への進化の過程では、魚類から少し進化して両生類(カエル、サンショウウオなど)となり、水中と陸上で生活するようになります。 

 その際の肉体の変化は、鰓(えら)による呼吸から呼吸器(肺や気管支など)の発達があり、たくさんの空気を取り込むようになっていきます。

 それで、“その十二” 腹腔内においての心(靈)の発現 においては、体液で止まる“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動、天意の説明をしました。 それは人間の腹腔内と軟体動物以下の進化の過程で止める“上”からの振動はほぼ同種のものであり、心(靈)の発現も低い振動しか止まっていないものであるし、下等な生物と高等な生物の共通の心(靈)は、本能である、その根拠となり得ることと言い得ます。 

 これに相対し、魚類より進化した生物の胸腔内には常に空気が留まっている、もうひとつ、胸郭を構成する肋骨や胸骨などの骨、灰分(かいぶん)があることが指摘でき、これは腹腔と胸腔では、“上”(宇宙の中心と太陽)からの荷電粒子の振動の止まる種類が違うものであり、これを脊椎の縦の磁束で回転させている、画像で示します。

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  また両生類は魚類と違い、手(人間以外は前足と称するのが妥当)の発現があります。 それで胸腔内においても“その十三” 三番目のオーラの発振、発信 で足の磁場について述べたのと同様に、手と肩甲骨に水平の磁場が発生するものです。

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この磁場の影響を受け、胸腔内の荷電粒子の回転の速度が上がり、さらに先回説明したサイクロトロンに観られる回転の上下の回転の揺れは小さくなります。

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  これが先回同様、大ざっぱですが二番目のオーラの発振、発信の仕組みです。

 

 それで、今回説明したことは心(靈)の発現と同義ではない、二番目のオーラが大きければ“慈悲”と“慈愛”や自省(胸の磁性“十”)の心(靈)が豊かであるとはいえない、手の発現した生物にすべてこういった心(靈)の動きがあるわけでもなく、人間においても自我中心、“われよし”“自己奉仕者”“自分に対する愛(炁)しか発現していない人”は、こういった心(靈)の動きがあまりない。

 これに関しては脳、ことに目上(めうえ)の脳を巡る血液の磁性体としての影響がありますが、この詳細は後述することとします。